第2話 承



 鳴無響也は義理がたい。




 それは周知の事実であり、彼は受け取った義理チョコに対して、必ず三倍以上の対価を持って答えた。

 彼からお返しを貰える事自体を喜びにする女子も居たので、今年も多くのチョコが彼の元に集まった。


 しかし、彼を本気で落とそうとしている女子たちにとって、バレンタインデーは修羅の道に等しい。


 異常なまでに義理がたい鳴無君はチョコを受け取る時、必ず本命か義理かを確認し、義理の場合のみ受け取る。




 お判りいただけただろうか。




 つまり、『鳴無君にチョコを渡す』=『告白』という事を!



 心は本命、だけどどうしてもチョコを受け取ってもらいたい。


 彼の舌の上で手作りのチョコを嘗め回してもらいたい。


 そんな煩悩に満ちた女子たちが考え出した苦肉の策。


 それが――。





 放置スタァーーイルッ!





 いわゆる、朝学校に来ると机の中にチョコがあった、うわーい、というやつだ。



 しかし当然、彼への愛は机の中に納まりきらず、溢れかえったチョコが机の上にエベレストも真っ青な舌鋒をおったたせた。

 その異様な様相は大森県の霊峰、恐山の積み石のようで『墓標』という呼称が当てはめられた。


 義理か本命かわからない。というよりも差出人すら不明の墓標を前にして、流石の鳴無君も絶句。


 数人の女子生徒達が勝利を確信した時。

 彼の口が開かれた。



「委員長、落とし物があるから生徒会で預かってもらっていいかな?」



 発せられたのは優しさとはかけ離れた言葉。


 何を隠そうバレンタイン事件の首謀者の一人であった委員長(生徒会役員補佐)は迷った。

 実際に、校則規定の中に『落とし主不明の物品は生徒会室で預かることとする』と明記されていたのだ。


 だが、委員長の心を突き動かしたのはそんな論理的思考ではなかった。

 彼女を改心させたのは鳴無君の皮肉のかけらもない真摯な眼差し。


「わかりました。校則規定に則り、これらは落とし物として預からせて頂きます」


 彼女は心の動揺など一切見せず、そう言い切った。

 委員長の胸中を察した同志たちは人知れず心に雨が降る中、敬礼を送ったという。


 それから一週間後、落とし主不明のまま預かり期限を過ぎたチョコ達は、首謀者である委員長の手によって葬られた。


 焼却炉の前で手を合わせて瞑目する彼女の背中を幾人もの生徒が目撃しており、バレンタイン事件は別名、『救われぬ乙女たちへ捧ぐ鎮魂歌事件ヴァルキリー・プロファイル』として、語り継がれている。




 と言ってもつい二週間前のことだけど。



「こないだあんな凄惨極まる事件があったばかりなのに、お前は……」

「凄惨極まるとか言うな! でも、だからこそ今がチャンスなのよ」

「どういうことだ?」

「流石の鳴無君も例の一件は堪えたはず。きっと鳴無君の心の中では今も罪悪感が渦を巻いているわ。その心のスキを突くのよ!」

「わあ、ゲスい」

「ふんっ、なんとでも言うわが良いわ、たっくん。いえ、碇助!」

「なぜ、フルネームで言い直した⁉」

「わからないの?」


 そう、私が他の女子よりも有利な点が一つだけある。

 それは――。



 幼馴染という関係性。



 実は私とたっくん、そして鳴無君は物心ついた頃からの知り合いで、幼稚園に小学校、中学校にそして現在進行形で幼馴染。

 

 どうして鳴無君を好きになったのか覚えていない。だって物心ついた時から好きだったんだから!


 声をかけるのも恥ずかしくていつも距離を置いていたから馴染めているかは分からないけど、いずれにせよこれは圧倒的なアドバンテージ。


 生かさない方がどうかしてる。


 これまで私は多くの挑戦者達が散っていく様をただ黙って見てきた。


 私は怖かった。


 鳴無君に拒絶されるのが。



 だけどもう臆さない!

 

 

 物心ついた頃に聞いたおばあちゃんの声が頭に響く。


『由希ちゃんや。どうしても失敗したくないことがあるなら、まずは自分の気持ちをぐっと抑えるんだ。堪えて堪えて、膨らんだ気持ちがまだ本物だと思えるなら、それを思いっきりぶつけてやればいい。願いはそうやって果たされるものだよ』


 当時、考えなしに思いのままに振るまっていた私を見かねたおばあちゃんが言ってくれた言葉。


 大好きだったおばあちゃん。

 今なら、その意味が分かるよ。

 見ててね、私、きっとうまくやるから――。



「オン! ユア! マーク!」



 私は教壇の真横でクラウチング。

 腰をぐっと引き上げて、


「セット!」

 

 私は陸上部。持てるすべてをつぎ込むまで。


「お前やっぱりバカだろ……」


「後で泣き面を拝むのが楽しみね!」

「いや、俺別に響也の事狙ってないからな⁉」


 たっくんの返事は聞こえない。

 私にはもう鳴無君の事しか見えていなかったから。

 目標は前方左手。


「レディイイッ! ゴーッ!」


 全身全霊を持って床を蹴った。

 


 引き延ばされた時間の中、思考だけが鋭く閃く。


 教室を全速力で駆け抜ける私は足を滑らせて、転げそうになり、そこを鳴無君に抱きかかえられるというシナリオ。


 そう、私が狙うのは吊り橋効果。


 ありきたりね、と笑うがいい。

 だってバカな私にはそんな事しか思いつかなかったんだもん。


 でも、鳴無君の前で偶然転げるなんて、不自然な事はわかってる。

 だから、少しでも自然に見えるように私はある細工をした。


 私の席から彼の席に至るまでの直線。


 真横から見ればただの平坦な道に過ぎないが、上から見てみよう。

 そこにはわずかなタイルのへこみ。そしてそこにたゆたうはH2O。


 この日の為に昨日、みんなが帰った放課後、筆箱でタイルを打ち付けてへこみを作り、掃除時間が終わった後に人目を盗んで水道水を垂らしておいたのだ。


 つまり転んだ時の言い訳は万全。


 何という完璧な作戦。

 我ながら惚れ惚れしてしまう。




 そして、その小さな水たまりにつま先をイン!

 




 ……って、うわああああああっ!


 



 あれ、おかしい。天井が見える。




 

 地球の重力から解放されたような浮遊感。

 体があらぬ方向を向いていた。



 

 死を想起した私の思考はさらに加速した。



 だ……大丈夫よ。落ち着きなさい。

 確かにこんなに派手にすっ転ぶなんて計算外だったけど、相手はあの鳴無君よ。


 鳴無君は顔がいいだけじゃない。

 頭がいいだけでもない。



 鳴無君はスポーツもできる!



 だからきっと――。



 私はスローモーションの世界でゆっくりと首を捻って彼を見た。



 だけど、視線が合ったのは鳴無君の瞳じゃなくて――。



 ニーーチェッ! なぜ貴様がそこにいるぅっ⁉



 表紙の中でふんぞり返るニーチェ。


 そうか、英語版だから表がこっち側に……ってそんなことはどうでもいいわッ!



 私がまるで無重力体験コースなうみたいな事になっているというのに、鳴無君は相も変わらず、フィロソフィーの世界にメロメロだ。




 ……はあ、なんでうまくいかないんだろ。




 私は観念したようにゆっくりと目を閉じた。

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