第11話 作戦
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痛ぇ。くそ、マジで痛え。
高橋は、なんとか両の脚で崩壊途中の床を踏みしめた。赤く汚れた掌に目を落とす。血だ。あいつ、俺の頭を石で殴りやがった。許せねぇ。
しかし、千尋を傷つけることは許されない。そのどうしようもない事実が、怒りに拍車をかけた。畜生、なんてルールだ。あいつのせいで、逃げられたではないか。もう一億円を捨ててでも、千尋を八つ裂きにしてやりたいとさえ思う。
思うだけだ。一億を棒に振ることは、さすがにできない。こうなったら、この恨みをすべて、あの女にぶつけてやろう。逃げ足の早いあの女。きっとあいつは、鈍重な俺を嘲笑っていたに違いない。高橋はそう考え、さらに怒りを燃やした。
名前は、何ていったっけ。そうだ、香穂だ。頭を殴られたせいで、記憶がおかしくなっている。血は、まだ止まらない。失われた分を補おうと、心臓のポンプが忙しく活動している。それがまた、甚だしく鬱陶しい。
早く手当てをしたい。そのためには、早く香穂を殺さないと。だが、再び追いかけなければならない。苛立たしい繰り返しだ。それでも、どうせすぐに見つかるだろう。あいつは娘を捜さないといけないから。どこかで、また大声を出して呼びかけるはずだ。
よろよろと歩きだし、階段を下りていく。あいつらは、一体どこへ逃げたのか。乏しい脳味噌で、高橋は一生懸命推測した。ここに俺がいる以上、なるべく遠くに行きたくなるのが人間の心理だ。すると、エリアを変えるか。では、AかDだ。どちらだろうか。
外に出ると、降り注ぐ雨が身体を濡らす。これもまた、腹立たしい。早く終わらせて、熱い風呂に入りたい。それから、酒だ。ワイルドターキーの瓶は、65号棟に置いてきてしまった。アルコールが切れている。今すぐ、酒が欲しい。
逃げたのは、Aエリアだろうと当たりをつけた。根拠はない。Dエリアまで行くのが、なんとなく面倒くさかったからだった。別に、距離にさほど差があるわけではないのだが。
まだじくじくと痛みを訴える頭に手をやる。そのまま、南に向かって歩きはじめた時だった。高橋は石のぶつかる微かな音を聞いた。うっかりすると聞き逃しそうな音。振り返り、周囲を見まわす。
すると、18号棟の上でさっとひっこむ人影が視界の端に映った。
高橋は、会心の笑みを浮かべた。
そうか、普通は別の場所に逃げるところを、あえて屋上に隠れたのか。高橋が他のエリアに移動すれば、安心してBエリアの捜索を続行できる。あいつは、このBエリアから離れたくないのだろう。ここに娘がいると信じているのだ。
ところが、不注意で足元の石を蹴飛ばしてしまった、と。高橋は、声に出さずに思う存分笑った。馬鹿め。自ら袋小路に飛びこむとは、本当に馬鹿だ。もう、一億はほんの目と鼻の先だった。
走って18号棟に戻り、今度は階段を駆け上がる。高橋は、すでに薔薇色の夢に包まれていた。一億を何に使うか、それだけが今の彼の関心事だった。
まず妻と別れようと、高橋は決めた。もし金の存在を知ったら、あいつは当然みたいな顔をして好き勝手に使うはずだ。誰がそんなまねをさせるものか。一億あれば、女はいくらでも手に入る。何もいわずに女房を捨て、もっといい女を探そう。胸のデカい、美貌の女だ。たとえば千尋のような。胸はともかくとして、あいつは顔がとてもいい。俺好みだ。
妄想を膨らませながら、高橋は上っていく。屋上に出た。そこは、かなり広い範囲を植物に覆われていた。日給住宅の屋上には緑を増やすために庭園がつくられていたのだが、そんな話は高橋は知らない。荒れ放題だなと思っただけだ。18号棟の向こうでは、建物よりも背の高い樹が枝を伸ばしている。
女がいる。濡れてぴったりと身体に張りついた白いTシャツと短パン。ブラジャーのラインもくっきりと浮いている。あいつだ。今度こそ、間違えない。
あの女、屋上の端から下を覗きこんでいる。もう追っ手が来ないか、確認しているのだろう。その滑稽な様を面白がり、高橋はにやついた。彼は呼びかけてやりたかった。俺はここだぜ。しかし、止めた。絶好の機会だ。突き落としてやろうと決意した。それで、ゲームオーバーだ。
医者の姿が見当たらないが、いないなら好都合だ。また石で殴られたら、かなわない。高橋は深く追求せず、無言で走った。Tシャツの背中を目指して、一気に近づいていく。
遠慮なく音を立てているのに、相手はまだ気づかない。それが、高橋には不満だった。殺す前に、彼は恐怖に怯える顔が見たかった。引きつる頬が見たかった。当然だ。俺をこんなに苦労させた女なのだから。
さあ、気づけ。こっちを見ろ。
女が振り向いた。高橋は驚愕し、慌ててブレーキをかける。脚の回転が止まり、彼は棒立ちになった。口を開けて、女を見つめた。
女は、千尋だった。
千尋は縁に沿って、一歩、二歩と高橋から遠ざかる。それにつられて、彼は追った。「なぜだ」と呟いた。彼には不思議だった。なんのために、服をあの女と取り換えたのか。なぜ、そんな無意味な手間をかけるのか。わからなかった。
そして高橋は、急速に近づいてくる足音を聞いた。
本能が危機を察知し、身体ごと向き直る。
そこには、香穂がいた。白い色とベージュが目に映る。千尋の服を着た香穂が、怖ろしい目をして走り寄ってきていた。高橋は事態を悟った。
こいつ、草むらに隠れていたのか!
その時、高橋は自分が嵌められた罠の全容を知った。俺はおびき出されたのか。ではこいつ、俺を突き落とす気か。
高橋の想像は当たっていた。香穂は一切脚を緩めず、そのままタックルするように彼に体当たりした。堪え切れず、高橋の身体は斜めに傾いだ。
落ちる。この高さなら、俺は確実に死ぬ。
死ぬのは、絶対に嫌だった。必死になって、高橋は香穂の肩を掴もうとした。この女が、男一人分の体重を支えられるかどうかは不明だ。だが、他に手がなかった。もし、耐えられなかったら、こいつも落ちるだろう。せめてもの、報復だった。
指が、濡れた服の湿った感触を覚える。しかし、香穂は高橋にしがみついたまま、一緒に身体を傾かせていた。
なに?
こいつ、俺から離れようとしない?
ではこの女、最初から自分も落ちる気だったのか? そんな馬鹿な!
次の瞬間、屋上を蹴って香穂は飛んだ。一方、高橋の身体は落下していく。その途中で、彼の目は捉えた。18号棟に向かって伸びている樹の枝を、しっかりと掴む香穂の姿を。
それが、高橋が見た最後の光景だ。彼の身体は頭から地面に衝突し、全身を強打し、瓦礫で背骨を折った。凄まじい衝撃を、一瞬、彼は感じた。
同時に、彼の意識は永遠の闇に呑みこまれていく。
すべての生命活動が途絶える。三十七年生きた高橋義隆の人生は、彼にとっては何の意味もない軍艦島で、終止符を打った。一億の夢とともに。
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