小さな恋のメロディ(9)

 まだ寝起きで半分ぼんやりした頭で引き受けはしたものの、洗面台でひげをそっているときにふと我に返って迷ってしまった。いいのだろうか、自分なんかが行って。


 だらしない格好は良くないと思い、チノパンとポロシャツに着替えて財布とスマートフォンだけ持って出た。学校のジャージにTシャツ姿でカンカン帽を被った真美と最寄り駅に向かう。


 箱根に繰り出す観光客で込み合った快速電車が通りすぎた後に到着した各駅停車の車両は、がらがらに空いていた。

 すぐに着くから渉と真美は出入り口付近に立ったまま、強い日差しにくっきりと影の差す住宅地の家々や緑の濃い木々や乾いた土色の畑なんかを見やった。


 通い慣れた改札を出て、毎日通勤通学に向かうのとは反対方向へと駅の通路を行く。

 戦国武将の像が佇むロータリーを横目に新幹線のガード沿いの道(かつて茅子をストーキングした道だ)を進み、高架を潜って今度は在来線の線路に沿って歩く。お城を囲む木々の間からこども遊園地で遊ぶ子どもたちの歓声が聞こえてくる。


 お城と競輪場の間に建ち並ぶ住宅の中に児童養護施設〈ひまわり〉があった。茅子が話していた通り、見た目はこじんまりした幼稚園で、二階建ての建物の前には園庭が広がっている。セミの鳴き声が響く中、外には誰の姿もない。


 閉ざされた門扉の脇にインターフォンがあって「御用の方は押してください」とあったので、ボタンを押して待つ。すると建物と塀の間から出てきたのは茅子だった。

 ジャージとTシャツの上にひまわりのアップリケがついたエプロンをかけている。保母さんみたいだ。


「見学に来る高校生って……」

「はい! あたしです。兄も連れてきちゃいました。ダメですか……?」

「いえ、そんなこと」

 少し戸惑った顔のまま茅子は脇の通用口を開けて真美と渉を通してくれた。


 園庭側を歩いて、建物の向こうの端に案内される。掃き出し窓を開けて茅子は中に声をかけた。

「先生」

「はーい」

 奥から歩み出てきたのは、渉たちの母親より少し若いくらいの年代の女性だった。快活なジャージ姿だがエプロンはしていない。

「中へどうぞ」

 言われて、サンダルを脱いで中に入った茅子に続いてあがらせてもらう。

 明るい木目の床の室内はぬるくクーラーが利いていた。

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