第22話 海の社の終わり

 全身が冷たい氷に刺されたような衝撃を感じ、ナギサは目を見開いた。目の前には屋敷の木造の天井があった。乾いたお香の香りが肺に流れ込み、むせ返る。

 咄嗟に身を起こし、襖に耳を当てた。何も聞こえない。ここは屋敷のどこで、いつの時間で、フユ姐はどこにいるんだろう。

 カチャン、と音がして首元に冷たい感触がした。目を横に動かすと、そこには光る何かがあてがわれている。刀だ。


「なぜ、戻ってきた」


「コハル…」


 振り返り、その懐かしい姿に思わず目が潤んだ。コハルは刀を慣れた手つきで鞘に収め、ナギサを睨んだ。


「友だちを探しにきた。生贄として、海に連れて行かれたんだ」


「ならぬ。ここは、人が気軽に行き来できる場所では無い。人は命に干渉してはならない。命を軽んじることは、罪深きことだ」


 コハルは強い口調で言った。


「でも、生贄なんてあってはならない。だから君は灯台を作ったんだろ。コハルが一番わかってるはずだ。君は誰の命も奪わない海を望んでいた。」


「…マガツカミ様、来ました!」


 シキが焦った表情でドタドタと走ってきた。それと同時に屋敷が大きく揺れた。天井から埃がバラバラと落ちてくる。


「ぐっ…」


 コハルが心臓を押さえてうずくまった。シキが駆けつけ、コハルの肩を支えた。


「しっかりしてください…って、お前…いや、今はそれどころじゃない」


「どうなってるんだ?何が起きた?」


「海の封印が破られる。マガツカミ様の魂がまもなく終わってしまうんだ。早く生贄を」


「…シキ!祖霊を、はやく送り届けろ」


「しかし…」


「いいから行け」


 シキは戸惑うナギサをよそに、またどこかへ駆けて行った。屋敷が小刻みに揺れている。まるで生き物の体内にいるようだ。


「コハル…」


「人間の力ではどうにもならないことがある。それを人々は自然と呼び、いつしか神を作り出し、崇め称え、祈った。人間は無力だ。自らそう決めつけて、限界を作り出したのだ。なんと愚かなことか。そんなものは要らない。人間は弱くない。知恵があり、思いやりがあり、逆らう意志と力がある。そう考えて、私はあの灯台を作った。しかし、村の人々は畏怖に打ち勝てなかった。私も同様に…そうして私は100年前、自らの身を生贄として捧げた。人間であることを諦め、海の神として生きてゆくことにした。」


 生贄という言葉がナギサの心を震わせる。全ての点と点が繋がった。そしてその先には、得体の知れない大きな恐怖が待ち受けていることに気づいた。


「村へ帰りたい。あの娘が、そう望んだか?」


「いいや。わからない。だから、頼みに行くんだ。神様達にも、フユ姐にも。」


 コハルは着物の襟をさっと正し、透き通るような青色の目でナギサを見つめた。その姿から、かつて彼女があの村にいたなんてことは想像できない。そしてその目を閉じ、紅を差している小さな唇を動かし、息を吸った。


「精霊よ。御霊よ。我が身より解き放たれよ。」


 コハルの声が社に響き渡る。するとどこからか、太鼓や鈴の音が、コハルに応える様にして鳴った。


「我が身より解き放たれよ。皆、そのお役目を終え、安らかに眠り給え。」


 社が大きく揺れる。ぼこぼこと水の音が大きくなってゆく。コハルは刀を抜き、畳に差し込んだ。


「我は海よりその身を分かつ。」


 窓の外が泡立ち、大きな影が横切った。その振動に、ナギサは思わずよろめいた。コハルが窓に歩み寄り、そっと手を添えた。


「海の主よ。お前はもう自由だ。自然とともに、人とともに、良い世界を作りなさい」


 轟音と共に影は遠くへと去って行く。急にあたりが静かになった。ナギサはあたりを見回した。布の僅かに掠れる音とともに、コハルが胸を押さえて座り込んでいる。


「行きなさい。社はもうじき消える。シキ!」


「はい。お疲れ様でした。全ての祖霊を送り届けましたよ。」


 どこからともなくシキが現れ、コハルの背中を優しく支えた。


「ナギサを、あの娘のところへ連れて行け」


「承知しました。おい、ついてこい」


 シキはナギサの手を引いて、廊下へと連れ出した。


「俺のせいで、社が…」


「お前のせいだな。まあ、そう落ち込むな。ここも元は人間の想像が作り出したものだ。それに、100年は長いぞ。僕もマガツカミ様ももううんざりしてたんだ。あんな呪いみたいな役目、もう誰にもやって欲しくねえな。」


 屋敷の中はがらんどうになっている。祖霊も、神様たちも、ウミヘビも、もうどこにもいなくなってしまった。あの騒がしい宴が今では嘘の様だ。

 寂しく鳴り響く足音をかき消す様に、シキが口を開いた。


「お前、機械動かすの得意なんだってな。僕にもそんな力があったら、死なずにすんだのに。今更言ってもどうしようもないけどな。…ナギサ」


 シキは立ち止まってナギサの方を向いた。同じくらい背丈の少年が、ブロンドの髪を揺らし微笑んで言った。


「どうか、平和に生きてくれ。その才能は自分や誰かを傷つけるのではなく、みんなを幸せで豊かにするために使え。世話してやったお礼はそれでいい。…じゃ、僕は用事があるから。そこの角を曲がった先の部屋に、探している子は居る」


 いつものようにそそくさと消えたシキに手を振り、ナギサはフユのいる部屋へ向かった。襖を静かに開けると、部屋の奥で窓を眺めるフユ姐がいた。

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