第17話 夢から醒めて

 よりいっそう強いお香の香りが鼻をつく。

 障子の向こうは、色とりどりの着物がぶら下がっている、異様な光景が広がっていた。

 ナギサは乾いた畳にぽたぽたと海水を垂らしながら、着物を手でのけて奥へと進んだ。

 不思議な光がゆらゆらと畳に反射している。ふと上を向くと、天井には大きな窓が付いていた。


「これだ…」


 ウミヘビの言っていた美しい着物を見つけた。ざらざらと乾いたそれをぱさりと引きずり下ろすと、表面の濁った大きくて丸い形の鏡が現れた。その重々しく古めかしい様子は、銅鑼に似ている。

 まもなく夜明けだ。鏡に触れようとしたその時、


「ナギサ」


 ナギサは目を見張った。声の主は、鏡の中にいた。それも、その姿は紛うことなき、姉だったのだ。


「姉ちゃん…」


 鏡に手を伸ばすと、姉も鏡合わせに手を伸ばした。あの頃と変わらない、優しくて穏やかな笑顔だ。


「ごめん。俺、俺のせいで姉ちゃんが溺れて。」


 言葉が詰まってうまく話せない。姉の魂は、やはりこの屋敷に残っていたんだ。


「そうだ。一緒に戻ろう。この首飾りがあるから、現世へ帰れるんだ。もうすぐ夜明けがくる。姉ちゃん、また灯台で一緒に暮らそう。灯台直して、じいちゃんの家に時々遊びに行って…2人で、村の電気とか修理して、そのお金で生活するんだ」


 姉は悲しそうに首を横に振った。


「無理よ。私の身体はもう朽ち果てた」


「え…」


「魂は永遠にここに囚われている。だからナギサ、ここなら一緒にいられる」


「そんな…」


「辛かったでしょう。ひとりぼっちにしてごめんね。もう、二度と置いていかないからね」


 首飾りをおもむろに握りしめる。なんだろう、姉に会えて嬉しいはずなのに、心に埃のようなものがゴロゴロと住み着いている感覚だ。

 ふと、コハルとシキの顔が脳裏をよぎった。いてはいけない場所に来てしまった自分を匿って、温かい風呂に入れ、人間の食べ物を作り、守ってくれた2人の姿を。


「心を惑わせる魂がいる」


 シキの言葉を思い出す。あたりが柔らかい青に包まれ始めた。ナギサは鏡を撫で、姉に笑顔を向けた。


「ありがとう。少しでも、姉と話しているような気分になれた。本当は、本物の姉ちゃんに謝りたかった。でも、もういないんだよね。」


 青がよりいっそう濃くなってくる。鏡の中の魂はぼやけ、ナギサの姿を鮮明に写し始めた。


「帰ろう。」


 あたり一面が深い青色に染め上げられた頃、ナギサは首飾りを握りしめ、思い切り鏡の中に飛びこんだ。


 当然、モワッとした磯の空気が肺に流れ込んできた。ざあざあとした雨の音と、それが何かを打ちつける音が鼓膜を震わす。

 ナギサは灯台の底、コケでぬかるんだ石の床の上に横になっていた。

 手の中にカラン、と感触を感じた。開いてみると、首飾りは黒い石ころとなって割れていた。羽織っていた着物も、黒いちりとなってナギサの身体からバラバラと剥がれ落ちた。


 …


「ナギサ!フユ姐がいないんだ!」


 泥に塗れたハルキがソウヘイの家の扉をばたりと開けて入ってきた。そこにナギサの姿はなく、見慣れた女性が不安そうに立っていた。


「フユ姐…どうしてここに」


 立ち尽くすハルキの背後からシャベルを持ったリコが流れこんできた。


「はあ…はあ…フユ姐…!村長たちがめっちゃ心配してたよ!」


「怪我をしているのか…とにかく、村に帰ろう。山道も崩れているし、ここも危ない」


「ナギサがおばけ灯台へ行った」


 ハルキの手を振り払い、フユは小さな声で言った。ハルキはため息をついた。


「またあいつか。もうほっとけばいい」


 村が大変な時に…あの馬鹿はいつも自分のことばかり。よそもの扱いされて、きっとこの村に思い入れもないのだろう。


「灯台を修理するつもりなの?」


「馬鹿言え、リコ、あれはもう何十年もほったらかしなんだ。何遍も何遍も大人たちが直そうとしたけど、うんともすんとも動かねえって。それより、早く村へ帰るぞ」


「ソウヘイさんたちはどうするんだい。まだ戻ってきてないでしょう?」


 フユは窓を開けた。村のあるはずの方向は、真っ暗で何も見えない。


「村の灯台が停電しているのに、どうやってこの荒海の中を帰ってこれるって言うのさ」


 ハルキとリコは気まずそうに顔をそらした。大人たちが何を判断したのか、フユには容易に想像できた。


「私…やっぱり私も行く。シャベル貸して。」


「だめだ。ここもいつ崩れるかわからんのだぞ。」


「そうよフユ姐。嵐がもっとひどくなる前に戻りましょ。漁に出た人たちは…きっと軍の人がなんとかしてくれるよ」


「そんなわけないでしょ」


 フユ姐が声を荒げた様子を初めて見た。2人はその異様な姿に戸惑うしかなかった。


「あんたたちも、わかってるんでしょ。自分たちじゃどうにもならないって。でも、ナギサは…」


 フユは声を詰まらせた。幼い頃からあの兄弟を見てきた。ある日突然村にやってきた名前のない兄弟。ナツミと名付けられた女の子は同い年で、しっかり者だった。ナギサはナツミのあとをいつもついて回る臆病者で、2人はソウヘイの家に居候し、漁師を手伝ったり、村人の動画を修理して暮らしていた。孤児でありながらも、いつも明るく笑顔の絶えない2人は本当に幸せそうだった。そんな2人が大好きだった。

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