第9話 高橋という男


 高橋義隆は、おのれの愚かさを呪わずにはいられなかった。

 女の声が聞こえたのは、持ちこんでいたワイルドターキーの瓶を呷り、酔いを楽しんでいた時だ。声を耳にして、彼は嬉しさに勢いよく立ち上がった。わざわざこんな辛気臭い島までついてきたのは、香穂という女を殺せば、一億円が貰えると聞かされたからだ。本当に、夢のような話だった。だが、どうせ他の奴に奪われるだろうと半分は諦めていた。それが、なんと自分のところに転がりこんできたのだ。女一人殺すぐらい、わけはない。高橋の千葉の実家は農家で、彼は何度も鶏を絞めた経験がある。簡単なことだった。

 もう一億は手に入ったも同然。高橋は浮かれながら、声の出所を探した。そして、四階の部屋で女の後ろ姿を見つけると、すぐさま飛びかかった。

 ところが、顔を覗きこんだ彼は愕然とした。女は自分が通う診療所の医者であり、粕谷と協力して拉致した精神科医の千尋だった。服装で気づくべきだったのに、酔っていたために短絡的な行動をとってしまったのだった。本当に、愚かしいことだ。

 香穂と一緒に行動する先生には、指一本触れてはならない。そう、きつくいい渡されていた。違反したら、一億円は貰えない。高橋は血の気が引く思いだった。とはいえ、今さらどうしようもない。このことは、何とか頼んで先生に黙っていてもらおうと決めた。虫がいい、という反省は彼にはなかった。

 アルコールのせいで高橋は失態を演じたわけだが、そもそも、田所クリニックに通うはめになったのも、酒が原因だ。彼は、重度のアル中だった。

 だが、彼はそれについて、なんら問題意識を持っていなかった。高橋は機械部品等を製造するプレス工場で働いている。そこで彼は主に、車のブレーキの部品であるスリーブをつくっていた。毎日、延々と同じプレス機を回す。単調だし、立ち仕事だからきつい作業だ。それでも、彼は真面目に働いていた。日常はしごく平穏だった。ただ仕事中に時々、隠し持ったミニボトルのウォッカを飲むだけだ。それの何が悪いというのか。

 香穂には独身だといったが、本当は、彼には良子という名の妻がいた。籍を入れた頃に比べて、三倍近く膨れ上がった妻は、高橋の飲酒をことあるごとに非難した。妻に難詰されても、屁とも思わない高橋だったが、そんな調子では五十歳までに肝硬変でくたばるだろうし、でなければ、酔ってプレス機に挟まれて死ぬといわれ、考えこんだ。彼自身は、死ぬのは嫌だった。できるだけ、長生きしたかった。太く短く生きるんだと嘯いても、所詮それは虚勢だった。大体、彼の人生は「太い」と表現できるほどのものではない。

 だから、良子の「いっぺん精神科に行って来い」という言葉に、高橋は従ってみる気になった。すると、先生が美人だったので、彼は得をした気分になった。高橋が普段よく会う水商売の女には決して見つけられない、彼には表現できない美しさが千尋にはあった。いつしか主たる目的は、千尋と会話を交わすことに変化していった。キャバクラに通うのと、大して変わらなかった。

 ある日、待合室で彼は粕谷に声をかけられた。話し上手で、なかなか面白い奴だったのですぐに意気投合し、一緒に酒を飲む仲になった。で、互いに気心が知れた頃に持ちかけられたのだ。高橋さん、お金は欲しくないですか、と。

 一億という金額を聞かされ、すぐさま彼はうなずいた。千尋の拉致に協力すれば、三百万円。ゲームに勝利すれば、さらに一億円。断る馬鹿はいないだろうと思った。ただ千尋に対して、少しだけ罪悪感を覚えた。時間にして、数秒のことだった。

 そして、一億を前にして高橋は痛恨のミスを犯した。すべては酔っていたせいだ。なにもこんな大事な時に飲まなくてもいいだろうに、と自分に腹が立って仕方がない。これがもし他人だったら、半殺しの目に遭わせているところだ。

 まぁ、いい。少々酔っていても、頭はよく回るから、気転をきかせてなんとか挽回した。香穂はもうすぐやって来るだろう。間抜けな奴だ。あらわれたら、すぐに絞め殺してやる。

 高橋は待っている間、ひたすら浮かれていた。千尋がうるさく話しかけてきても、全然気にならない。端から、まったく聞いていなかった。

 ……遅い。

 あれから、一時間は経ったか。いや、いくらなんでもそれはない。しかし、彼の体感時間ではそれぐらいだった。実際は、十五分ほどだったろう。

 もしかして、逃げたのか。高橋は不安にかられた。彼は、決して千尋を傷つけることはできない。それを承知の上で、騙したのか。くそ、もしそうだったら、悔しいがどうにもならない。今からでも捜すべきだろうか。ルール上は、建物の中で発見しなければ追跡はできないが、そんなもの、どうにかごまかして……。

 焦りに捉われると、我慢ができなかった。千尋の腕を握ったまま、高橋は壊れた引き戸などが散乱する部屋を抜け、廊下に出た。

 と、高橋は脚を止めた。

 目を細めて、闇を凝視する。暗く広い廊下の先に、うっすらとした人影があった。

 あの女だ。高橋は狂喜した。

 香穂が立っているのは、階段を上りきったところだった。千尋を置いて、一人だけ逃げたのではなかったのだ。しかし、どうして止まったままでいるのか。

「おい、何をぐずぐずしているんだ。こっちに来いよ」

「……」

 女は答えない。高橋は、音高く舌打ちした。痛みを訴える千尋を無視して腕を引っ張りながら、早足で歩いていく。それでも、女は突っ立ったままだった。

 互いの距離が徐々に詰まっていった。「どうしたんだ?」女に疑心を抱かせないために笑顔をつくって、高橋は進んでいく。実際にはその笑みが歪んでいることに、彼は気づかなかった。ただ、幸運を喜び、腹の底で舌なめずりしていた。

 一億まで、あと三メートルぐらいとなった時だった。突然、女は「先生、約束忘れないで!」と叫んだ。それから、身を翻して階段を駆け下る。

 逃がすかっ。

 千尋から手を離し、高橋も走りだす。しかし、階段にさしかかったところで、目を剥いた。大量の木切れが散らばり、足の踏み場がない。数段に跨って置かれた木片などもあり、うっかり踏んだら転びそうだった。とてもではないが、走れる状態ではない。

 おかしい。俺が通った時には、何もなかったが……。もしかして、あの女の仕業か? 

 だから、来るのが遅かったのか。理由を察した高橋は、辛うじて怒りを抑えた。今は、女を捕まえるのが先だ。

 注意して木片を踏みつけながら、高橋はできるだけ早く階段を下りた。だが、折り返したところに椅子が横倒しに置いてあったので、彼は慌てて立ち止まった。

 小賢しいまねをしやがって!

 高橋は椅子を、思い切り蹴とばした。

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