第8話 屋敷の化け物

「あの…すみません…」


 扉を開けながら、ナギサは申し訳なさそうに一言投げた。どのような経緯でこの屋敷にやってきたのか全く理解できないが、もしこの屋敷の持ち主があの危険な山の上から助けてくれたのだとしたら申し訳ない。

 扉の向こうは大きく開けていた。天井は高く、大きな窓から水の光が反射している。

 ナギサは身震いした。それは濡れた服が冷えるからだけではなく、この大部屋になんとも言えない不気味な雰囲気を感じるからであった。

 ナギサは反射的に部屋の真ん中へ目を凝らした。

 薄暗い部屋の中で、紅白の布がゆっくりと動き回っていた。よく見ると、顔に大きな札を貼り付けた数人の巫女が大きな扇を持って舞を踊っている。衣の摺れる音も、足音もまったく聞こえてこない。


「きたぞきたぞ」


 ナギサがその全く正気を感じない不気味な舞に見惚れていると、突然声がしたのでナギサは身体をびくりと振るわせた。

 目の前の巫女の1人の姿がはたりと消え、布がひらひらとナギサの前にやってきた。ナギサは驚いて壁に背中をぶつけてしまった。先ほどの怪我が疼く。

 布は美しい青色に染まり、やがて人の形になってナギサの前に立ちはだかった。


「人ぞ」


 その大男は声を失っているナギサの顔を屈んで覗き込んだ。顔は札で隠れて見えないが、声からして若者だ。濃紺の着物と潮騒が聞こえてくるような羽織からは、お香がふわりと香ってくる。


「驚かせてしもうた」


「あの…ここは…」


「ああ、心得たらぬか。安心せよ、すなわち生まれうつろふ。」


 不思議な言葉を話す男にナギサは静かな恐怖を覚えた。ここはいったいどこなんだ。じいちゃんは、村は、フユはどうなった?


「俺、もう戻らないといけなくて…じいちゃんを助けないと…だからすまない。助けてくれてありがとうございました…!」


 ナギサは頭を下げてふたたび男を見た。しかし男からはなんの反応も無かったので、戸惑いつつも男の横を通ろうとした。

 その時、男がナギサの手を強く掴んだ。そして強く引き寄せて耳元で囁いた。


「落ち着け、汝は状況を理解せられたらず。元の海内にはえ戻らず。痛からぬやうに食いやらん。」


「やめろ!」


 ナギサは思わず男を突き飛ばした。男はふらふらと後ろによろめいた。


「あ、すみません…」


 男は俯いたまま動かなくなった。

 さほど強い力では無かったはずだ。もしかしてどこか悪いところを突いてしまったのかもしれない。ナギサは慌てて男に歩み寄った。

 男はぶつぶつと呟きながら片手で顔を覆った。瞬間、顔の札の裏から黒い塊がにょきにょきと溢れ出し、ナギサを包み込もうとした。


「うわあああっ!!?」


 ナギサは後ろに倒れ、間一髪でそれを避けた。そして男の方を省みずに走り出した。逃げなければならないと、得体の知れない恐怖が本能に語りかける。

 来た方向とは反対側の襖をガタガタと開け、さらに奥の襖を開け、海中を映し出す長い廊下を走る。後ろからは暗闇の様な恐怖が迫っている。

 あの男は一体何なんだ。食うと言っていた?俺を食うつもりに違いない。食われたらどうなる?ここはどこなんだ?じいちゃんは?村は?フユは?

 信じがたい光景と迷路の様な屋敷に完全に混乱しているナギサに追い討ちをかけるように、屋敷の中が騒がしくなってきた。太鼓の音と怒号が聞こえる。すぐ後ろで勢いよく襖が開く音も聞こえる。

 曲がり角が奇妙なほど多い廊下に、ナギサはついに脚を取られた。勢いよく倒れ込んだ視線の先に、小さな物置を見つけた。ナギサは四つん這いでそこに滑り込み、護身用にとそこにあったほうきを握りしめ、息を殺して事態が収まることを祈った。


 どのくらい経っただろうか。辺りは既に静寂を取り戻していた。それでもなお、ナギサは恐怖で動けなかった。

 突然、誰かがナギサの肩を叩いた。ナギサの心臓が跳ね上がり、息が止まった。

 ああ、見つかってしまった。逃げなければ…殺されるに違いない。ナギサは再び廊下へ飛び出て走り出した。

 突き当たりの木の扉を勢いよく開け、中に入ってほうきを扉に嵌めた。これは幼少期にハルキから身を隠すためによくやっていたものだ。そして何も見えない暗闇を進もうとした瞬間、ナギサは足元が階段になっていることに気づいた。体勢を立て直す暇もなく、ナギサは勢いよく階段を下った。


「冷たい!」


 階段の先に水があった。冷静さを失ったナギサは既に足がつかないところまで入ってしまった。

 身体をじたばたとさせていると、先程閉めたはずの扉がすんなりと開いて、人が入ってくるのが見えた。万事休す、ナギサは絶望した。ここで溺れ死ぬか、あの何者かに食われるのか。どちらにせよここで死んでしまうのだと悟った。

 その人間らしき者はゆっくりと近づき、その華奢な足元が見える所で立ち止まった。先程の男とは違う、高い下駄を履いた女性だ。きっとこいつもあの男と同じ化け物に違いない。

 ナギサの意識は混濁し、そこで途絶えた。

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