第5話 川べりにて


 土手の草むらからは、強く糞の臭いがした。スニーカーを踏みだすと、ぐにゅ、と柔らかい土にめりこんでいく。死体を踏むようなその感覚が、とても厭わしかった。何か深みにはまっていくような、もう決して平和な日々に戻れないような、そんな錯覚に陥った。

 香穂はからみつく妄想を払った。もう履かなくなった古い汚れたスニーカーを下駄箱から引っぱりだしたのは、もしもの事態に備えるためだ。万が一、犯人が接触してきた場合、走って追いかけられるようにするためだった。それだけ固い意志を持って臨んでいるのに、今さら弱気になってどうするというのか。

 転ばないように注意しながら傾斜を下って、河川敷に立つ。そして、橋を見上げた。周囲は樹木に囲まれ、三日月が照らしてくれてはいるが、闇の深さはどうしようもない。幹也が懐中電灯を橋に向けると、青い色が光の中に浮かび上がった。

 ここは埼玉県K川の川べり。犯人がわざわざ地図をコピーして、しめしてきた場所だ。二つ目の要求──それは二日後の土曜日、夜の二時にここに立ち、また幹也が香穂を撮影するというものだった。現在、時刻は一時三十分を少し過ぎたところだ。

 K川なら自宅からそう遠くないし、馴染みはある。桜の季節には、家族で花見に来たこともあった。だが、真夜中となると話は別だ。コオロギと鈴虫の鳴き声以外は音がなく、恐怖がじわじわと香穂の胸を蝕んだ。なぜ、犯人はこんな場所を指定したんだろう。こちらの神経を痛めつけたいのか。それとも、ただ単に人けのない所を選んだだけか。

「しかし、土曜日で助かったよ。液卵チェック休まずに済むし。犯人も気を遣ってくれてるのかな?」

「……」

「まぁ、あんまり休むと、周囲に怪しまれる怖れがあるしな。それを嫌ったのかもな」

 幹也のお喋りに、香穂は相槌すら打ちたくなかった。娘が誘拐されたというのに、こんなふうに軽い調子で話せる夫が信じられない。この状況に、もう慣れたとでもいうのか。男親というものは、所詮この程度なのか。

 それとも──香穂はゆっくりと首を振った。

 昨日、香穂は藤村家を訪れた。髪を乱した聡子は、目の下にくっきりと隈をつくっていた。彼女は、いつも同じ時間に買い物に行くので、そこを狙われたらしい、でもなぜ猫を盗んだのかわからない、お金が目的でないのなら、怨恨かもしれないといって、泣いた。

 奪われたのは、母猫のネネとメスのあんずだった。生きる気力さえ失ったふうに見える聡子はか細い声でいった。もう息子夫婦の元へ行く、泥棒が入ったこの家には怖ろしくていられない、と。それも無理はない、と香穂は同情した。もちろん、望海が誘拐された事実は、聡子にはひと言だって、洩らしてはいない。

 猫の泥棒と、望海を誘拐した犯人は同一人物なのだろうか。

 わからなかったが、香穂は、二つは別個の事件なのではないかと考えるようになっていた。だって、誘拐という大きな犯罪を行っているのに、その隣家でまた窃盗を働くなんて、リスクが大きすぎるではないか。世の中には、奇妙な事件はいくらでもある。きっとこれは、非常に確率の低い偶然なのだろうという結論に、今は落ち着いていた。

 ネックストラップでビデオカメラを首から提げた幹也は、あちこちに懐中電灯の光を当てたり、暗い川面に視線を投げたりしていた。手を口に当てて、小さくあくびもしている。あまり、緊張感はなさそうだ。そんな夫が傍にいると、香穂の苛々は益々募っていく。

 犯人と同様に、香穂には幹也の思考が読めない。娘がさらわれたというのに、怒りや悲しみといった当然あるべき感情が、あまり感じられないのだ。それより、「一億」という数字にひどく心を魅かれ、勇んでいるみたいに思える。

 これから、何が起きるかしらないけれど、少なくとも、二時まで待たされるのは確実だ。それまでは暇なのだから、カマをかけてみようか。

 香穂は決意を固め、唇を開いた。

「でも、一億円ってすごいわよね。普通なら絶対、手に入らないお金だものね」

 わざとらしい調子にならないように気をつけながら、そう口にする。小石を蹴っていた幹也は、香穂の方を向いた。

「ん? ああ、まあね」

「私、一億あったら、どうしようかな。ねぇ、あなたは何したい?」

「うーん、そうだな。まず一番に会社を辞めるね」

 あっさりとしたその答えに、香穂は驚いた。

「辞めちゃうの? あなた、自分はベテランだって自慢してたじゃない」

「だって、給料が安すぎるからね」

「そ、そう……」

 幹也が辞めたがっていたという事実が、香穂にはショックだった。仕事の愚痴なんて、ほとんど洩らさない人だったのに。では、不満はすべておのれの胸に溜めこんでいたのか。

「だったら、辞めてどうするの?」

「しばらくは、何もしないかな。ぶらぶらするよ」

「骨休め?」

「そうそう。あ、そうだ。旅行には行きたいな」

「海外とか?」

「まさか、国内だよ。せっかくこんな治安のいい国に生まれたのに、わざわざ海外に行くのは、俺にいわせりゃ愚の骨頂だね。馬鹿らしいよ」

 へえ、と思わず声が出た。幹也が、こんな考えの持ち主だったとは。夫の知らない面が次々出て来て、香穂はかなり面食らっていた。

「それから、コロッケの食べ歩きをしたいかな」

「コロッケ?」

「ああ。昔、実家の近くの肉屋がコロッケ売っててさ。それがめちゃくちゃ旨かったんだよ。その味が忘れられなくてさ。そこはもう店をたたんじゃったんで、あちこち食べ歩いて、近い味のコロッケがないか、探してみたいんだよな」

「コロッケって。そんなのあなた、全然リクエストしないじゃない」

「だってお前、揚げ物は惣菜ばかり買って、自分では全然やらないじゃないか。油を使うのは面倒だし、つくったこともないからって」

 そんなこといったかな、と香穂は首を傾げた。いったとしても、かなり昔の話だろう。今はさすがに専業主婦として、そんな逃げを打つ気はない。コロッケぐらい、いくらでもできると思った。確かにまだ、一度もつくったことはないけれど。

 まぁ、そんな話はどうでもいい。

 そろそろ核心に入ろう。香穂は、大きく笑みをつくった。

「他には?」

「そんなもんかな。ま、しばらく好きに遊んで、それから商売でもするよ」

「働くのは、嫌なんじゃないの?」

「嫌とはいってない。労働の対価が見合ってないといってるだけだ」

「何の仕事をするのよ」

「そうだなぁ。あ、あのコロッケの味を再現して、惣菜屋をやるのもいいかもな」

「私はどうするの?」

「もちろん、調理を頼むよ」

「ふうん。……それじゃあ、望海は?」

「ん?」

「そこに、望海はいるの?」

「なんだよ」

 素早く笑顔を拭い取り、香穂は右脚を踏みだした。眉が、自然とつり上がるのがわかった。鋭い声を響かせる。

「あなたは、望海の心配をしているの? 一億円は貰えたけれど、望海は戻って来なかった、そんな場合はどうするの? それでも、あなたは今口にしたちゃちな願望を実行する気? 本当はあなた、娘の命なんてどうでもいいんじゃないの?」

「おい、興奮するなよ」

 幹也が左手で腕を掴んでくる。香穂はその手を振り払った。

「今のあなたって、一億しか目に入ってないみたいに見えるんだけど? どうなのよ! 答えてみなさいよ!」

「落ち着けって」

 香穂は、肩を両側から押さえこまれるように掴まれた。今度は振り払えなかった。

「俺が、望海の心配をしてないんじゃないかって、本気で疑ってるのか?」

「……」

 夫が間近まで顔を寄せ、目を覗きこんでくる。香穂は黙って、幹也を見つめ返した。

「俺が望みを邪険に扱ったことがあったか? 俺が娘に愛情を注いでないと思うのか?」

「それは……」

 それは、確かに、ない。そんなふうには思わない。

 幹也は真面目な表情でつづける。

「いいか。正直いって、一億って金は魅力的だ。でも、だからといって、娘と引き換えみたいな話になれば、それは拒否する。望海の方が大事に決まっているからな」

「そう……。そうよね」

 穏やかな口調に、尖っていた心が和らぐ。そこにいるのは、普段の夫だった。彼は金に目が眩んで、正常な判断を失ったりしてしない。誤解だったとわかり、香穂は安堵した。

 その、矢先だった。

「大丈夫だ。望海も一億も、両方手に入れてやるさ」

 にやりと笑って、幹也はいった。香穂は目を剥き、口を半開きにする。映画の前半で殺されそうな小悪党っぽい台詞に希望は暗転し、一気に絶望に突き落とされた。

──駄目だ。やっぱりこの人は、一億円というお金に取り憑かれている。

 もう、何も喋る気がしなくなった。沈黙した妻から、夫は手を離す。一歩、二歩と幹也から離れた香穂は、空に浮かぶ月を見上げた。

 爪の先に似た三日月を眺めながら、こんな人だったのか、と思った。それでも、心の中で必死に幹也の弁護をはじめたのは、やはり夫に愛情を持っているせいだろうか。

 しょうがない。一億なんて聞けば、誰だって気の迷いを起こさずにはいられない。お金が欲しくない人はいないだろう。夫が悪いのではない。この人は、ごく普通なんだ。

 必死になって庇っても、しこりはどうしても残った。幹也が腕時計に目をやり、「そろそろ二時だ」と声をかけてくる。香穂はなんとか、気持ちを切り替えようとした。

 幹也はカメラのナイトショット機能を使って、録画をスタートした。未だに、この撮影にどんな意味があるのかは不明だ。前回が望海に見せるためだとしたら、今回は何なのか。犯人が鑑賞して、楽しむのだろうか。だとしたら、ろくでもないことが起きそうだが。

 夜の闇に沈む橋に、視線を這わせた。わざわざこの場所を指示してきたのだから、この橋に何か意味があるのだろう。ここを、犯人が通るのだろうか。香穂は想像した。もし警察の協力を得て、待機してもらっていれば、簡単に犯人を逮捕できたはずだ。しかし──相手が複数犯だった場合は、すぐに望海は殺されてしまうに違いない。やはりそれはできなかったのだと、香穂は無理やり自分を納得させた。

 虫の声を圧して、遠くからエンジン音が聞こえる。

 来た。

 きっと犯人だ。香穂の心拍数は一気にはね上がった。

 ヘッドライトを光らせて、ゆっくりと走ってくるのは中型のバイクだった。たぶん、250ccぐらいだ。そのフォルムから、フルカウルであることは見て取れた。

 運転者は黒っぽいバイクウェアを着て、フルフェイスのヘルメットを被っている。細身で、身長は幹也ぐらいだと思われた。

 徐行の速度で橋の上に達すると、急に犯人は腕を動かした。何かを投げたのだ。

 ぶつかる気遣いはなかったが、反射的に後ろへ下がった。微かに、べちゃりという音を聞いた気がした。なぜだか、背中を寒気が走り抜ける。

 バイクは一気にスピードを上げて、走り去っていった。

「え?」

 落ちたのが何なのか、よくわからない。幹也が落下物の方を撮影しながら、懐中電灯の光を飛ばした。指が動いたので、ナイトショット機能をいったん切ったようだ。

 楕円形の明かりの中央に、黄色い毛の塊が浮かび上がった。

「──きゃあああああっ!」

 はっきりと理解できた瞬間、香穂は喉も張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。距離を空けて横たわる大小二つの物体。それは血に塗れていた。猫だ。マンチカンの死骸だった。

 間違いない。聡子の家から連れ去られた、ネネとあんずだ。ネネは身体の右側を下にして、あんずは左側を下にして、土の上で平たく潰れたようになっている。

 二匹の腹から覗いているのが内蔵の一部だと認識した時、香穂は壊れた。

「いやああああっ!」

 自分の身体を抱きしめながら、香穂はひたすら声を放った。どうしても、止められない。まさか。まさか、殺すなんて。目の前の光景が、受け入れられなかった。何のために、こんなことをするのか。どうして、こんな残酷なまねができるのか。

 この犯人は、本当に普通じゃないんだ。悲鳴を響かせながら、香穂は強く胸に思った。

「何してんのよ! いつまで撮ってんの!」

 ふと見るとカメラを向けられていたので、逆上した。夫に罵声を浴びせ、腕を叩く。

「だって、そういう指示なんだから」

「いつまでも馬鹿正直に従ってんじゃないわよ! あんた、あれが見えないの? お隣の猫が殺されてんのよ!」

「ああ……そうだな」

 ようやく反省したのか、幹也はビデオカメラを持った腕を下ろした。

 香穂は力が抜けてしまい、ジーンズが汚れるのも構わず、その場に座りこんだ。子供みたいに、膝を抱える。二匹の死骸の方には、もう視線を向けられなかった。

 涙が勝手に溢れてきて、いつまでも香穂の頬を濡らした。


 ソファで横になっている夫の傍から離れたくて、香穂はダイニングの椅子に座っている。手で顔を覆ったまま、じっと自分の唇から洩れる呼吸音を聞いていた。

 衝撃はやや薄らいだものの、まだ癒えなかった。これほど、気分を悪くさせられた覚えはない。胸のむかつきは、いっかな去ろうとしなかった。これ以上となると、娘の死体を突きつけられる場合しか思いつかないぐらいだ。

 まさか猫を殺すために、そしてそれを見せつけるために盗んだとは、想像もしなかった。当然だ。仮にそんな残虐な着想を得たとしても、誰が実行するというのか。香穂は、この犯人が血の通った人間だとはどうしても思えなかった。おそらくまともな神経など、一本も持っていないのだろう。こいつならば、必要な時に躊躇いなく望海を殺すに違いない。

 わざわざ猫を盗んで、殺してみせた理由は明らかだ。警告。指示に従わなければ、お前ら親子はこうなる、としめしているのだろう。それは、充分な効果を上げた。香穂は、警察に頼ろうなどという気はまったく失くしていた。怖ろしくて、とても逆らえない。もはや唯々諾々と、犯人の要求を呑むしかなかった。

 けれど、ビデオカメラでの撮影は、余計だったのではないか。なぜ、あんなことをさせたのだろう。後で観て、楽しむのだろうか。警告ついでの余興、というわけか。

 行き場を失った怒りは、平然と香穂を撮影していた幹也に向けられた。「ホラー映画で慣れてるから」というのが、夫の釈明だった。だが、現実と映画は違うだろう。男があの場で取り乱さないのは、頼もしいと見るべきなのだろうか。

 ……いや、そんなふうには思えない。夫には、人として大切なものが欠けているとしか考えられなかった。

「香穂」

 幹也がやって来て、ダイニングの入り口に立った。香穂は、僅かに顔をそらす。

「まだ、気分が悪いのか?」

 夫の指が肩にかかる。香穂は、その手をそっとつまんでどかせた。

「機嫌直せよ。あんな時は、とりあえず犯人の要求に従おうとするのは当然じゃないか。望海の命がかかってるんだから」

 理解を求める口調で、夫はいう。そんないい方をされると、怒りを持続できなかった。

「お前、俺が金に目が眩んでると思ってるんだろ? 止めてくれよ、勝手に人の思考を詮索して、腹を立てるのは。そんなに俺が信じられないのか?」

「……」

「まぁ、こんな状況だから、神経がおかしくなるのも当たり前だけどさ」

 幹也は隣の椅子を引いて、腰を下ろした。

「猫、可哀想だったな」

 夫がぽつりと零す。たちまち、明かりに照らされた二匹の映像が瞼の裏に戻ってきた。死骸は土手に穴を掘って埋めたが、聡子に事実を伝えるのは無理だ。あんなに猫を愛していた彼女には、どうしたっていえない。

 香穂は、細く長いため息を吐いた。

「そうね」

 とりあえず、幹也から人間らしい温もりを持った言葉が聞けたので、香穂の頑なだった心は少し融けた。そう、今は夫婦の間に亀裂を生じさせている場合ではない。一億という金額は、もしかしたらそういった効果を狙って提示されたのかもしれないし。この異常な犯人であれば、それぐらい計算していそうな気がする。だとしたら、相手の思う壺だ。

「あなたは……」

 香穂が喋りかけた時だった。廊下の電話が遠慮のない大きさで鳴り響いた。

 心臓に、ナイフを突き立てられた感覚だった。すぐにバネで弾かれたみたいに、香穂は立ち上がる。幹也は、少し驚いた目で妻を見上げていた。

 時刻は、夜の三時を過ぎている。こんな時間に電話をかけてくるなんて、尋常ではない。もしかしたら、という強い予感を抱きつつ、香穂は歩いた。

「──もしもし」

 全身に緊張を覚えながら、受話器を取って話す。

 一拍置いて、甲高い男の声が耳朶を打った。

「もしもし、夜分恐れ入ります。遠藤香穂様でしょうか」

 初めて耳にする声音なのに、長年嫌っている知人の声を聞くように、すでに不快だった。手紙と同じ、丁寧な言葉遣い。どうやら、予感は当たったようだ。

「そうよ。……あんたが犯人ね?」

「はい」

 ようやく直接会話を交わす機会が来たと知り、香穂は腕にさあっと粟粒を生じさせた。猫の死骸を目にした気持ち悪さが、いっぺんに消し飛んだ。

「なんてこと、してくれたの! あんたは! なんてことを……」

 後がつづかず、香穂は荒い呼吸を繰り返す。千万言の罵倒を費やしても足りないのに、いいたいことがあり過ぎて、逆に相応しい言葉が出て来なかった。

 回線の向こうの男の声が、笑みを含んだ。

「誘拐のことですか? ああ、猫のことですか。すみません、でもあれぐらいしないと、警察に連絡されるのではないかと、こちらも不安でしたもので」

 余裕に満ちた口ぶりで男はいう。お前に、不安を感じる神経があるのか。ふざけるな。香穂の体内で憎悪は、さらに水位を上げた。

「それでですね。遠藤さんも不安でしょうから、少し娘さんの声を聞いてもらおうかと」

「え? 何ですって?」

 香穂は大きな戸惑いを覚えた。それほど、思いもよらない展開だった。

 この極悪非道の犯人が、こちらに気遣いをしめすとは。受話器を握る指先に、勝手に力が入った。

「本当に? 聞かせてくれるの?」

「はい。今、代わりますね」

 望海と話せる。怒りがしめていた場所に期待がとって代わり、香穂の胸は躍った。気配を感じて振り返ると、心配そうな目をした夫が背後に立っていた。

 息を呑んで待つ。数秒の間が空き、それから聞き慣れた娘の声が響き渡った。

「ママ? ママぁっ!」

「望海っ!」香穂は声を張り上げた。「望海なのね? 元気なの? 怪我はしてない?」

 返事はなかった。すぐに元の男の声に交代した。

「すみません。これぐらいで、勘弁してください」

「何でよ! ちゃんと話をさせてっ!」

 喜ばせておいて、この仕打ちだ。あまりのことに、気が狂いそうに感じた。

「申し訳ありません。でも、これで娘さんが無事だとわかってもらえたでしょうから」

 低姿勢だけれど、犯人の言葉は断固としている。きっと、望海に居場所を特定できるようなヒントをいわれたら、困るからだろうと香穂は推測した。

 香穂は歯軋りし、それから焦る心を急いで宥めた。やむを得ない。この場は犯人のいう通り、娘の生存が確認できただけで満足しよう。

「じゃあ、早く三つ目の要求を教えなさいよ。私たちに何をさせたいの?」

「それがですね、ちょっと予定が狂って、少し先に延びそうなんですよ。ですから、こうして声を聞かせたんです。望海さんは無事ですので、どうぞ安心して次の連絡を待ってください」

「え……?」自然と、両目が細くなった。

「少し先って、いつになるのよ」

「それがはっきりしないんですよねえ、こればっかりは、なにせ天候の問題ですから」

 天候? どういうこと? 

 困惑した香穂は唇を結んだ。

「とにかく、お待ちください。たぶん、今月中には連絡できるでしょう」

「待って。一つだけ教えて。どうして、ウチの子を誘拐したのよ。ウチを選んだのは、たまたまだったの?」

「ああ。それは、次の連絡の際にわかると思います。では」

 待って、ともう一度繰り返したが、容赦なく電話は切られてしまった。

 単調な不通音を聞きながら、香穂は動きを止めて固まっていた。一度に色んな情報が入りすぎて、うまく処理ができない。夫が話しかけてきても、手を突きだして止めさせ、頭を懸命に働かせた。

 まずは一応、娘の無事がわかったことが嬉しいし、最大の収穫だった。猫の死骸があまりにも強烈で、恐怖を感じていたところだったから、タイミングも丁度良かった。だからといって、犯人に感謝はしないけれど、でも、心の負荷がだいぶ軽くなったのは事実だ。

 それから、最後の要求が、天候に影響される類いのものであることもわかった。だが、それが何かは想像がつかない。かなり脳を絞ってみたが、ろくな推理が出てこなかった。

 それより、引っかかるのは犯人の最後の言葉だ。望海を誘拐したのは、たまたまだったのかという問いに、奴は返答を避け、次の連絡の時にわかるとだけいった。その口ぶりからして、明確な理由がありそうだ。だとしたら、それは何だろう。

 悩んでも、材料がなさすぎて、思考をつづけることもできなかった。

 答えが判明したのは、十二日後の深夜、再び犯人から電話がかかってきた時だ。

 男の声は長らくお待たせしました、と謝ってから、明日、長崎港近くにあるAホテルに二人で泊まるよう指示した。平日だから、ご主人は会社を休んでくださいという。さらに、香穂が携帯電話を持っていないので、幹也の携帯番号を教えるよう要求された。次は、それを使ってまた連絡するそうだ。

 そして犯人は、撮影したビデオカメラの他に、走りやすい靴と、ボルダリングをする時の服装とシューズ、チョークなどを持ってきてほしいとつけ加えた。

 ようやく、香穂は自分が狙われた理由を知ったのだった。

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