彼女がメガネをはずしたら(3)

 湯呑みを回収して給湯室に戻る。茅子はうなだれたまま言われた通りに右手を洗い桶に入れていた。まるで叱られた子犬みたいにしょんぼりしている。渉に気がついて少しだけ顔を上げた。

「ありがとうございます。後で洗うのでそこに置いといてください」

「うん……」

 キツイこと言って悪かったと謝るべきだろうか。迷いながら渉はお盆を下ろす。


「カヤコチャン? ここ?」

 先輩営業マンの清水がひょいと顔を出した。

「え、どうしたの?」

「突き指してしまって」

「大丈夫? 急ぎの作表頼みたかったんだけど」

 会議中にメモ書きで作ったらしい下書きの紙を見せられると、茅子はきりっとして濡れた手をハンカチで拭き始めた。

「大丈夫です。やります」

「できたら共有ファイルに投げといて。出先で使いたいから、できれば四時までに」

「了解です。間に合わせます」

「頼んだ」


 清水はそのまま外回りに出るようだった。茅子はすっと渉に会釈して足早に課に戻っていった。取り残される形になった渉はなんともいえない気分になった。





 翌日、遠藤と並んでエレベーターを降りたところで茅子と会った。何か言いたそうにしている。思ったが、茅子は渉たちに会釈だけして入れ違いにエレベーターに乗り込んだ。

 遠藤が一緒だから気を使ったのだろうか。そう感じるのも渉の思い込みかもしれないけれど。


 更に翌日には大本命の営業先とのアポを取ってあったから、そのための準備に時間がかかってしまった。定時をだいぶすぎてからビルのエントランスへ下りると、照明が落ちたホールの集合ポストの前に小柄な人影が佇んでいた。

「お疲れ様です」

 礼儀正しく会釈したのは茅子だ。


「え……どうしたの?」

「昨日はすみません。突き指の処置をしてもらったのにお礼も言わないで。……ありがとうございました」

「え、それで待ってたの?」

「会社では声がかけづらくて」

 茅子は恥ずかしそうに肩をすぼめた。


「俺も、謝らなきゃって思ってた」

「何をですか?」

「キツイこと言っちゃっただろ?」

「え? 何をですか?」

 表の歩道を通りすぎた自転車のライトで、茅子がきょとんした顔をしているのがわかった。渉はなんだか、すべてがどうでもいい気持ちになった。


「増田さんて電車通?」

「いえ。歩いて帰ります」

「夜道大丈夫?」

「まだ早い時間ですよ」

 観音開きの重い扉を渉が押し開く。茅子に先に出るように促す。

「すみません」

 扉を押えている渉に会釈しながら隙間を通り抜けようとした茅子は、反対側の扉の縁にがんとおでこをぶつけた。は? と渉はびっくりする。

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