第9話 海の社と神の巫女

 目を覚ますと、再びこの屋敷にやって来た時と同じ景色があった。ナギサは現状が夢か現実かもわからず、天井をじっと見つめた。

 俺は生きているのか。いやここは死後の世界か。死後の世界で生きながらえたのか。いや、それではまったく意味不明だ。


「目が覚めたか、人間」


 突然視界に現れたのは、仁王立ち姿の、軍服の様なものを身にまとった異国の少年だった。


「安心しろ。僕達は人間を取って食ったりなんかしない」


 少年はしゃがんでナギサを覗き込んだ。ナギサは訝しげに少年を見ながら、痛む身をゆっくりと起こした。先程とは違い、すこし狭い部屋だ。ふと、部屋の隅に座っている女性と目が合った。青白い肌に鱗のようなシミがあり、目元には紅が入っている。まるで人形の様に整った顔立ちの娘だ。薄い唇は固く結ばれ、深い青色をたたえた瞳は凛としているがどこか物憂げな面差しでこちらを見ている。黒く艶やかな髪は後ろで束ねられ、派手な飾りもないがその可憐な顔立ちゆえに華やかに見える。そしてこの世のものとは思えない繊細な模様の入った青の袴。壮麗だがどこか奥ゆかしい。ナギサはその見たことのない美しさに顔を赤らめた。


「貴様、マガツカミ様に失礼だぞ」


「マガツ…?」


 ナギサは少年の口から発せられたその奇妙な名前に首を傾げた。少年は呆れた顔をしている。少年の青い瞳もブロンドの髪色もナギサにとって新鮮なものだった。


「シキ、下がれ」


「はい!」


 娘の凛とした声に少年は元気に返事をすると、ナギサの目の前ですうっと消えた。


「え…」


「お前、名は何と申す?」


 娘は表情ひとつ変えずナギサに問いかけた。姿勢よく正座している娘にナギサはあわてて倣った。


「ナギサ…」


「上の名は何と申す」


「…わからない」


「…そうか」


「え?」


孤児みなしごは今の時代珍しくも何ともない。人間の醜い所業の成れの果て。お前は大きな灯台のある村の者か?」


「そう…ここは一体どこなんだ?」


 ナギサは自分の手を見つめた。ずきずきとにわかに痛む左の手のひらに、包帯が丁寧に巻かれている。


「ここは海の社。海で溺れた人間は、神々の宿る海の社で肉体と切り離されて死ぬ。」


「死んだのか…俺は…やっぱり…」


 力を失ってうなだれるナギサを見て、娘は首を左右に振った。


「死んだ肉体は神が頂くがお前は食われていない。厳密に言えば、お前はまだ死んでない。」 


「まだ…?」


 ナギサは先程あった事を思い出した。あの奇妙な男…あれは神で、あれに食べられていたら…

 その時、凄まじい悪寒がナギサを襲った。自分のことよりも、姉が海で溺れて死んだあと、ここでどのような結末を迎えたのかを悟ったことによる絶望がナギサを蝕んだ。


 俺のせいで姉ちゃんは…


 息を荒げて頭を抱える。姉と別れたあの瞬間がフラッシュバックする。

 娘はしばらく冷静に様子を伺っていたが、やがて混乱と絶望の最中にあるナギサの元へやってきて肩にそっと手を置いた。そして静かに言った。


「嵐の夜、お前はあの大きな灯台で命を落としかけた。お前はそこでいったい何を求めていた?」


 娘の言葉にナギサはとした。そして勢いよく身を起こし、娘にすがりついた。


「…!そうだ…じいちゃんを助けないと…じいちゃんが…海に出ているんだ…そうだ!早く助け」


「落ち着け。心を鎮めて私に述べてみろ」


 ナギサのせいで着物が乱れているのを気にも止めず、娘は無表情で訊いた。


「じいちゃん…血は繋がっていないが俺たちの育ての親…漁に出ているんだ。今日帰ってくるはずなのに、唐突に嵐になって…それで…」


 声が震える。死という言葉が、ナギサに重くのしかかる。何度も何度も苦しめられてきた死というものに、ついに全てを奪われてしまうのではないかと思う。


「お前は現世に戻りたいか?」


「ああ。灯台を何とかできるのはきっと俺しかいない…じいちゃんさえ助けられればその後は好きにしてくれて良い…」


「…わかった」


 娘は静かに言った。彼女の手は温かく、触れられていると次第に心が安らいでいくのを感じた。

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