第16話 潮時

「…来なさい」


 ウミヘビは静かにナギサの手を掴んだ。ぞっとするほど白く冷たい手だ。


「ナギサ!ダメだ」


「禍ツ神のシキよ。…案ずるな。…人間よ、今夜の宴で現世へ戻りなさい。」


「え…現世への扉が開くのは、明後日だって…」


「神が行き来する扉がある。宴の場の奥にある主様のお部屋の、束熨斗たばねのしの着物のかかった鏡だ。」


 ウミヘビは海を指さした。柔らかで薄く青い光が屋敷の中をぼんやりと照らしている。


「身体を海に浸し、夜明けの青と同じ色に染まりし時、その首飾りと共に鏡を潜れば帰ることができる。夕暮れ時、悪霊を再び解放する。騒ぎの内に帰りなさい。」


 ナギサの肩にウミヘビの手がそっと置かれた。シキは諦めたような、納得したような、複雑な表情で俯いている。


「君が禍ツ神に恩を返したいのなら、そうするべきだ。」


 ウミヘビは行きなさい、と促した。

 部屋に戻ると、娘がいつものように座っていた。あのことを伝えようと思ったが、優しい彼女はきっと引き止めるだろうと、言いとどまった。


 日が傾きはじめ、娘が宴の準備へと向かった頃、ナギサは着物の下を自分の服に着替え、海水を桶に汲んだ。あとは太鼓の音が聞こえるのを待つだけだ。


「主様のお部屋は、危ない。心を惑わせる魂がいるとか言われている。迷いを持った神が、人々に悪さをしないためだ。鏡を見つけたら、己の使命だけ考えて飛び込むんだ」


「わかった。…シキ。コハルには、僕が勝手に逃げたと伝えてくれないか。」


 ナギサがそう言うと、注意深く襖の隙間から外を伺っていたシキが、ゆっくりとナギサの方へ向き直った。


「自分を犠牲にして、他人を幸せにするのはやめろ。ナギサ。僕もマガツカミ様も、その罪を犯したからこうして死後も囚われている。先日、生前のことを覚えていないと言ったが、あれは半分嘘だ。僕は人々の平穏な日常を守るため、故郷を遠く離れ、多くの美しい命を奪い、そしてこの海に沈んだ。…逆もまた然りだ。自己の利益を追い求め、他者を傷つけることもまた表裏一体なのだ。どうか、自分を愛し、人々を愛し、良き大人になってくれ。」


 遠くの方で太鼓が鳴った。悪霊が解放された合図だ。

 シキと顔を見合わせ、勢いよく部屋から飛び出し、廊下を走る。障子越しに、祖霊たちが慌てふためく影が見える。


「止まれ!」


 シキの声に驚き前を向くと、悪霊がものすごい速さで迫って来た。引き返そうと振り向くと、後方からも悪霊に囲まれてしまった。


「だめだ。神様たちにバレてしまう」


 障子に手をかけようとすると、シキがそう言った。万事休すだ。そう思った瞬間、黒い影が障子の隙間から飛び出し、少女の姿となって悪霊に襲いかかった。


「ウミヘビの…」


「ナギサ、行け!僕とこいつに任せておけばいい」


 シキが銃剣を悪霊に突き立てて道をつくり、ナギサの背中を押し込んだ。


「次会う時は、立派な祖霊殿になるんだぞ」


 シキの言葉を背に、再び走り出す。脇に挟んだ桶から海水が漏れ出し、腰を濡らしている。

 主様の部屋が角に見えるところまで差し掛かった時だった。


「人間だ、捕らえろ!」


 豪華絢爛な布達が、悍ましい速さで後ろから追いかけてきた。神様たちに見つかってしまった。

 ドタドタという音が段々と大きくなってくるにつれ、心臓の鼓動が痛く身体に響く。


「コハル…」


 ここで捕まって仕舞えば何もかも終わりだ。

 ナギサは立ち上がって、海水を被った。心臓の動きがいっそう大きくはね、そして静かになった。


「頼む…」


 震える足に力を入れ、深呼吸をした。

 ナギサは神様たちを睨み、勢いよく腕を振りかぶった。神様のような存在に、こんなもの効かないかもしれない。祈るような雄叫びと共に、手に持っていた桶を思い切り投げた。

 その瞬間、それらはどしゃんとした重い鈴の音とともに消えた。神様たちがいた所には、小さなお札のようなものが待っている。

 海水か汗かもわからないものが、冷たく背中を伝っている。ナギサは振り返り、主様の部屋の中へ駆け込み、勢いよく障子を閉じた。

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