第6話 長崎へ


 長崎へ向かう飛行機の中で、香穂はひたすら後悔していた。

 ボルダリングが得意な人間を、犯人は求めている。それを理解した時の香穂の心痛は相当なものだった。いくら熱心に毎日ジム通いをしていても、ボルダリングはあくまで趣味だ。止めなければならない理由があれば、いつだって止められる。そんな軽い気持ちでつづけていた趣味のせいで娘が誘拐されるのは、母親としてあまりにも辛かった。どんなに悔やんだところで、悔やみきれない。

 ただ、これで犯人の狙いはおおよそ読めた。ボルダリングの用意が必要ならば、当然、どこかに侵入するのだろう。たぶん、何かを盗ませる計画なのだ。しかも、本気で香穂たちに一億の分け前を寄越すつもりなら、それは数億円、下手をしたらそのさらに桁が一つ上の現金かもしれない。あるいは、それだけの価値を有する宝石か、金塊か。いずれにしても、大ごとだった。

 香穂はネットで検索し、長崎に数億円クラスの価値がある品がないか調べてみた。けれど、それらしい情報はヒットしなかった。

 とにかく、ビルの壁でも登らされ、侵入経路を確保するのが自分に振られる役割だ。どうするのか、香穂は悩んだ。泥棒の片棒を担がされるのなら、それは立派な犯罪だ。それでも命令されたら、指示通りに行動するのか。娘のために、犯罪者に身を墜とすのか。

 わからなかった。わからないといえば、どうして天候が関わってくるのかが、謎だ。香穂は、雨で壁が滑ったりすると危険だから避けたかったのかと推測したのだが、現在、九州を目指して台風が北上中だった。まったく逆の状況だ。気になって、望海が誘拐された日の前後を調べてみたら、あの犯人からの電話があった夜の翌々日、当初、日本を直撃すると見られていた台風16号が、予想進路からそれ、列島の南側を抜けていっていた。となると、台風が絡んでいる可能性は非常に高い。

 犯人は、台風を当てにしているようだ。たとえば、風雨が強くなると警備が手薄になるビルがある? さすがにその推理はリアリティがないけれど、それぐらいしか香穂には思いつかなかった。

 窓の向こう側では、空を分かつように翼が真っ直ぐ伸びている。地上には、ジオラマみたいな街並みが広がり、そこから、長い橋が海上を渡っていた。白い軌跡を引く数多の船は、魚の群れのようだ。

 あれが瀬戸大橋かな、と眺めているうちに、睡魔が忍び寄ってきた。娘を誘拐されてからというもの、眠れない夜を過ごしてばかりいる。昨晩も少し微睡んだぐらいで、ほとんど寝ていなかった。意識に黒い帳が降りて来て、ふと目覚めた時には、「まもなく長崎空港に到着します」というCAのアナウンスが響いていた。

 意識を失くしていたのは一時間弱だけれど、それでも結構身体が楽になった。手荷物受取所まで進み、流れてきたキャリーバッグを取って、幹也とともに空港を出る。左へ行くとすぐにバス乗り場があった。券売機で乗車券を購入し、バスに乗ってから外を眺めると、空を覆う雲に所々、墨を流したような黒い色が混じっていた。

 しばらくバスに揺られ、大波止というバス停で降りる。指定されたAホテルは、五分も歩かないうちに容易に見つかった。

 緊張が、足元から這い上がってきた。犯人は、長崎港近くのホテルという曖昧ないい方をせず、このAホテルをはっきりと指示した。ということは、そこに意味があるのかもしれない。たとえば、このホテルの窓から盗みに入るビルがチェックできるとか。考えすぎかもしれないが、それだけ、香穂は神経が過敏になっていた。

「十二時過ぎたな。飯、食おうか」

 徐々に犯人に近づいているというのに、隣の夫はのんびりした声でいった。

 癇に障って、幹也を睨んだ。もう少し、緊張感を持てないのだろうか。妻が不眠で苦しんでいるのとは反対に、夫は「しばらく液卵チェックを代わってもらった」そうで、毎日普通に眠っている。それにも腹が立つし、一度「もうすぐ一億だ」と、馬鹿すぎるひと言を吐いたこともあった。香穂は今、夫のやることなすこと、すべてが気に入らない。

「なんだよ」

「別に、何も」

「ほら、そこに入ろう」

 通りを挟んだAホテルの正面に、「お食事処」の幟が立っている。居酒屋だが、お昼も営業している様子だ。幹也がどんどん進んでいくため、やむなく香穂はついていった。

 店内に入ると、カウンターはほぼ満席の状態だった。赤い割烹着姿の女性が「そちらへどうぞ」と手でしめしたので、座敷の方に幹也と座る。日替わり定食がビーフカレーだと説明を受けて、香穂は、じゃあそれにしますといった。

 一方、メニューを見た幹也は迷わず海鮮丼を注文する。日替わり定食の倍の値段だった。

 また些細なことで、香穂はむかついた。あと一つ要求に応えれば一億が手に入るから、気が大きくなっているのではないか。夫は、すでに大金を得たつもりになっているのではないか、と怒りが膨れ上がっていく。

 店員が去って二人きりになると、テレビから流れるニュースが聞こえるだけで、沈黙が満ちた。今、夫婦の話題は望海のこと以外になく、それは周囲に聞かれたくないので、どうしても外では会話がなくなるのだった。注文した品が来るまで、香穂は古びた黒いテーブルを撫でつづけ、ビーフカレーが届くと、機械的に口に運んだ。

 もうすぐ食べ終わりそうな頃、幹也が腕を上げて時計に目をやった。

「まだチェックインできないな。これから、どうする? どっか行くか?」

 その台詞を聞いて、三度、香穂は頭に血を上らせた。こんな時に、どこへ行くというのだ。観光でもするというのか。

「だから、もう一便遅らせれば良かったのに」

「そうだな。早め早めに行動するのが習慣になってるもんだから。でも、予め現地を見ておくのもいいだろ? 何をさせられるかわからないんだし、少しでも情報を」

「へえ、軽くいってくれるじゃない。何かさせられるのは、たぶん私なんですけど?」

「なんだよ。なに、苛々してんだ」

 幹也は眉根を寄せる。いわれて、数秒ほど香穂は黙りこみ、自らを省みた。これほど夫に腹が立つのは、単に私が苛ついているせいなのだろうか。

「……悪かったわね」

 一応謝ると、幹也は返事をせず、海鮮丼の残りをかきこんだ。怒っているのかと思ったら、彼は奇妙なことをいい出した。

「すぐそこに、軍艦島ツアーの看板が出てたぜ。行ってみないか?」

「軍艦島?」

 いきなり飛び出した不思議な単語に、香穂は戸惑った。でもなんとなく、聞き覚えがあるような気がする。

「それって、観光地なの?」

「たぶんな。俺もよくは知らないが」

 鼻から息が洩れた。

「そう。きっと、とても素敵な場所なんでしょうね。でも、今の私たちは──」

「まぁ、台風が近づいてきてるから、出航するかどうかはわからんけど」

 その言葉を聞いた時、ふいにさっと脳に光が差すのを感じた。

 香穂は唇に指を当てた。そうか。台風、そして港とくれば、船だ。きっと間違いない。犯人は、台風が接近している最中に、どこかの島で盗みをさせるつもりではないのか。

 それが、軍艦島かどうかはわからない。そもそも、その島に関する知識がまったくない。でも行ってみれば、何か手がかりが得られるかもしれないと香穂は考えた。

「そうね」

「ん?」

「いいわよ、行っても」

「そっか」

 幹也は意外そうな顔でうなずき、それから、膝に手を置いて立ち上がった。

 店の外には、夫のいう通り、一軒間を置いて、軍艦島クルーズの文字があった。入り口をくぐって、受付の男性に参加できるかどうか、幹也が訊く。すると、二時発の午後便にまだ空きがあるという返事だった。

 諸注意が書かれた誓約書にサインし、料金を払うと、首から提げるパスとチケットを渡された。指示通りに海の方へ歩いていき、停泊しているフェリーの傍まで来る。桟橋の前には鎖が渡されていて、まだ乗れなかった。乗船は一時四十分からだと記されてあったため、それまで近くにある木製のベンチに座って待った。

 最初は他に誰もいなかったのだけれど、観光バスが到着し、大量の人間を吐きだして去っていった。桟橋の前に人の行列ができる。やがて、四十分になり、乗船がはじまった。夫が腰を上げたので、香穂はその背中を追った。

 フェリーは二階建てで、一階から順に席が埋まっていった。香穂と幹也は二階に上がって、一番後ろのオレンジ色のベンチに座った。

 どんな島なのか知るために、香穂は乗船の際に渡された小冊子を読んでみた。

 軍艦島という名は、島の姿が軍艦を連想させることから新聞社がつけた通称で、本当の名前は端島という。端島のある海域には海底炭田があり、石炭が掘られていたが、それは明治二十三年に三菱社に買収されてから、大規模なものに変わった。同時に埋め立ても進められ、島の面積は広がっていき、現在の軍艦島の形が出来上がったそうだ。

 大正時代に採掘方法が革新的に変わり、採炭量が増え、人口が増大したので高層の住宅が建てられはじめる。戦後も大量の労働者がやって来て、最盛期には世界最大の人口密度を誇ったらしい。だが、エネルギー政策が変わって石炭が無用のものとなり、島民が全て去って、ここは廃墟の島としての道を歩みはじめたのだ。それが、昭和四十九年のことだ。

 このまま、人々から忘れ去られる運命にあるかと思われた軍艦島だが、2015年に世界文化遺産に登録されることが決定し、知名度が一挙に増して、現在は多数の観光客が押し寄せるようになったという。

 読み終えて、大まかな事実を知った香穂はため息を吐いた。どうやら、ここは廃墟と、かつては繁栄したという歴史しか残っていない無人島らしい。では、金目のものなどあるはずがなかった。まったくの無駄足だ。

 隣には若いカップルがいて、互いに何か囁き合っては笑い声を上げていた。その他の周囲も、観光客らしい浮ついた雰囲気で溢れている。そんな空気に取り巻かれていると、香穂の気分はどんどん滅入っていった。なぜこんな辛い目に遭っている人間が、こんなに楽しそうにしている人たちと行動をともにしなければならないのか。軍艦島について少しでも知っていたら、避けられた事態だ。おのれの無知を、香穂は恨んだ。

 もう、料金を無駄にしてもいいから下りたいと思ったけれど、その前にエンジンが始動を開始した。小刻みな振動が臀部から伝わってくる。

 フェリーは出航した。スピーカーから、稲佐山や長崎港の説明が流れはじめる。長崎港は鶴が翼を広げた姿に似ていることから、別名「鶴の都」とも呼ばれ……次々と、淀みなく解説が響いたが、落ちこんだ香穂の耳にはちっとも入ってこなかった。

 途中、伊王島に寄って新たな客を乗せてから、船は高島に停まった。明るく元気な女性スタッフが行列の先頭に立つ。香穂の頭には、こうなったら早く終わって欲しいという思いしかなかった。夫の後ろについて、とぼとぼと歩いていった。

 すぐに、黒い柵に囲まれた巨大な模型が見えてきた、

 それは、軍艦島のミニチュアだった。観光客が柵を取り巻くと、内側にいる男性ガイドが指示棒を使って話しはじめる。世界遺産に登録されてから、外国の方も含めてお客様がとても増えた、という枕から、島の解説がつづいた。香穂はやはり、無関係な話を聞く気分ではないので、伏し目がちに模型だけを眺めていた。

 とにかく、せせこましい、というのが一番の印象だ。島の半分に住宅部分が集中していて(反対側は炭鉱の施設だ)、空き地などほとんどない。こんな所に住んだら、さぞ息が詰まるだろうと想像した。さすが、世界最大の人口密度を記録しただけのことはある。

「これや、このへの字型をした建物はですね、防潮棟、つまり波を防ぐ役割を持った住宅です。台風の時は、波はこれら防潮棟すら越えて、島の反対側に届きます。それは、住居がある島の西側は外海に面しているからなんですね。それに対して、炭鉱の施設は内海側につくられています。つまり、この島はあくまで炭鉱のための島だったんです」

 男性ガイドの説明が終了すると、観光客たちは列を成して石炭資料館に入っていく。けれど、香穂は動く気になれず、ずっとその場に佇んでいた。幹也もさすがに妻を気遣ったのか、横から色々と、労りの言葉をかけてきた。

 時間の余裕がないのか、さっさとフェリーに戻らされ、また出航する。今度は、一階席に座った。二階席では案内の声はちゃんと聞こえたのに、ここではスピーカーの音があまり聞き取れなかった。もちろん、香穂にとってはどうでもいいことだ。まだかまだかと終わりの時を待ちながら、ただ、藍色の海にばかり視線を投げていた。

 そのうち、よく聞こえない声が軍艦島がどうとか、喋りだした。幹也がすっくと立ち上がり、二階へ行こうという。首をひねってから、香穂はついていった。

 二階のデッキへと昇ると、夫が誘った意味が理解できた。

 浪間に浮かぶ不思議な形をした島。軍艦島がその姿をあらわしていた。多くの観光客がカメラを取りだし、わいわい騒ぎながらシャッターを切っている。

 さすがにこの時だけは、香穂は軍艦島に気をとられた。

 模型ではなく実物を前にした感想は、「色がない」というものだった。島は植物に侵食されて、あちこちに緑が目立つが、中央の頂の上の建物も、島の端にある大きな廃墟も、微妙な違いはあれども、ほとんど灰色だった。死病に取り憑かれた画家が、陰鬱な妄念によって描いた絵のようだ。「軍艦」という勇ましい名前からは遠い、それは文字通り捨てられた島だった。

 男性スタッフがさっと桟橋に飛び降り、投げられるロープを受け取っては結んでいく。タラップが素早く下ろされ、手摺りが取りつけられた。慣れているのがよくわかる、一瞬の遅滞もない流れ作業だ。準備が整うと、みんながぞろぞろと上陸をはじめた。

 階段を上り、最初に貰ったチケットの半券を手渡す。観光コースはコンクリートで固められていて、順路に従って進んだ。住宅部分は危険なので、入るのは禁じられているらしい。それはそうだろうなと思った。窓どころか壁ごと抜けている住宅もあって、向こう側がまる見えだ。今すぐ倒壊しても、不思議でもなんでもない建物ばかりだった。

 三つある見学所の一つ目で、説明がはじまった。今我々が着いたのはドルフィン桟橋といって、三代目である。一代目も二代目も台風によって流されてしまった、といったような話だ。興味など持ちようがなく、香穂は漫然とあちこちに視線を動かしていた。

 次の見学所では第二竪坑櫓に関して説明があった。その階段が黒いのは、炭鉱夫たちの脚の裏についた石炭のせいだ。当時島に住んでいた人たちに聞いても、これは全然変わっていないという。また、かろうじて残っている赤い煉瓦壁が白くなっているのは潮のためである。これは雨が降って流されても、またすぐ白くなる──

 三ヵ所目に達する頃には、香穂はひどく疲れた気分になっていた。どんなに歴史的に重要な島であっても、今の私にはどうでもいいことだ。もう勘弁してほしい、とうつむいた。

「──それで、母親はですね、父親が夜炭鉱に行く前に、必ず子供を起こしてお見送りをさせたそうです。これが、今生の別れになるかもしれないからですね。命懸けの仕事だったんですよ。時に犠牲を払いつつ、彼らは日本の経済を支えてくれていたんです」

 今生の別れ……。

 香穂は勢いよく顔を上げた。

 目の前には、特に荒れ果てた正方形に近い壁があった。今は無残な姿でも、かつてはここに親が住み、子供が生きていたのだ。初めて、香穂は軍艦島を身近に感じた。

 夫に、あれは何か、と訊く。すると、戻ってきたのは「30号棟だとさ」という答えだった。


 フロントでチェックインを済ませ、六階のツインルームに入ると、香穂はベッドの上に頭から倒れこんだ。

 身体が痺れたようにだるい。睡眠不足が、かなりたたっているらしい。けれど、目を閉じても神経が昂ぶっていて、やっぱり眠れなかった。仕方なく、浴衣の上に置かれた小さな折鶴を指で弄んでいた。

「結構、凄かったな。軍艦島」

 どさりと隣のベッドに腰を落とした幹也が話しかけてくる。「七階建ての学校なんてものが、あったんだなあ。まぁ小学校と中学校が合わされば、それぐらい必要なんだろうけど」

「学校?」

「端島小中学校だよ。島の端にあっただろ?」

「……ああ、あれね」

「なんだ。ガイドの話、聞いてなかったのか」

「そんなの、頭に入るわけないじゃないっ!」

 瞬間的に怒りが沸騰し、香穂は身体を起こして怒鳴った。そこには、まるで観光客みたいな行動をとってしまったという苛立ちも含まれていた。

 幹也は唇を閉じた。今は、余計なことを喋っても、妻の機嫌を損ねるだけだと気づいたようだ。「大丈夫か」彼は、顔を寄せて尋ねてきた。

「辛そうだな。寝てないからだろ」

「……」

「よし、コンビニで弁当でも買って来るよ。それ食って、眠ってしまえ」

「食べたくない……」

「いいから何か、胃に入れておけよ。でないといざという時に、身体が動かないぞ」

 夫のいい草に、口元が歪む。犯罪のために、体調を整えるのか。やりたくもない盗みのために。なんという滑稽な立場なのか。香穂は思い切り声を上げて、笑いたくなった。

 いや……、娘の命がかかっているのだ。笑い事ではない。馬鹿馬鹿しくても、この場合は夫の方が正しいのだろう。

 香穂は反省し、注文はないか、訊いてくる幹也に何でもいいと答えた。夫は部屋を出ていき、十五分ほど経ってから、コンビニの白い袋を手に提げて帰ってきた。

 渡されたのは、トンカツ弁当だった。油っこいものを口にする気分ではないが、何でもいいと任せた手前、文句をいえず、のろのろと箸を動かした。犯罪者のためではなく、娘のためだと自分にいい聞かせながら。

 幹也はリモコンを使ってテレビを点け、焼き肉弁当に箸をつけた。画面は、ローカルニュースを映しだしている。長崎駅前で起きた交通事故。島原の溶岩ドーム。なんら興味をひかれなかった。感覚が、麻痺しているみたいだった。

 食べ終えた弁当の容器をごみ箱に捨て、ペットボトルのお茶を飲んだ。それから、横になる。疲労のせいで、身体が規則的に脈打っていた。唸るように呼吸しながら、香穂はこれからのことを考えた。

 盗みをどこかの島で行うというのは、たぶん間違いない。では、それはどこだろう。今日立ち寄った伊王島とか、あるいは高島? 台風が近づくと有利になるのであれば、人口が少ない島なのかもしれない。警察も、ほとんどいないような。だがそんな島に、大量の現金とか、あるいは金塊などが存在するのだろうか。

 ガイドの人に、この辺の島に大きな価値を有するものがないか、尋ねてみればよかったかもしれない。それとも、今からでも誰かに訊いてみようか。でも、もしそれで何かわかったとしても、だからといってなんらかの対策がとれるわけでもないし……。

 あまり役に立たない思考を進めているうちに、じわっと眠気がやってきた。目を閉じて、枕の位置を直す。不安は去らないけれど、今なら眠れそうだった。

 意識が徐々に闇に沈んでいく。と、頬に唇が当てられる感触がした。ブラウスのボタンを外され、慌てて瞼を開ける。見ると、夫が覆いかぶさっていた。

 香穂は仰天した。

「ちょっと、何してんの!」

「いや……」

 幹也は困ったような顔で、言葉を濁している。「望海も一億も、両方手に入れてやる」などと嘯いていた時の、自信に満ちた表情はどこかに消え失せていた。

 寝苦しいだろうから服を脱がしてやる、といった親切心ゆえの行動ではなさそうだ。幹也の手が内腿を這い、香穂は呆れると同時に怒りを覚えた。

「こんな時なのに、あなた、正気なの?」

 冗談ではなかった。夫とは、最後にいつベッドを共にしたかもう覚えていないぐらいだ。なのになぜ今さら、しかも娘が誘拐された非常時にことを行おうとするのか。

「いや、だってさ」

「何よ!」

「ほら、命の危機を感じると、男は種を残したくなるっていうだろ? なんかさ、嫌な予感がするんだよな。明日ぐらいに俺、死んじゃうみたいな」

「……」

 ああ、と香穂は脱力し、何ともいえない気分になった。そういう理由なのね。

 そういえば、意外と夫は気の弱い側面を持っている。交通事故のニュースを観たせいかどうかは知らないが、彼は恐怖を感じはじめたのだろう。一億に目の色を変えたり、かと思えば急に怖がったり、本当にこの男は呆れるほど小市民だ。

 香穂は、優しく夫の背中を叩いてあげた。

「大丈夫よ、あなたは死なないわ」

 死ぬとしたら、むしろ自分だろう。侵入先のビルから落下して。あるいは、口封じのために殺されて。脅迫のために投げられたのは母猫の死骸だったし、怖がらなければならないのは、こちらの方だ。

 いくら諭してやっても、幹也は止めない。レギンスパンツを脱がされて、ついに香穂は諦めた。こうなったら、夫は何をいっても聞かない。さっさと終わらせるしかなかった。

 今まで放っておいた罪悪感のなせるわざか、妙に前戯がしつこかった。感じたくないのに、やたらと下半身に舌を使われ、潤いが溢れる。香穂は終了してもらうために、「早く来て」と、わざと甘い声を出してねだった。

 夫が上で動いている間は、瞼を下ろして、ひたすら数をかぞえていた。三百十五に達したところで、ようやく射精してくれた。

 すぐさまバスルームへ飛んでいき、香穂はシャワーを浴びた。

 指で掻きだし、念入りに白い液体を洗い流す。こんな日に、妊娠だけはしたくなかった。もしかしたら、望海が死ぬかもしれないのに。大体、娘が誘拐されているのに、当の両親がその間にセックスしているなんて非常識すぎる。情けなくて、涙が滲んだ。

 バスタオルを巻いて戻っても、すでに消えた眠気は訪れなかった。寝ろといったのは幹也だったのに。腹が立って、仕方がなかった。夫の方は出すものを出してすっきりしたのか、浴衣を着て両目を閉じている。

 同じように浴衣をはおってベッドに横たわり、天井を見上げた。テレビの音声のみを聞きながら、香穂はもうひたすら何かが起きるのを待った。ロールニュースが終わり、アニメがスタートする。望海が好きだったアニメだな、と思うと、また悲しみに襲われた。

 一時間が過ぎて、今度は音楽番組が流れだした。だが、どんな歌を聞かされても、今は心が動かない。やがてその番組も終わり、全国ニュースがはじまった。

 と、その時。

 幹也が枕元に置いていた携帯が鳴りだした。寝惚け眼で半身を起こした夫が、電話に出る。彼は、真剣な表情に変わった。

 言葉少なに相槌を打っている夫を、香穂は呼吸をほとんど止めて見つめていた。

「犯人からなのね?」

 携帯を置いた夫に、香穂は尋ねた。

「そうだ。用意したものを持って、今から来いって」

 緊張が全身を走った。いよいよ、犯人と対面する時が来たのだ。

 急いで服を着替え、要求された品々が入っているキャリーバッグを牽いて部屋を出た。指定場所は港の傍のベンチだという。なんのことはない、フェリーに乗る前に座っていたところだった。

 ホテルの自動ドアをくぐり、ドラゴンプロムナードという大層な遊歩道の名前を眺めながら、信号が変わるのを待つ。その間も、心臓はどくどくと大きく脈打っていた。

 ベンチの指定は特にないというので、適当に選んで腰を下ろした。こうして待っていれば、犯人が接触してくるのだろう。人影が近寄って来ないかと、香穂は左右に視線を動かした。夫はまだ眠いらしく、隣で目を擦っている。

 目の前に犯人がのこのこ顔を出したら、私は襲いかかるかもしれないな、と思った。もちろん、娘を人質にとられている以上、そんなまねはできない。香穂は、すでに覚悟を決めていた。犯人の要求には、すべて従う。どこかに侵入しろといわれればやるし、何かを盗めと命じられれば、その通り行う。犯罪であろうが何だろうが、望海のためならどんなことでもやるつもりだった。

 人が通り過ぎる度に、どきりと胸が鳴る。ジョギング中の男が近づいてくれば、あいつかと鋭い視線を送り、男女のカップルが寄ってくると、偽装を疑って目を離さなかった。相手からすれば、やたらと凝視してくる奇妙なおばさんだ。けれど、香穂は気にしなかった。というより、気にする余裕がなかった、という方が正しいだろう。

 ようやくしゃきっとしたのか、幹也はうろうろと歩きまわり、伸びをしたりした。

「なあ、きれいだな」

 声をかけられ、顔を向けると、前方の稲佐山がマンションなどの明かりで彩られていた。Aホテルをネットで調べた時、説明文にあった「窓から夜景が楽しめる」という謳い文句を思い出す。振り返るとAホテルがあり、窓のあちこちに明かりがついていた。

「……そういえば、さっき明かりを消さなかったわね」

「ん?」

 幹也は腕を組み、首を傾げた。

「ああ、あの時か、忘れてたな。でも、大丈夫だろ。カーテン閉めてたし、六階だし。覗かれはしないよ」

「あなたが急に発情するからよっ」

「どうした、どうした」

 香穂が声を高くしたので、幹也は目を見開いた。

「それはこっちの台詞よ。さっきは怯えてたのに、今はリラックスしちゃって」

「開き直ったんだよ」

「どうして、ここで開き直るのよ。馬鹿じゃないの?」

「いい加減、俺に当たるなよ……」

 呆れた銚子でいいかけた幹也は、口を閉ざした。首は右の方へねじられている。つられて、香穂もそちらを見やった。

 二十メートルほど先に立っているのは、若い女の子だった。闇に紛れてわかりにくいが、セーラー服を着ているらしい。彼女は、両手で何かを大量に抱えていた。

 幹也は、あの子を不審に思っているのだろうか。けれど、さすがに子供は関係ないだろう。それともこの人は、ただ単に若い子に反応しているだけか。

 黙ったまま、幹也はその子の方へと歩いていく。「え?」と香穂は驚きを声に出した。

 見ていると、夫は女の子と会話を交わし、財布を取りだして、小銭を渡したようだった。代わりに、女の子が抱えていたものを受け取った。

「何があったのよ」

 戻って来た幹也に、香穂は訊いた。

「いや、様子が変だし、目が合っちゃったから、話しかけてみたんだよ」

 幹也が持っていたのは、二本のペットボトルだった。オレンジジュースと緑茶だ。

「なんか、部活のパシリにされたんだけど、予定より買いすぎちゃったんだってさ。その分、自腹を切らなきゃいけないって困ってたから、二本だけ買ってあげた」

「そんなこと……」

 不自然な行動をとるから、何かと思えば。くだらない、と呟き、香穂は肩を落とした。こんな非常時に、よくそんなどうでもいいことに首を突っこめるものだ。これが、開き直った効果というわけか。

「お前も協力しろよ。どっちがいい?」

「どっちでもいいわよ」

「じゃあ、オレンジな」

 捨てるのも勿体ないので、渡されたペットボトルを受け取り、キャップを開けた。一口だけ、飲み下す。少し、苦みを強く感じた。

 別に喉は乾いていなかったけれど、手持ち無沙汰なので、ついつい口をつけてしまう。十分ほどかけて、香穂はすべて飲み切った。幹也は、すでにペットボトルを空にしている。

 それにしても、遅い。呼びだしておきながら、犯人はちっとも姿をあらわさなかった。焦らしているのだろうか。

 もしかしたら、遠くから二人を眺めて楽しんでいるのかもしれない。この犯人ならば、そういう趣味があってもおかしくなかった。

 時折、幹也に時刻を確認しているうちに、三十分が無為に過ぎていった。

 それから、さらに時間が経った頃だった。異変が生じた。

 とても大事な時だというのに、眠くなってきたのだ。いくら首を振っても、瞼が上がってくれない。堪えようがないほどだ。腕をつねっても、たいして効果がなかった。

 怒りがまた、夫に向けられた。さっき寝かせておいてくれれば、こんなことにはならなかったのに。まったく不要な行為に励んでくれたおかげで、このざまだ。

「どうかしたか?」

「うん……眠くなってきちゃって」

「なら、寝ろよ。何かあったら起こしてやるから」

「そうはいかないでしょ」

「問題ないって。五分眠るだけでも、かなり違うぞ」

「……」

 夫のアドバイスに、香穂は反論できなかった。

「ほれ、肩貸してやるから」

 優しくされると、逆らえなかった。これから、犯人の命令で身体を酷使することになるだろう。であれば、少しでも休んでおいた方がいいのは自明だ。

 香穂は夫の言葉に従い、彼に身体をもたせかけて、目を閉じた。

 あれ、俺も眠いなあという幹也ののどかな声を聞いたのが、最後だった。香穂は、深い闇の底へと沈んでいった。

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