第7話 ゲーム開始


 それは、昔どこかで観た映画に似ていた。

 リビングでは、半袖のワイシャツを着た刑事たちがうろつきまわっていた。テーブルの上には、重そうな黒電話がある。その横に置かれているのは、ごついオープンリールの録音機だ。なんとも、すべてが古臭い。風景も色がなく、白黒だった。

 ソファに座った刑事に、幹也がしきりに話しかけている。どうしても拳銃に触ってみたくて、懸命にねだっているらしい。それを、刑事がやんわりと断っている。この人はまた馬鹿なことをして、と香穂は神経を苛立たせ、腕を組んだ。

 やがて、刑事たちが騒然とする。犯人を捕まえたという一報が入ったためだ。奥さん、お子さんは無事ですよ。そう告げられて、香穂は喜びに全身を震わせる。

 その後、玄関の方から車のブレーキ音が聞こえる。香穂は走りだした。やっと望海に会える。その思いは、身体の内側ではちきれんばかりに膨らんでいた。

 扉を開けると、眩い光を浴びた望海が立っていた。

 夢中で駆け寄り、香穂は娘を抱きしめた。望海が泣いている。香穂もまた、涙を止められなかった。そんな二人の背中に、夫の大きな腕がまわされた。

 これで、もう大丈夫だ。何も心配することはないんだ。香穂は、ひたすら泣いた。


 ぼやけた風景は悪夢のようで、だから香穂は、まだ眠りから覚めていないのだと考えた。

 でも、おかしい。夢を見ているのは変わらないのに、内容が違う。ついさっき、娘が戻ってきて大団円を迎えたはずなのに、別の夢になったのだろうか。では、今度は何だろう。

 二、三度まばたきすると、両目の潤みが消えて、ソフトフォーカスは取り除かれた。けれど、異様な世界はいっかな元に戻らない。

 ここは、どこ?

 そこは、ひと言でいうなら、廃墟だった。床には、驚くほどの大量の木片が散らばっている。窓……いや、この大きさからすると、壁ごとなくなっているのだろうか、所々、歪んだ、巨大な四角い穴が穿たれている。そこからは、外が覗けた。斜めに幾つもの銀線が、途切れることなく走っている。風は絶えず吹きこんでいて、ほのかに熱っぽい肌をひんやりと撫でていった。

 部屋の中央では、パイプ椅子に坐った女性が汚い机に置かれたビデオカメラを見ていた。とてもきれいな人だ。香穂と同じぐらいの長さの髪を肩にかけた彼女は、袖がレースになった白のトップスを着ていた。机の下から覗くベージュのチノパンは紐で縛られている。履いているのは、モカシンシューズらしい。その足元には、二台のビデオカメラが無雑作に置かれている。

 彼女は悲しげな瞳を、小さな液晶画面に注いでいた。

 あれは、ウチのビデオカメラに似ているけど──

 と、香穂はようやく唇を塞がれていることに気づき、慌てた。何かが貼られている。反射的に手で取ろうとしたが、無駄だった。身体が拘束されている。ビニール紐で、足首が椅子に固定され、両腕はパイプ椅子の背もたれの後ろで縛られていた。

 なんなの、これは。

 パニックに襲われた香穂は、焦って首を横に向けた。そこには、同じ体勢で縛られた幹也がいた。彼の唇の位置には灰色のビニールテープがある。夫はまだ目が覚めないのか、項垂れてぴくりともしなかった。

 驚くことに、そのさらに向こうにも、動きを封じられた人々がいた。まったく会った覚えのない、見ず知らずの人たちだ。人数は四人。パイプ椅子に縛りつけられた男性と女性が交互に並び、身体を揺すったり、恐怖の表情を浮かべたりしている。

 そして、香穂たちの前を一人の男がのろのろと歩いていた。

 全体的に、髪が薄い小男だった。今は、猫背気味の背中しか見えない。紺色のスーツを着た彼は手を後ろで組み、ゆっくりと、実にゆっくりと縛られた人々の前を動いていた。彼は向こうの壁に達すると、折り返してこちら側に歩み寄ってきた。

 近づいてくると、はっきりと顔が判別できた。頬の肉づきは、かなり豊かだ。眼鏡の奥にある両目は小さいが異様な光があり、危険な印象を与える。赤いネクタイをきっちりと締めているのに、顎は無精髭に覆われていて、なんだかアンバランスだった。

 香穂は、怯えながら彼を見つめた。

 この状況は、いったい何?

 さっぱり事情が呑みこめない香穂は、男に目で訴えるしかなかった。それに気づいた彼は、頬を緩めて笑った。

「ああ、目を覚ましたんですね」

 男が浮かべた、場合によっては温和に映るかもしれない微笑は、今はひたすら不気味でしかなかった。

 香穂は「どういうことなの?」と思わずいったが、それはくぐもった音にしかならなかった。無残に朽ち果てた部屋で、呻き声だけが響いては消えていく。

「ははは、質問ですか? そりゃあ色々訊きたいでしょうねえ」男は愉快そうに笑う。「何から説明しましょうかね。そうだ、まずは名前を名乗りましょうか。私は粕谷幸一。あなたの娘さんを誘拐した男です」

「う……」

──こいつが!

 一瞬、茫然としてから、すぐに強烈な怒りの炎に包まれた。そういえば、この声は電話で二回聞かされたものと同じだ。

 まだ半分夢の世界を彷徨っている心地だったが、完全に現実に引き戻される。香穂は鼻に皺を寄せ、首を突きだした。可能なら、力が尽きるまでこの男を殴ってやりたかった。

「うっ……うう……」

「えっ? 何ですか? ここはどこだ、ですか? 30号棟ですよ」

 意味のわからない単語を聞き、混乱させられた香穂は真顔に戻った。

 30号棟? どこなのよ、それは。

「といっても、ぴんときませんか? 軍艦島なんですよ」

 今度は、眉をひそめた。軍艦島。もちろんそれは、すでに知っている。と、記憶が蘇り、30号棟の意味が理解できた。

 そうか、三つ目の見学所で夫から聞いた建物の名前。それが、30号棟だった。

 あの住宅の内部に、自分たちはいる?

 ではこいつの目的地は、軍艦島だったのか。

 パズルの一つだけが、やっと繋がった。ほんの少しだけれど謎が明かされ、知りたくて疼いていた心が宥められる。だが、まだわからないこと、聞きたいことが大量にあった。

 大体、なぜ軍艦島なのか。

「うう……」

「なに、娘は無事なのか、ですか? ちゃんと元気ですよ、ご安心ください」

 ……。

 本来なら、心を弾ませてくれるであろうこの言葉は、さほど香穂の胸には響かなかった。こいつが何を喋ったところで、もはやかけらも信じられない。夢で会った刑事の方が、まだ信用できるほどだ。無事を確認させたいなら、娘に会わせろと怒鳴りたかった。

 しかしこの男は、娘だけでは飽き足らず、親まで拘束するなんて、何が目的なのだろう。私に、何かさせるつもりではなかったのか。

 その時、香穂はこの事態に至った過程を思い起こした。確か、夫から受け取ったジュースを飲んで、その後睡魔に襲われ、眠ってしまったのだ。運ばれても目覚めなかったのだから、きっとあのペットボトルに睡眠薬が混入されていたのだろう。では、香穂と幹也を捕え、この島まで連れてきたのは、最初からの計画だったのか。

「う……う」

「はいはい、あの二組のカップルですね? あちらは遠藤さんのところと同じく、私に子供を誘拐された夫婦ですよ」

──何ですって!

 この一撃は、凄まじかった。驚愕に、身体が硬直する。まさか、自分たち以外に同じ目に遭った夫婦がいたなんて。想像の埒外だった。ということは、こいつ、同時に三人の子供をさらったというのか。

 到底、信じ難い話だった。そんな馬鹿げた計画を立て、実行するなんて。しかも、金をゆすりとりたいわけではないのだ。薄皮が一枚ずつ剥がされ、事件の全貌が徐々に明かされていくけれど、かえっていっそう混迷が深まっていった。

「うう……」

「次は何ですか? 私の歳ですか? 四十五ですけど」

 力をこめて、激しく首を横に振る。何なんですか、と迷惑そうにいって、粕谷は口を塞いでいるビニールテープを一気に剥がした。鋭い痛みが走る。

「……こんなことして」

 香穂は下から粕谷を睨んだ。「あんた、何がしたいの! 目的は何なのよ!」

「お、核心を突く質問ですね? そうですねえ。それはいうなれば、永遠の愛を得ることですかね」

「……」

 男の風貌には似合わない愛、という言葉に、香穂は沈黙した。まったく、この場面に相応しくない台詞だ。本来なら美しい響きが、とても厭わしく耳を刺激する。どんなに素晴らしいものでも、この男が手に触れると、すべて腐っていくように感じた。

 戸惑っているうちに、またビニールテープを貼られて、会話の術を失った。幹也の隣の女性が目を剥き、必死に口を動かしている。それに反応したのか、幹也が目を覚ました。

 いつの間にか、中央の女性が顔を上げていた。それに気づいた粕谷は今までとは打って変わった素早さで、女性のところへと飛んでいった。

「観終わったんですね。どうでしたか?」

「どうもこうも」

 女性の声はすでに疲れていた。「可哀想なことは止めてあげて」

「特に感想はないですか。ですよねえ、こいつらは最低ですから」

 腰を曲げて女性に顔を近づけていた粕谷は、こちらの方に向き直った。なぜか、憎々しげに眉をつり上げている。

「いいですか、みなさん。この方は、精神科医の上野千尋さん。言葉ではいい尽くせないほど美しく、聡明で、気高い魂をお持ちの方なのです!」

 いきなり、粕谷の声がはね上がった。香穂は驚き、背筋を反らす。

「先生は慶応大学医学部に現役合格され、卒業後、医師国家試験をパスし、現在は叔父が経営する田所クリニックを、高齢のために半ば引退されている田所氏に任され、実質一人で診療をなさっています。先生は、まだまだ社会的に認知されていない心の病に苦しんでいる人々を救いたい、そのような志を持って、精神科医となられた方です。なんと純粋で、崇高な意志を持ったお人なのでしょう! 先生は、あなたたちみたいな蛆虫とは違う、もちろん私とも違う、遥かな高みに立つ人なのです!」

 映画を観ていると、たまに、作り手の意図を演説で語る登場人物がいたりして、うんざりさせられたり失笑したりすることがあるが、それと似た感覚を香穂は味わった。上野千尋という医者が立派な人物だとして、それが自分たちに何の関係があるというのか。まったく、理解できない。

「初めて患者として先生と出会った時、私は雷に撃たれた心地がしました。死ぬしかないと思いつめていた私に、先生は優しく接してくれたのです。生きていれば、必ず死ななくてよかった、と思える時が来ると。その慈愛に満ちたお言葉! もしこの穢れた世界に女神がいるのなら、きっと先生に違いない。私はそう、確信したのです!」

 戸惑いながらも、香穂は状況を把握しようと努めた。つまり、この男は心を病んでいて、診療所に行き、そこであの先生に出会って、彼女に恋心を持つようになった、と。ようやく「永遠の愛」などという言葉が飛びだした理由が、少しわかってきた。

「しかし、先生も人の子、心に傷を負っておられます。まだ幼い頃に、母親をくも膜下出血で亡くしたという痛ましい過去をお持ちなのです。母の死をきっかけに、先生は医者を目指されたのですが、それにしても悲しい思い出だ。先生は、母親の愛を知らずに育ったんですよ!」

 香穂はぎょっとした。演説の内容に、ではない。粕谷がスーツの両方のポケットから、棒状のものを取りだしたからだ。

 彼は鞘を二つ取り外し、両手にナイフを握って、無精髭に覆われた唇を広げた。

「私は、先生に母の愛を知ってもらいたかった。だから、あなた方にビデオを撮ってもらったのです!」

 え?

 じゃあ、あの撮影は千尋って医者に見せるため? そのためだったの?

「それなのに……貴様たちは何だ! 一億と聞いただけで、常識を失いやがって。あのなあ、子供が誘拐されたら、まず警察に通報する。これが普通なんだよ。当たり前だろうが!」

 粕谷が強く脚を踏みだすと、ざり、と音がした。散らばる木片の上を渡って、彼は向こう端の男女に近づいていく。香穂の全身に戦慄が走った。これから何が起きるのか、はっきりと悟ったからだ。

 恐怖の予感が、崩れた部屋中に広がっていく。

「駄目よ!」

 身体を前に傾かせて、千尋が叫んだ。

「金に目が眩みやがって! この屑が!」

 現実とは思えない、思いたくない光景だった。粕谷は興奮した様子で、両方のナイフを同時に二人の腹に刺した。狂気がもたらす死は、あまりにも素早かった。

 唇を塞がれたまま、香穂は絶叫した。

 のけぞった女性の首が、横に払ったナイフでかき切られる。致命傷だ。勢いよく血が噴きだし、粕谷のスーツとYシャツが赤黒く染まった。

 すぐに、男女二人は微動だにしなくなる。すると、粕谷は次の目標に目を据えた。その表情には、紛れもない歓喜が滲んでいた。

 極限にまで達した、惨たらしい悪夢だ。とてもではないが見ていられなくなり、香穂は瞼を閉じた。その間も、千尋の叫び声は途切れることなく、響き渡っていた。

「お前もだ! 屑が! さもしい豚どもが!」

 肉に刃を突き立てる音。くぐもった甲高い悲鳴。悲しげな千尋の声。香穂は目を開けた。粕谷は、幹也の隣の女性に対して滅茶苦茶にナイフを振るっていた。その度に、がくんがくんと首が揺れる。

 止めて、もうその人は死んでいるじゃない。

 声が出せない香穂は、両目から涙を溢れさせた。

 そして──自分たちの番が来た。

 心の準備を整えている暇もなかった。今度は無言で、粕谷は幹也の胸にナイフを突き立てた。彼は呻き声を洩らして少しの間、身体を暴れさせていたが、ついに動かなくなる。蠅でも殺すような呆気なさだ。その様を、香穂はただ震えながら見ているしかなかった。

 大量の血を浴びた凄絶な姿の粕谷が、こちらを向く。

 自分の命は、あと一分ももたない。その認識は、心臓を異様な速さで脈打たせた。嫌だ。そんなのは嫌。まだ、娘を救っていないのに。なのに、こんな唐突に殺されてしまうなんて、そんな理不尽な話があっていいはずがない。

 無駄とわかっていても、香穂は縛めから逃れようとした。目前に迫った死は、圧倒的な恐怖を伴っていた。粕谷から目を逸らせないまま、頑是ない子供みたいに首を振った。

 しかし。

「あなたは……良かったですよ」

 笑みを湛えた唇から、予想外の言葉が飛びだす。思わず、身体を凝固させた。

「あなたのビデオには、子供を思いやる心情がこもっていた。ああいう姿を先生に見せたかったのですよ。猫の死骸と対面した時も、実に人間味溢れる反応だった。合格です」

 粕谷は手を伸ばし、香穂の唇を覆うビニールテープを引っ張る。一度剥がしたため、今度は大した痛みもなく簡単に取れた。

「それじゃあ……」

「ええ、あなたは殺しません」

 死刑判決から逆転無罪を勝ち取った被告は、あるいはこんな安堵を得るのだろうか。凄惨な殺戮が行われたばかりだというのに、香穂はほっとして、再び涙を流した。涙腺が壊れたみたいに、一向に止まらなかった。

 そんな香穂を放っておき、粕谷は千尋の方へと歩いていく。彼女もまた、しゃくりあげて泣いていた。粕谷は、ゆっくりと千尋に顔を寄せていく。

「泣かないでください、先生。私は、あなたを悲しませたくないのです」

「ふざけないで」

 千尋は粕谷を詰ったが、その声はか細かった。

「どうして、こんなことをするのよ。大勢をさらって、そして、殺して。あなたは何がしたいの?」

 聞きながら、香穂は息を呑んだ。そう、それこそが知りたかったことだ。こんな異常な状況をつくり出した意図は何なのか。「永遠の愛」というのだから、問いかけている精神科医の千尋が、目的の中心なのだろうが……。

 ナイフを机に置き、にんまりと笑って、粕谷は口を開く。

「私は、先生に一緒に死んでもらいたいのです。つまり、心中ですね」

「そんなこと……」

 千尋の口調は苦々しかった。「なら、そのナイフで殺せばいいじゃない」

「いえ、私は先生自らの意志で、私との死を選んでもらいたいのです」

「だったら、早くそういいなさいよ! あの人たちを殺す必要はなかったじゃないの!」

 怒りを爆発させた千尋は粕谷の顔の前で怒鳴った。が、すぐにうつむく。

「いいわよ。死んであげるわよ」

「おお、ありがとうございます。ありがとうございます」

 粕谷は千尋の横に膝を突き、両手を合わせて、礼の言葉を繰り返した。

 それが、目的だったの……。

 ようやく犯人の考えを理解した香穂は、茫然として首を傾けた。

 盗みをさせるとか、そんな常識の範疇にある話ではなかった。狂人の夢に、ただ自分たちは巻きこまれただけだったのだ。なんという馬鹿馬鹿しさだろう。だが、虚しさは湧き上がってこなかった。弾性を失った心は、あらゆる感情を排除していた。

 香穂は薄暗い視界の中で、恭しく跪く男と、静かに涙を流す女を、放心したまま力なく眺めていた。


 その後、香穂と千尋は粕谷によって、椅子ごと別の部屋へと連れていかれた。

 そこも同じように荒れ果てていて、前の部屋と区別がつかなかった。千尋によると、30号棟は日本で一番古い鉄筋コンクリートのアパートで、建てられたのは大正五年だという。西暦になおすと一九一六年だ。では、百年を越えているではないかと香穂は驚き、見学所で見た佇まいを思い出して、今にも崩れるのではないかとひどく不安を感じた。

 座った姿勢で縛られたまま、香穂は千尋と向き合い、慌ただしく情報を交換した。香穂は娘が誘拐されてからの経緯を簡単に説明し、一方、千尋は粕谷について語った。これは守秘義務に反するんですけど、と呟く彼女は、この期に及んでもまだ医者としての立場に忠実でありたいようだったが。

 千尋が話すところによれば、粕谷は以前はごく普通の、まっとうな社会人であったようだ。彼は四十歳の時に勤めていた会社を辞め、夢だったラーメン屋の開店に漕ぎつけたのだが、一年ぐらい前に店を潰してしまった。それで自暴自棄になった彼は働かなくなり、実家に戻った妻子にも会ってもらえなくなったのだった。その結果、不眠症になり、自殺願望が強くなったため、通院をはじめたらしい。普段はとてもおとなしい男なので、粕谷さんがこんな大それた計画を立て、実行するなんて信じられないと、千尋はつけ加えた。

「そんなの、あいつが狂ってるってだけの話でしょう?」

「いえ、私は粕谷さんの行動が、精神異常ゆえのものだとは思えないんです」

「えっ。じゃあ、あいつは正常なのに、無関係な人を五人も殺したっていうんですか?」

 プラス猫、二匹だ。それも、一人の女性に心中を迫るために。普通の人間にできることではない。狂っていると考えた方が、よほど自然だ。まともな頭の人間が大量殺人をする方が、もっと怖ろしいではないか。

「そうですね。それもすべては私に執着したせいでしょう。今まで求めても得られなかったものを、粕谷さんは私の中に見つけたんでしょうね」

「あのさあ」香穂は呆れて声を高くした。「その口ぶりだと、あいつに同情しているみたいに聞こえますよ? そんな仏様みたいな性格してるから、あいつに見こまれちゃったんじゃないですか?」

 千尋ははっとした表情になり、すみませんと謝って、うつむいた。

 香穂は目の前の精神科医を、じっくりと観察した。こうして近くで対すると、色の白さが際立っているのが、まず目につく。整った目鼻立ちは医者というよりは良家の令嬢風で、年齢は二十六だという話だが、それよりは幼く見えた。粕谷は千尋のことを「女神」だと称えていたけれど、この容姿でこの性格だから、あの男が熱烈な想いを寄せるのも、仕方がないことかもしれないと香穂は考えた。

 だからといって、無慈悲に夫を殺したことは決して許せないけれど。

 このように当面の脅威が去り、落ち着いてくると、夫が死んだ実感が迫り、香穂は大きな悲しみに襲われた。彼のためにまだ涙を流していないことに、罪悪感を覚えた。

 怒りもまた、大きかった。あいつに、夫を殺す理由が爪の先ほどでもあったのか。むろん、あるはずがない。なのに、粕谷はいとも簡単に夫を刺した。殺した。あの光景は、永遠に忘れられないだろう。そして、この恨みも。

「どうしたんですか?」

 知らないうちに顔つきが変わっていたのだろう、千尋が首を傾げて問いかけてきた。

「いえ。あの、先生はどんなふうに拉致されたんですか?」

「昨日の朝、出勤するために、駐車場の車に乗ろうとしたところを背後から襲われたんです。スタンガンを当てられて、意識を失って」

「粕谷一人だったんでしょうか」

「違います。ちらっと見えた人影は二人でした」

 やはり、複数か。こんなに多くの人間を拉致するなんて、さすがにあの男一人では手に余るだろうから、その点に関しては合点がいった。粕谷が金で雇ったのだろうか。

 千尋はさらに語りつづける。彼女は気づいた時には手足を縛られた上に、猿轡をかまされ、トランクの中に入れられていた。これでは、どうすることもできない。それから車は、まる一日ぐらいかけて延々と走りつづけた。ようやく停まったと思ったら次は布袋を被せられてボートらしきものに乗せられ、陸に上がり、30号棟のあの部屋に連れこまれると、そこで布袋と猿轡から解放された。その時点では、粕谷一人だったらしい。

 次々と椅子に縛られた人々が粕谷によって運びこまれた時には、千尋は心臓が止まるかと思うほど、驚いたという。そして、彼女は三組の夫婦のビデオを見せられたのだ。猫の死骸で驚愕させられたのは香穂だけで、他の二組は子供へのメッセージだけだったようだ。

「二人の子供って、男の子ですか、女の子ですか?」

「どちらも男の子ですね。シンジ君とショウ君でした」

「そうですか」

 香穂はそっと唇を噛んだ。その子たちは、今、どこにいるのか。それから、望海は。

「娘さんは、ノゾミさんていうんですよね? どんな字を書くんですか」

 今度は千尋の方が質問してみた。

「希望の望に、陸海空の海です」

「生きているって、粕谷さんがいってましたよね? だったら、もう心配する必要はないでしょう。彼は、私と死ねばそれで満足するでしょうから」

「……」

 そうだった。その問題がある。香穂と望海は解放されそうだし、あの二組の夫婦の子供もさすがに粕谷は殺さないだろうけれど、千尋の命はこのままでは確実に喪われる。彼女の犠牲によって、香穂たちは救われるのだ。だが、それでいいのかという迷いがある。千尋は先程知り合ったばかりの、見知らぬ他人とほとんど変わらない女性ではあるが、だからといってこのまま、彼女が死ぬのを指をくわえて見ているだけでいいのか。

「先生は、本当にあいつと死ぬ気ですか?」

「他に道はないですから。私はもう、覚悟を決めました」

 覚悟。そんなことができるのか、と驚いた。いきなり心中を迫られて、簡単に受け入れられるものなのか。香穂は我が身に置き換えて、無理だと思った。自分は絶対に死にたくない。まだ三十になったばかりだし、幼い娘を孤独な身の上にして逝くのは嫌だ。

「何とか、ならないですかね」

「ならないでしょうね」

 千尋は、すでに悟りきった人のように落ち着いている。そんな姿を前にすると、胸の奥底で、ざわざわとした感覚が激しく蠢いた。

 白い頬が少し赤みを帯びている。呼吸をする度に僅かに唇が開閉する。千尋は生きている。なのに狂った男のせいで、彼女は死を運命づけられてしまった。それは、とても理不尽で、他人の自分ですら納得できないことだった。

 無理だと諦めるのは、最も楽な方法だ。千尋が生贄となり、粕谷が死んでくれれば、すべては終わる。本音をいえば、その方が良かった。加えて、香穂には娘を守らなければならないという大義名分がある。

 けれど……やはりそれは人として、間違っているだろう。それに、夫を殺した粕谷が、このまま易々と歪んだ想いを成就させるのを許したくはなかった。

「いえ、なんとかしましょう。先生」

 香穂は力強く訴えると、千尋は知らない言語を聞いたみたいに、きょとんとした。

「でも、どうするんですか?」

「えっと。とりあえず、この紐を切りましょう」

「どうやって?」

「歯で噛んでみます」

 縛めを解き、隙を見て粕谷からナイフを奪い、立場を逆転させる。それが可能だとは自分でも信じられなかったが、やらなければという強い意志が香穂を突き動かした。

 足首が椅子のパイプに縛りつけられているので、立つことは不可能だ。香穂は身体をはねさせて勢いをつけ、椅子ごと移動しようとした。しかし、床に散った壊れた木材が邪魔をしてうまくいかない。

「あ」

「どうしました?」

「先生の方は立てるんじゃないですか?」

「ああ……そうですね、うっかりしてました」

 思わず、互いに苦笑を向け合う。千尋は両脚をまとめて縛られているだけだから、簡単にパイプ椅子を背負ったまま、立ち上がることができた。香穂は千尋に半回転してもらい、背もたれに両腕をくくりつけている紐に噛みついた。

「どうですか?」

「う……」

 犬歯でビニール紐を擦って切ろうとしたが、当然のことながら、そんなやり方では無理だった。とはいえ、他に方法がない。香穂は諦めなかった。膨大な時を費やせば、水滴ですら石を穿てるのだ。時間さえあれば、できるはずだ。

 粕谷がしばらく来ないことを願って、香穂は必死になってビニール紐を噛んだ。

「──何を、してるんですか?」

 願いは聞き届けられなかった。声にぎょっとして、香穂は顔を上げた。

 扉どころか壁すらない視線の先には、粕谷が不思議そうな表情で立っている。服を替えたらしく、同じスーツ姿でも、血の跡はなかった。ネクタイの色も青に変わっている。

「もしかして、逃げる気ですか?」

 まるで客に「もう帰るのか」と訊くような、軽い口調だった。それだけに、怖ろしかった。千尋がいくら粕谷の異常性を否定しようと、香穂は彼が狂っていると信じている。先刻のようにいつ豹変してナイフを振るうか、知れたものではなかった。

 千尋は沈黙して答えない。代わりに、香穂は怒鳴った。怒らせたらまずいという認識はあっても、それを上回る激しい憎悪が、背中を押して駆り立てた。

「そうよ。あんたの思い通りになってたまるもんですか。先生は殺させないから!」

「おお……」

 いい終えると、粕谷は小さな目を丸くして声を上げた。

 すぐさま、香穂は臍を噛んだ。

 いけない。やはりこの男を刺激する言葉は避けるべきだっただろうか。香穂の目に、次々と人が刺されていく凄惨な場面が再生された。

「なんと……」

 驚きに満ちた表情で粕谷は千尋に歩み寄り、片膝をついた。プロポーズでもするかのような姿勢だ。香穂は、身体を固くしていた。

「素晴らしい。それでこそ先生です!」

──は?

 あり得ない台詞に、香穂は何か、聞き間違えたかと焦った。しかし、すぐにそうではないことがわかった。粕谷は崇拝者の目で千尋を見上げながら、つづける。

「当然です。先生が、私みたいな人間に簡単に膝を屈するわけがありません。あなたの光り輝く純粋な魂に、敗北は似合わない。そう、たかだか五人死んだぐらいでは、先生は決して挫けはしないのです!」

「そんないい方は止めてよ……」

 千尋は項垂れ、髪が肩を流れ落ちた。粕谷は、満足そうに立ち上がる。

「よろしい。では、ゲームをやりましょうか」

「ゲーム?」

 千尋と香穂は、同時に呟いた。

「はい、ゲームです。これに勝てば、みなさんを無事に帰してあげますよ。但し、負ければ全員、死んでもらいます」

 狂気を感じさせる無邪気な声で、粕谷はいう。予想などできるはずもない展開だった。こいつはどれだけ人を驚かせば、気が済むのだろう。こんな時に、ゲームだなんて。

 粕谷はとても嬉しそうに、晴れやかな笑みを広げている。

 やっぱり、こいつは頭がおかしいんだ。香穂は不快感とともに確信を強め、ぷっと、口に残ったビニール紐の切れ端を吐き捨てた。


 ビデオカメラなどを入れていたキャリーバッグも、一緒に軍艦島に運びこまれていた。粕谷に命じられ、彼に見張られる屈辱に耐えながら、香穂は中に入れてあったTシャツと短パンに着替えた。そして、たまに使うオレンジ色のジョギングシューズを履いた。

 香穂たちが放りこまれていたのは、最上階である30号棟の七階だった。ロの字型の建物の中央は中庭になっている。ぼろぼろの手摺り越しに覗くと、そこはかつて手摺りを構成していた木材で埋め尽くされていた。

 大小の石が散らばる階段を降りて外に出た。すると、周辺にも瓦礫や木片が無秩序に広がっていた。すぐ傍まで建物が迫っていて、息苦しささえ覚える。見学所から見えなかったところは、こんなふうになっていたのかと思った。

 雨風は先刻より強くなっていた。台風が、徐々に近づいている証拠だ。軍艦島クルーズも、この分では今日は欠航に違いない。外からの助けは、期待できそうになかった。

「ルールは簡単です」

 香穂と千尋を前にした粕谷は場違いな明るい声を発し、ビニールカバーの付いたB5の大きさの紙を一枚ずつ、二人に手渡した。軍艦島の簡単な地図だ。

 北を上にして、香穂はそれを眺めた。島の西半分には細かく建物が描かれ、すべてに数字が打たれている。東側には数字の他に、「端島小中学校」などという文字での説明をあった。地図には所々線が引かれ、矢印でアルファベットがしめされている。

「ゲームの舞台は建物部分のみ。具体的にいうと、島の西側は30号棟より北に存在する建物すべて、東側は端島小中学校と体育館だけです。それ以外の炭鉱のための施設などは、無視してください」

「何をさせたいのよ」

 眉根を寄せて、香穂は粕谷を睨みつける。すると、喧嘩腰だなあと粕谷は笑った。

「そのゲームエリアを四つに分けてあります。30号棟から近い順に、A、B、C、Dとね。そのエリアにある建物のどこかに、望海さんがいます」

「望海が?」

 反射的に、粕谷に一歩詰め寄った。それは、こんな危ない場所にたった一人で娘を放置しているのか、という怒りからだった。

 気色ばんだ香穂の厳しい視線を、粕谷は泰然とはね返す。

「はい。声は出せる状態ですから、呼びかえれば応えるでしょう。望海さんを見事に助けだせば、あなたの勝ち。他の二人の子供も、先生も一緒に連れて島を出ていっていただいて構いません。ただし」

 粕谷は、酷薄な笑みを頬に刻んだ。

「望海さんがいない、三つの外れエリアには、一人ずつ『敵』を配置してあります。三人の『敵』は遠藤さんを発見し、殺す役割を担っていますので、ご注意ください」

「……」

 ぎゅっと胸を絞られたような気分を覚えた。ゲームといわれて、香穂は何となくトランプやボードゲームなどを想像していたのだけれど、そんな甘っちょろいものではなかった。これは──殺人ゲームだ。

「一度発見したら、エリアを越えても『敵』は遠藤さんを狙って追いかけます。ですから、発見された場合は、速やかに殺してしまうのが得策でしょうね。『敵』が全滅したら、その場合も勝利となります。それと、『敵』は建物の内部にいて、外にいる遠藤さんを見つけても発見したことにはならないので、エリアを通過する分には襲われる心配はありません」

「『敵』は武器を持っているの?」

「それは各自に任せてますので、持っているかもしれないし、持ってないかもしれません」

「私には?」

「ありません。欲しければ、島で調達してください」

 そんな無茶な。香穂は茫然とした。もし、ナイフを持った男に待ち伏せされていたら、すぐに殺されて終わりではないか。勝ち目などまったくない。四分の一の確率で、当たりを最初に引くしか生き残る道はないといって良かった。

 四分の一。決して絶望的ではないが、だからといって明るい希望は持てない。なんともいえない数字だった。

「なんでよ。どうして、こんなゲームをさせるの!」

 腹が立って叫んだ。問答無用で殺されるよりは遥かにましだけれど、いいように弄ばれてるとしか思えなかった。

「それは、たぶん私のせいですね」

 千尋が暗い声で口を挟んだ。香穂は、さっと彼女に目を向ける。

「ええ、そうです。先生はこの軍艦島を舞台にしたデスゲーム小説『端島の戦い』の大ファンなんですよ。ですから、先生に喜んでほしくて、このゲームを設定したのです」

 粕谷は嬉しそうに説明した。こんなことで、千尋が喜ぶと本気で信じている口調だった。

 そんな理由……。香穂は軽い眩暈に襲われて、平衡感覚を失った。ただ、この精神科医がある小説を好んで読んでいたというだけで、自分は長崎まで呼びだされ、殺すか殺されるかのゲームを強いられるというのか。到底、納得できない。

 しかし、拒否すれば、千尋は確実に死ぬ。彼女を救うためには、他のすべての命を賭けて、ゲームに勝つしか方法がなかった。

「先生は、決して『敵』に殺されはしませんので。どうぞ遠藤さんと一緒に行動して、安全にゲームを楽しんでください」

「楽しめるわけないでしょ」

 千尋はそういって、吐息を零す。「こんなのリスクが大きすぎます。私が死ねばいいんでしょう? ゲームなんかしなくても」

「おや、先生。らしくないですよ? 弱気にならないでください。大丈夫ですよ、先生は幸運の女神ですから。きっと一番に当たりを引くんじゃないですか?」

 能天気な声で適当なことをいう粕谷を、千尋はうらめしげに見つめる。

 それから、粕谷は耳を疑う言葉を発した。

「では、遠藤さん。あなたの体力を見込んでキャスティングしたんですから、なるべく生き残って先生を喜ばせてくださいよ? お願いしますね」

 数秒の間、理解できずに戸惑い、次いで、香穂は頭に血を上らせた。

──こいつ、「合格です」とかいって、私を殺さなかったけれど、本当は最初から私だけ助ける予定だったんだ!

 では、あれは茶番か。茶番でこの男は、五人も殺したのか。夫を殺したのか。

 滅茶苦茶だ。筋も何も通っていない。こいつが、正常であるはずがなかった。

 震えるほどの怒りにかられ、香穂は粕谷に飛びかかろうとした。殴りたいのか、首を絞めたいのか、何がしたいのか自分でも判然としなかった。とにかく、じっとしていられない。ゲームなど、知ったことではなかった。

 だが、粕谷の反応の方が速かった。ポケットから出されたナイフを突きつけられると、頭に上った血は急速にひいていった。

「おやおや、ゲームマスターを襲うのは、ルール違反ですよ?」

 明るく笑いながら、粕谷はナイフを振る。香穂は、唇を噛むしかなかった。

 ゲームの主役である香穂を傷つける気は、粕谷にはないようだった。彼は何事もなかったように、手に持っていたデイパックを千尋に渡した。

「ここに、食料と水を入れてあります。遠藤さんのクライミングシューズとチョークも入れてありますから、状況に応じて使用してください。あ、レインコートもありますよ。風邪をひいちゃいけませんから、先生はぜひ着てくださいね」

 デイパックを受け取った千尋は、目を伏せてそれを背負った。

「日没で、ゲームは終了です。その時までに勝利条件を満たしていない場合は、子供たちは殺しますし、遠藤さんにも死んでいただきます。今は朝の七時三十五分ですから、大体、十二時間ぐらいですかね。それでは、スタート!」

 粕谷はぱちんと手を叩いた。香穂と千尋は互いの顔を見てから、とぼとぼと歩きはじめる。嬉しいことを強いて一つ挙げるとするなら、それは狂人の傍を離れられることだった。

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