第3話

「まさか、中川君が、香川七月先生本人だとは思わなかったよ」

 大学の教室の片隅で彼女は口を尖らせて、そんなことを言った。

「それじゃあ、私、書いた本人に向かって、本の魅力を語ってたってことになるじゃん」

「ごめん……一応、匿名作家でやらせてもらっているからさ……」

 「香川七月」というのは、「中川夏樹」という本名をもじったペンネームだ。「なかがわなつき」を並び替えると「かがわななつき」になる。我ながら単純なネーミングだ。まさか本当にプロとしてデビューできるだなんて思っていなかったから、思い付きでペンネームをつけてしまったけど、もう少し考えて付けた方がよかったかもしれない。

 バーチャル読書会はつつがなく終わり、俺は彼女に自分が考えていたことを素直に打ち明けた。自分の正体が、彼女が読んでいた本、『無限の出会いとさよならと』の作者であるということ。そして、彼女が本山らの本人なのではないかと疑っていたこと。

「それにしても、君が私を本物のらのちゃんだと思っていたなんてねえ」

 秘密を打ち明けて距離が縮まったのか、砕けた口調になった彼女はいたずらっぽく微笑む。

「……声が似てると思ったんだよ」

「まあ、確かに、それはそうかも」

 どうやら彼女は、本山らのではなく「らの担」であったらしい。

「一回、『おはらの』とか言ってたし……」

「いや、あれはガチで口を滑らせたから、あまり触れないでほしいな……」

 どうやら、彼女は「らの担」の一人としてらのちゃんの放送を追っているうちに、自分の声がらのちゃんに似ていることに気が付いたらしい。

「あんなかわいい子に似た声が出せるって気が付いたら、練習せざるを得ないでしょ?」

「練習ねえ……」

 彼女はらのちゃんの物真似の練習をし過ぎた結果、教室でも口を滑らせて「おはらの」と言ってしまったらしい。なんだ、それは。

「だいたい、仮に私が本当にらのちゃんだったとしたら、最初に喋ったとき、君の本を『まだ読んでない』なんて言うわけないじゃない」

「それを言われたらぐうの音を出ないが……」

 らのちゃんは当然、俺をバーチャル読書会のゲストとして招いた時点で、俺の本を読んでくれていた。仮に彼女が本山らの本人なのだとしたら、まだ「本を読み終わっていない」などと言うはずがないのだ。そんな初歩的なことに気が付かなかったことについては、自分が愚かだったというしかないのだが。

「まあでも残念だったね」

 彼女はどこか不自然なくらいに明るく笑って言った。

「私がらのちゃんじゃなくて」

「………………」

 俺は思わず、まじまじと彼女の顔を見てしまう。

「ただのラノベ好きなだけの女の子よりも、やっぱり本山らのちゃんと知り合えた方が嬉しかったでしょ? あ、いや、君は実際にらのちゃんと喋ったんだったか。だったら、猶更だよね」

 そんなことを楽しそうに言うのだ。

 俺は人の心の機微が解らない人間だ。

 一応、作家ではあるものの、未だに一度だって満足に人の心の機微を描けただなんて思っていない。人の心というのは、本当に複雑怪奇な代物で、目の前に居て、言葉を交わす相手の考えていることだって、完全に理解できたなんて思えたことは一度もない。

 解らないんだ、本当に。

 だけど、解りたいと思う。

 バカな勘違いかもしれない。

 それこそ、青春ラブコメの主人公みたいにどこか空回りしているのかもしれない。

 それでも、確かに今この瞬間に彼女に言わなくちゃいけない言葉だけははっきりと解って、

「俺は――」

 俺はゆっくりと息を吸い込んでから言った。

「――君が君であって良かったと思ってるよ」

 きっと、この世界が一つの小説だったなら、ここで物語は終わるんだろう。

 そんなことを考えた。

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