第16話 始業式の朝・東雲晃陽の場合

 水のない用水路に落とした三体の“影”たちは、しばらくの間、側面のコンクリートを必死に上ろうとしていたが、果たせず、恨みがましくこちらを睨みつけた後、どこかへ去っていった。


「ふぅ」


 晃陽は、ひとつ息を吐き、神社に戻っていった。

 相変わらず、あれほどの運動量だったのに呼吸に乱れはない。


「お、起きたか」


 再び、社殿しゃでんを開けると、例の半透明少女が目を覚ましていた。

 気怠けだるそうにゆっくりと起き上がるのを補助しようとする。

 しかし、やはり手が身体をすり抜けてしまう。


「立てないなら、無理はしなくていい」


 どうやら声は届いているようで、着衣したワンピースと同程度に色白の顔が軽く頷かれ、微笑が宿る。


 その姿は、やはり、暁井明あけいあかりに瓜二つだ。否、髪型も顔も印象も、本人そのもの。


 違いがあるとすれば、こちらの明は喋れないようで、あの晃陽にだけ矢鱈やたらと当たりが強い毒舌が聞かれないことだった。


「どうなっている。なにか知らないか」


 晃陽が訊くが、いぶかしげに首をひねるばかり。


「とりあえず、一旦俺の家に行くか。暁井、ついて来い」


 コクリと頷く。しかし、晃陽が伸ばした手は掴めない。どうしたものか。


「そうだ。これを持て」


 言って、先ほど“影”たちを一寸足止めした棒を取り出す。


 手こそすり抜けるが、板の間にはキッチリ立てている様子に、「物は持てるのでは」と考えた。


 こう見えて結構頭が柔らかい晃陽の提案を受け、少女が大麻おおぬさ(麻無し)の先端を持つ。


「行くぞ」


 想像が当たって意気揚々の晃陽だったが、境内にて、あの天を突き抜ける巨大な塔を目撃し、また気分が萎えてしまった。


 問題は、何一つ解決していない。


 ここがどこなのか。

 何が起きているのか。

 あの獰猛な“影”は何なのか。

 今さら家に戻ってどうなるのか。


 大きな目と眉に皺を刻んでいた晃陽は、半透明の少女が、不安気な視線を向けていたのに気付く。


 「大丈夫だ」


 笑って見せた。大麻を握る手に、力がこもる。


 影を落とした用水路沿いに差し掛かる。

 晃陽は靴を脱いだ。多少、足音が軽減される。

 恐ろしい鳴き声は聞こえないが、警戒に越したことはない。


「あ、暁井も裸足だったな」


 そこで、初めて少女が裸足だと気付いた。自らの頭を軽く小突く。すっかり冷静さを失っている。これではれいにまた笑われる。


「少し大きいかもしれないが、俺の靴を履くか」


 晃陽がスニーカーを差し出す。

 少女は頷くと、にこりと笑い、それを履いた。


「もし“影”が現れたら、俺を置いて家に行くんだぞ」


 少女が笑みを消し、首を横に振る。


「いいから」


 晃陽は強い口調で言う。少女は、悲しげに浅く頷く。


 しかし、“影”はやって来ず、二人は安全に帰路を辿った。


 少女が立てる、かぽ、かぽ、という靴音だけが、薄暗い街の静寂を、ほんの少し和らげる。


 ―――ごぉーん。


「ッ!!!」


 晃陽は持っていた棒を勢いよく引き寄せると、小柄な少女に覆いかぶさるようにし―――やはり、すり抜けてしまったが―――身を固くした。全身の毛が逆立ち、ありとあらゆる毛穴から冷や汗が噴き出て、体温が二度は下がった。


 少女の方も驚いたらしく、両手で耳を塞ぎ、固く目を閉じていた。


「なんだ……黄昏の鐘か」


 晃陽は、音の正体が鐘の音だと分かると、ゆっくり上体を起こした。


 普段は、夕暮れの二色町に鳴る鐘だ。夜明け前で静止した暗闇の街にはそぐわない音色だが、不思議と気持ちが落ち着く。この影の街に、自分たち以外にも人間がいるという予測がついたからかもしれない。誰が鳴らしているのだろう。


 鐘が三回、四回と響く中、自宅に辿り着いた。1102号室。二年前からの我が家。


「暁井、俺は少し部屋に行ってくるから、居間で待っていてくれ」


 そう言い残し、自室に戻ったところで、自分でも気づかなかった緊張の糸がプツリと切れ、晃陽は床に崩れ落ち、そのまま眠ってしまった。


※※


「晃陽? 今日はお寝坊ね、朝ご飯、できてるわよ」


 そして、母親の声に大急ぎで目を覚ますと、一瞬、酷く取り乱しそうになる自分を制し、あくまでも日常的な所作で、普段通りの朝を迎えた。


 世界は、元に戻っていた。


「今日から学校か。まぁ、ぼちぼち頑張りなよ」

「……うん」


 夜勤帰りの父、彰と取る朝食。

 TVから流れる呑気なニュース。

 通勤の車の音。

 社宅の子供たち。

 集団登校の嬌声。

 街のカラスが鳴いている。

 野良猫の声も聞こえる。

 日が昇っている。

 部屋の窓から見た、平穏な二色町。

 塔など、立ってはいない。

 サラダのトマトが自分の分だけないが、天然の母と喧嘩する気力は湧かない。


 すべてを確認した晃陽は、自室でCTを起動した。


 煙草の箱くらいのそれを起動すると、登録した個人の網膜にのみ反応するホログラム画面が映し出され、ノートとして専用のペンで書き込めたり、映し出された画像を手で動かしたりといった、直感的・直接的な操作が可能になり、PC代わりとしても使える。電脳潜行もこれで行える。晃陽以外は。


 使い方は人によりけりだが、晃陽は、もっぱら“手書き”派だった。


『シノノメ・レポート #54 作成者:調停員 東雲晃陽


 日本時間2030年4月7日。AM 07:50:17


 天候・晴れ


 “世界”からの交信は、未だ無し。


 どうやら街に巣食う闇が、俺の存在に気付いたようだ。未明の異世界転移現象。先日であった少女も一人、巻き込んでしまったらしい。自宅に保護したが、朝にはいなくなっていた。これは、とんだ大仕事になりそうだ。なに、心配はいらない。この世界の謎は、解き明かして見せる』


※※


「と、いうわけだ」


 長い一人語りを終えた晃陽。


「東雲くん」


 黙って聞いていた明。


「明よ、一体どうやってあの影の街から抜け出したのか答えてくれ、頼む」

「やっぱり病院行こ?」


 当然の反応であった。

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