第10話 覚悟

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 椅子が転がり落ちる激しい音を、頭上から香穂は聞いた。当然予測していたので、少しも驚かない。この時、すでに脚は二階へと向かっていた。

 序盤でこれほど距離を空けられたのは、三階から四階までの階段に、足止めのために部屋から拾った木切れを撒き、中央に一ヵ所だけ何もない場所をつくっておいたからだった。そこを踏んで駆け下りれば、スピードを殺さずに済む。あまり時間をかけ過ぎると、高橋がしびれを切らして下りてくる可能性があるので、香穂は十分ぐらいでこの作業を終えた。たまたま部屋に残されていた椅子を見つけたので、それも設置した。

 65号棟から飛びだすと、香穂は学校のグラウンドで高橋が出てくるのを待った。上出来だ。これで千尋と切り離すことができたから、あとは走って奴をまけばいい。

 余裕だった。玄関から出てきた高橋がこちらに気づくのを確認してから、香穂は南の方向へと走りだした。学校の横を抜けて、どんどん駆けていく。ボルダリングに出会ってから健康オタクになった香穂は、暇な時はジョギングもしている。あんな太った中年男には、一日かけても追いつかれない自信があった。

 いつまでも高橋の相手をするほど暇ではないので、炭鉱施設の何かの建物の裏手に駆けこみ、身体を隠しつつ陰からそっと窺った。高橋がはあはあと息を切らしながら、もつれそうな脚で通り過ぎていく。もはや、歩く速度とさして変わらなかった。彼がさらに南の方へ行くのを確認してから、香穂は頬をほころばせた。

 一丁上がり。

 愉快だった。もしかしたら、娘を誘拐されてから、初めて気分が良くなった瞬間かもしれない。笑いながら、来た道を戻った。地獄段はすでに見ているので、ポケットから地図を取りだすこともなく、香穂は階段に辿り着いて上っていった。

 離れ離れになった場合は、端島神社で落ち合う。予め、千尋と交わしておいた約束だ。あれを、彼女はちゃんと覚えてくれているだろうか。もし、はぐれたまま合流できない場合は、どうなるのだろうと香穂は首を傾げた。このまま単独で望海を捜し、発見してもゲームを勝ったことになるのだろうか。粕谷は、それだと難癖をつけそうな気がするが……。

 心配は、不要だった。一部欠けた巨大な鳥居にもたれて、千尋は雨を浴びていた。待っている時ぐらいレインコートを着ればいいのに、これが彼女の律義さだろうか。

 香穂が手を上げると、千尋は気づき、心配顔で駆け寄ってきた。

「遠藤さん、無事でしたか」

「ああ、平気、平気。あんなのに捕まるほど、間抜けじゃないです」

 手を振って笑うと、千尋はようやく微かな笑顔に変わった。

 少し休憩しようという話になり、地獄段の上に、二人並んで座った。千尋が65号棟の階段について質問してきたので、香穂は、あれは自分がやったことだと説明した。

「それは、すごいですね」

 千尋は目を丸くしていた。

「いえ、それほどでも」

「どうして、そんな方法を思いついたんですか?」

「昔、付き合っていた人が時代小説とか忍者が出てくる小説が好きで、私もよく読んでたんです。だからこれは、マキビシと同じ発想」

「椅子を置いたのは?」

「それは、ついでですけど。ううん、強いていうなら、チャップリンのモダンタイムス?」

「ああ、あのキャバレーから逃げるシーンですね。それも元カレの影響? 遠藤さんって、渋い趣味の人と付き合ってたんですね」

「ええ、まあ」

 香穂は曖昧に言葉を濁した。ちなみに、映画好きだった男は当時三十九歳で、時代小説好きだったのは、付き合った中では最高齢の五十一歳だ。

「走って疲れたんじゃないですか? 水、飲みます?」

 千尋は背負っていたデイパックを手に取った。

「それより、お腹が空きましたね」

「食べますか? あ、でも屋内に移動した方がいいですよね」

「いえ、ここでいいです。今さら濡れるのを気にしても仕方ないし」

 それもそうですね、と千尋はうなずき、デイパックの内側を探った。

 中には、六つのパンが入っていた。種類は二つだけだ。「先生用」とマジックで書いてあるビニール袋に入っているのは、牛肉やそら豆が乗った、見るからに高価そうな惣菜パンで、「遠藤用」と書かれた袋は、三つともアンパンだった。

「これは……」

 さすがに、千尋は言葉を失っていた。

「えーと。こっち、いかがですか?」

「いえ、アンパンでいいです」

 香穂は首を振った。殺人者に差別されたところで、腹も立たない。毒が入っていたり腐っていたりしなければ、それで良かった。

 エネルギー補給が目的なので、香穂はろくに味わいもせず、アンパンを口に入れては、ペットボトルの水で胃に流しこむ。怪我の功名というべきか、睡眠薬のお陰でぐっすりと眠れたので、体調は万全だった。

 食べながら、千尋から高橋の話を聞いた。彼はアルコール依存症で、元々、彼女の患者だったそうだ。独り身だという彼の言葉は嘘で、ちゃんと妻がいるらしい。

 では、他の二人の『敵』も同様に患者なのかもしれないな、と香穂は推測した。それならば、粕谷は待合室で適当な人物を物色し、仲間に引き入れていったのだろう。

 香穂よりだいぶ遅れて、千尋も食事を終える。彼女はビニール袋をきちんと畳んでデイパックにしまった。それから、こちらの方を向く。

「次はどこへ行きますか?」

 前髪から滴をしたたらせながら、千尋が訊いてくる。その質問に、香穂は即答した。

「Bにしましょう」

 AエリアとDエリアを危険視する香穂の姿勢は変わらない。となると、残るのはBエリアだけだった。外れのエリアを一つ消し、結構気分は軽くなっている。『敵』を遠ざけることも出来たし、このままいけば、ゲームに勝てるのではないだろうか。

「わかりました。じゃあ、行きましょうか」

 そういって立ち上がり、千尋はデイパックを背負った。


 次のBエリアが外れなら、別の新たな『敵』があらわれる。香穂は高橋のことは忘れて気を引き締め、捜索を再開した。

 まずは端島神社に近い2号棟から当たってみる。また千尋が捕まったら困るので、もう手分けして捜したりはせず、二人で一緒に行動することにした。彼女の腕時計は朝の九時をさしている。約一時間半で一エリアを潰せたのだから、タイムリミットはさほど気にしなくていいだろうという判断だった。

 望海を捜す合間に、千尋から毎度のレクチャーを受けた。この2号棟は職員住宅で、最初は木造だったのを、鉄筋コンクリートに建て替えたのだそうだ。潮で腐食しやすいにもかかわらず鉄製の扉が使われているのは、火事に対する備えのためであったらしい。

 高い位置に建てられているために、ここからの眺望は素晴らしい。香穂はふと脚を止め、ガラスのない窓枠に手をかけて、海を眺めた。暗い波が激しく荒れ狂い、軍艦島を襲っている。台風は大丈夫なのだろうか。もしかしたら直撃するかもしれないし、どうも不安だ。望海のいる建物が波を浴びたりしていなければいいのだが。

 2号棟でも望海は見つからず、二人は3号棟へと移動した。昭和三十四年に建てられた、2号棟と同じこの職員住宅は、他の廃墟化した建物に比べたらまだましな印象だった。ベランダの手摺りもほとんど残っている。

 アパートの中では、ここにだけ内風呂があったそうだ。けれどその浴槽はとても小さく、あまり入りたいという気分にはさせなかった。

 風呂の内側も一つひとつ覗いてみたが、望海はいない。この時の香穂の感情は複雑で、いなくて良かったという思いもあった。こんなところに独りぼっちで放りこまれたら、怖くて心に深い傷を負いかねない。いや、そんなことをいいだしたら誘拐された時点で、途轍もない恐怖を味わっているだろう。もしかしたら、助かった暁には千尋のカウンセリングを受けるはめになるかもしれない。

 かつてはデートスポットだった屋上でも、娘の姿は見つからなかった。相変わらず荒れている海に眼差しを投げながら、どこにいるんだろうと、香穂は小さく呟いた。

 ふと気づくと、千尋が心配そうな視線を香穂に向けていた。

 それから、14号棟も隈なく捜したけれど、徒労に終わった。そこで、千尋に疲労の色が見えたので、比較的きれいな一室に腰を下ろし、小休止した。

「あ、そうだ」

 唐突に、千尋は口に手を当てた。「私、まだ謝ってませんよね? どうもすみませんでした。遠藤さんを巻きこんじゃって」

「いえ、先生のせいじゃありませんから」

 頭を下げられたので、首を左右に振った。悪いのはあの粕谷であって、千尋が責任を感じる必要はまったくない。むしろ香穂は、この精神科医に同情していた。あんなとんでもない奴に惚れられたせいで、人生を終了させられたらたまったものではないだろう。

「きっと……望海ちゃん、助けだせますよね」

 声を落として、千尋はいう。香穂は落ちこみたくなかったので、「ええ、もちろんですよ」と、明るい調子で答えた。

「お子さんはお一人なんですか?」

「ええ、先生は?」

「私は独り身です」

「カレシとかは?」

「うーん。仕事が忙しくてなかなか」

「そうですか。先生だったら、立候補する男はいくらでもいるでしょうけど」

「さあ、どうでしょうか」

 千尋は控えめに微笑む。

「まさか、付き合ったことがないとか……」

 遠慮がちに訊くと、「さすがにそれは」と千尋は苦笑した。

「遠藤さんは、恋愛経験豊富なんですか?」

 今度は、千尋が踏みこんだ質問をしてきた。その瞳には、率直な好奇心がある。精神科医も、恋愛話には興味があるようだ。ああ、人の心に関することだから、精神科医だからこそというべきだろうか、

「あはは、人並みですよ」

 香穂は声を上げて笑い、ただ趣味が偏ってます、と心の内で付け加えた。

 その時、ふいに幹也の記憶が水泡のように浮上してきた。

 胸が、ずきりと痛む。年上の男性とばかり付き合って来た香穂だが、まさかその中で、最も若い男と死別するはめになるとは思わなかった。彼は香穂の一つ上、まだまだ長く生きられたはずだ。それをあんな奴に断ち切られてしまうなんて、あまりにも悔しい。一億円を提示されて目の色を変えたりしていたけれど、それだけ人間臭い人だったといえる。翌日の運命を予知したように前の晩に怯えていたことが、無性に哀しかった。

 二人が接近するきっかけは何だっただろう。確か……映画の話題だ。幹也はホラーしか観ないわけではなく、スナックの客であった彼とその時上映していた邦画の人気作の話で盛り上がり、その流れで香穂が映画好きの恋人と別れた原因を喋って聞かせたのだ。

「エル・トポとホーリー・マウンテンよ。知ってるでしょ、あの意味不明なカルト映画。それを連続で観せられたのよ? ひどいでしょう? で、ホーリー・マウンテンが終わった後に、『素晴らしいラストだろ?』っていうから、『蒲田行進曲で同じのを観た』って返したら、『あんなのと一緒にするな』って怒るの。で、私も『深作欣二を馬鹿にすんじゃないわよ』って怒鳴ったら、喧嘩になって、それで別れた」

 そんな話をしたら、幹也は大笑いしていた。その後、彼に映画に誘われたのだ。

 いったん引き出しを開けると、過去が次々に蘇ってきた。プロポーズをOKした時の喜びよう。式を挙げた時の、隣のはにかむような笑顔。産まれたばかりの望海を見つめる嬉しそうな目。しかし思い出は、これ以上ページを増やすことはない。

 望海を無事に救出したら、あいつをどうしようと香穂は歯軋りした。島を出ていって構わないなどと偉そうなことをいっていたが、いやいや、それで終わらせてたまるものか。こちらの復讐が済んでいない。奴には、犯した罪に相応しい報いをくれてやらなくては。

──いや、調子に乗りすぎだ。あっさり『敵』に殺される可能性は多分にあるのに。先走ってはいけない。まずは、一刻も早く望海を見つけることだ。

「そろそろ、行きましょう」

 娘のことを考えたら、にわかに焦りが生じて、香穂は立ち上がった。そんな香穂を、千尋は不思議そうに見上げる。けれど、はい、と応じて、彼女もすぐに腰を上げた。


 五つの鉱員住宅、16号棟から20号棟は並列し、廊下棟で一つに繋がっていた。日給住宅と呼ばれるこれらの高層アパートは鉄筋と木造の混合物で、木造部分は長屋風の外観を持っている。それが、軍艦島の中でも目立つ独特の雰囲気を醸しだしていた。ちなみに千尋は、島の建物の中ではこの日給住宅が一番好きなのだそうだ。

 香穂にとっては好きも嫌いもない。部屋数が膨大だから、娘を捜すのが大変だな、と物憂く思っただけだ。大きすぎる五つの連なりを見るだけで、気持ちが滅入ってきた。

 まずは20号棟から捜索を開始した。ここには防空壕の跡があり、その近くで力強く娘の名を呼んだが、返答はなかった。かなり辛くなってきた各部屋の捜索も、相変わらず成果がない。20号棟を去り、次いで19号棟の部屋もすべて見終わると、香穂は肺を空っぽにするような大きなため息を吐いた。

 59号棟からスタートして、いったい幾つの部屋を捜しまわっただろう。繰り返される単調な作業は必ず無駄に終わり、その度に心がすり減らされていく。さらに、『敵』が出てくるかもしれないという緊張と恐怖が、神経を疲弊させる。殺人ゲームの内側に置かれたプレイヤーは、ひたすら過酷な時間を耐えなければならないのだった。

「あと、Bエリアには48号棟がありますね。防潮棟ですけど、ここにはパチンコ店が入っていたりして──」

 千尋はちょっとでも放っておくと、軍艦島について詳細に語りだす。もしかしたら捜索の参考になるかもしれないから、一応ちゃんと耳を傾けはするのだが、この時は瞬間的に、とても鬱陶しく感じた。多くの命が危機に瀕しているというのに、なぜこんなに建物の説明を受けなければならないのか。観光旅行中であるなら、ともかく。

「あの、先生。軍艦島の話はもういいですから」

 香穂は掌を突きだして、途中で止めた。

「え?」

「少し聞くのに疲れてきたんで。どうせなら、違う話にしてください」

「違う話、ですか」

 千尋はきょとんとした。

「えーと、面白い話の方がいいですよね?」

「……」

 いや、そういう意味ではない。この緊急事態に、笑いたいわけではない。そんなはず、ないでしょ?

 香穂は否定しようとしたが、すぐに思いとどまった。この真面目な精神科医に面白い話ができるのか、少し興味がある。話せるというのならば、ぜひとも聞いてみたかった。

 見ていると、しばらく千尋は首を傾け、目を閉じて悩んでいた。いい加減、待ちくたびれた頃、ふいに彼女は明るい顔つきに変わった。

 千尋は喋りはじめた。

「知り合いの内科医がですね、一度試しにデリヘルの女の子を呼んでみたんですって。まぁ医者といっても人間ですから、それはいいんですけど。でも、その人は『風俗嬢は病原体の巣窟』だから、警戒してゴム手袋をはめて、お触りだけで済ませたそうです」

 聞き終えて、香穂は噴きだした。

「何それ。じゃあ、何のために呼んだんですか」

「ですよねえ。他には……老齢の外科医が体調不良に陥って、どうもこれは癌ではないかと自分で診断したんです。で、検査を受けた後、担当医に『私は医者だから、何をいわれても受け止められる。どうか癌なら癌と、はっきり告知してほしい』って、いったんですって。それで仕方なく担当医が『あなたは癌です』って告げたら、彼は診察室を出ると、屋上に上ってそこから飛び降りたそうです」

「それは」香穂は笑いながら、顔をしかめた。「笑っていいのか、どうか」

「そうですね、困っちゃいますね。もうないかな。ちょっといい話ならありますけど」

「どんなのですか?」

「ある医者が、不倫相手の女性が心中を望んでいたので、応じたんです。それでホテルの部屋で、二つの点滴を用意して『これに致死量の毒を入れた』と説明したんですね。で、二人で睡眠薬を飲んで眠ったんですけど、翌朝、女性は目を覚ましたんですよ。医者は自分の点滴にだけ毒を混ぜて、女性は助けたんです」

「えー」香穂は大きく口を開けた。

「なんだか、つくり話みたい。それ、本当にあった出来事なんですか?」

「はい。マスコミは社会への影響を考慮して、医者の自殺は報道しませんから、知らないでしょうけど」

「ふうん……。ドラマになりそうですね。自己犠牲か」

 香穂は小さく呟きを落とす。ふいに、思い出した。「そういえば、先生。あいつに心中を強要されて承諾してましたけど、本気だったんですか?」

「はい」

 千尋はうなずく。

「どうして?」

「だって五人も殺されて、拒否したら、粕谷さんは遠藤さんも子供も殺すと脅すでしょうし、これ以上死者を増やさないためには、応じるしかないじゃないですか」

「でも、覚悟なんてできるものですか」

「私は人の命を救いたくて、医者を目指したんです。ですから、身代わりに死ねといわれれば、死にますよ」

 千尋は当然のようにいう。嘘臭さは、かけらも感じなかった。それは、汚れを知らないお嬢様然とした容姿のせいかもしれないと思ったけれど、いや、彼女は本音を語っているのだろうと考え直した。

 千尋の言葉を聞いて、香穂は目を見張った。

──こんな台詞を、こんなにすらりといえるなんて。

 驚きは、尋常ではなかった。はっきりいって、千尋には頼りない印象しかない。高橋には捕まってしまうし、軍艦島については語りたがる変人っぽいところがあるし、千尋の存在は、このゲームにおけるハンデみたいなものではないかと感じていた。

 しかし、この精神科医はとても強い芯を持った人だ。それが、この人の良さなのだろう。粕谷が強い執着を持つのもわかる。確かに、千尋は女神のような女性かもしれない。

「……そんなふうにいわれたら、死なせるわけにはいかないですね」

「え?」

「少し元気が出てきました。行きましょうか」

 彼女のような立派な医者は、希少だ。千尋には長く生きてもらって、これからも患者を治療してもらわなければならない。あんな屑と、一緒に消えていい命ではなかった。香穂は粕谷に面と向かって言葉をぶつけたかった。死にたいのなら、あんた一人で地獄でもどこでも好きなところへ行きなさい、と。

 両手で頬を叩いて気合いを入れ、香穂は歩きだした。次は18号棟だ。窓から明かりの差しこむ廊下棟を渡り、屋上をチェックしてから、九階の捜索に取りかかった。

 ベランダの柵はあらかた崩壊し、部屋の内部は、床板がぼろぼろになって剥がれている。香穂は声を放った。「望海―っ、返事してーっ」それから、耳を澄ます。聞こえてくるのは、強い雨音。そして、風の唸る音。必死の努力をあざ笑うように何も起こらない。

 それでも、香穂はひたすら娘の名を呼ぶ。ついに喉がかれてきて、千尋からペットボトルを受け取り、水で潤した。そして、また叫ぶ。それに、千尋の声が重なった。

 四階まで捜しきったところで、香穂は息をつき、四角く切り取られた空間から、しばし外を眺めた。雨は、さらに激しさを増して一向に止む気配を見せない。

「『敵』、出て来ないですね」

 千尋が横に並んで、いった。「ということは、ここが当たりなんでしょうか」

「だったら、嬉しいんですけど」

 香穂は強いて笑みをつくった。

「Bエリアは建物が多いし、私だったらここに隠すかな」

「そう考えると、少し安心しますね。もうびくびくしながら、捜すのはうんざりですから」

「──ほう、安心していていいのか?」

 あまりに突然すぎて、香穂はのけ反った。耳に刺さった声はそのまま脳髄を貫き、四肢を震わせる。背骨を殴られたような心地がした。油断していたために、衝撃は大きかった。

 急いで振り返ると、視線の先に男が立っている。

 高橋だった。

 反応するより先に、高橋が駆け寄ってくる。彼は凄まじい形相で、香穂の首に手をかけた。あんたに恨まれる筋合いはない、といいたかったが、声が出せない。「なんで……」と、小さく問うのが精いっぱいだった。

「阿呆か。お前ら、声がでかすぎるんだよ。外まで響いてるぜ。あんなんじゃ、誰でも見つけられるさ」

 嘲笑まじりの台詞を聞いた香穂は、歯を食いしばりながら後悔した。

 そうか。やっぱり、娘を捜す声が仇になったか。『敵』を呼び寄せているようなものだから、見つかるのは当然のことだった。だから粕谷は「発見された場合は、速やかに殺してしまうのが得策」といっていたのだ。その通りだった。このゲームでは、『敵』を殺さない限り、決して勝てない。なのに、走って高橋をまいて、それで終わりと安心していたのが、この状況に至った原因だ。

 高橋の手をひっかきながら、香穂は死の予感に慄いた。殺される。せっかくここまで来たのに、こんな男のために。でも、人が死ぬ時は、こんなものかもしれないとも思う。

 苦しみに呻きながら、香穂は娘に謝った。

──ごめんね、望海。

 お母さん、あなたを助けられなかった。全然、駄目だった。

 情けない母親だね。お願いだから、許して。

 希望を失くした香穂は、もう抵抗しようとしなかった。悲しみに、胸を押し潰されそうだ。ついに両腕が、だらりと下がる。

 と、いきなり大きな手が取り除かれ、肺に空気が流入した。

 瞼を開き、喉を押さえて咳きこむ。涙で滲んだ目に映るのは、頭を抱えてうずくまる高橋と、その後ろに立つ千尋だった。彼女は、両手で大きな石を持っている。

 先生が、助けてくれた!

 予期しない援軍だった。千尋が、石で高橋の後頭部を殴りつけたのだ。

 香穂はすぐさま「もう一度!」と叫んだ。まだ、完全な逆転ではない。高橋が復活する前に、さらなる一撃をくらわせる必要があった。『敵』は、もう追って来られないように徹底的に叩き潰さなくては。

 千尋は躊躇っている。流れる血を見て、医者としてあるまじき行為に臆したのだろうか。止めを刺すのは無理な様子だ。

 先生がやらないのなら、私がやるまでだ。

 香穂は千尋に駆け寄り、石を奪った。ずっしりとした重さを感じながら、それを持ち上げる。

 しかし、頭を押さえながら、下から睨みつけている高橋に気づき、香穂は怯んだ。

──今、近づいたら駄目だ。逆に、私が殺される。

 それは、直感だった。石が重すぎるせいで、どうしても動きが鈍くなるのだ。このまま襲っても、軽々とかわされるのがオチだろう。

 その後は石を奪われ、同じ目に遭うだけだ。せっかく千尋が助けてくれたのに、無駄に終わってしまう。だからといって、この場に他の武器はないので、どうしようもなかった。

 所詮、自分は女だ。どんなに優位な立場にいても、力勝負になったらすぐにひっくり返される。戦うのならば、勝負は一瞬で決めなくてはならない。

 一瞬で、勝つ。香穂は、高橋を斃すプランを素早く頭の中で組み立てた。

 石を捨て、千尋の手を取って部屋を飛びだす。振り返ると、高橋がふらりと立ち上がるところだった。すぐに彼の姿は壁で見えなくなる。もう香穂は、前だけ向いて走った。

 いくら逃げても、奴はどこまでも追いかけてくる。一億のために、自分を殺そうとする。決して、決してあいつは諦めない。考えを変えない。

 香穂は覚悟を決めた。人殺しを何とも思わない粕谷も高橋も、悪魔みたいなものだ。でももし、奴らに勝つためには同等の意思が必要なら、私もまた、悪魔になろう。

 あの男を、高橋を──殺す。

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