第2話 青天の隕石(2)

「ぶふゎぁ! はぁ……はぁ……」

 俺は奇声と共に飛び起きた。


「お兄ちゃん! 大丈夫?」

 妹の卯月が、俺の横で心配そうな顔で俺を見つめる。


 息苦しい。ひどく喉が渇いた。


「……」

 俺は辺りを見回す。


 ここは俺の部屋。俺が寝てるのは俺のベッド。隣には床に座って、不安げに俺を見つめる卯月。


「あ、ああ、大丈夫だよ、ありがとう……なんだか……ひどい夢を見た気がする」

「ひどい夢?」

「うん……思い出せないけど……って、なんでお前ここ居んの」

 俺は我に返り、隣で座ってた卯月に質問する。これじゃまるで看病されてるみたいだ。


「え~。ひどいよ~。お兄ちゃんが倒れたってお母さんから聞いたから、急いで帰ってきたのに~」

 そう言うと卯月は片頬かたほをぷくーっと膨らませる。


「俺が、倒れた……?」

「そーだよー。道で倒れてたって警察の人が連れてきてくれたんだよ~。もー、心配したんだから」

「え? なに言ってんだ? 俺は昨日の夜、寝て……んで、今しがた起きたばかりな、は……ず……」

 卯月に説明していた俺の目に入ってくる壁掛け時計。時刻は五時半。

 慌てて俺は窓を見た。外は綺麗なオレンジ色に染まっている。


「どーかした?」

「今って朝の五時半か?」

「いや、夕方だけど……」

「……」

 いくら窓の外を眺めていても、そこには綺麗な夕焼けが映るばかり。

 カラスのあざける様なガーッ! ガーッ! と鳴く声が響くばかり。


 それでも俺は「いやまさか夕方まで寝てるとかないだろ」と思っていた。

 今日は確か本屋に行こうとアラームを掛けてたはず、と思い及んだところで寝る前に定位置としてスマホを置く場所に手を伸ばす。


 しかしそこにスマホは無かった。

 きょろきょろしているとパソコンの置いてある机にスマホを見つけ、俺は立ち上がろうとする。


「どしたの? トイレ? お腹空いた?」

「いや、そこのスマホを取ろうかと」

「取ってあげるから、お兄ちゃんは安静にしてて」

「そ、そう……ありがとう」

 安静って。そういえば、俺は道で倒れてたって話だったか。


 卯月にスマホを取ってもらい、確認したところで俺は気付く。

 そういうことか。今日は四月一日。エイプリルフールか。


 時刻は十七時半を刻んでおり、夕方なのは嘘じゃないようだが、どうやら我が妹はお兄ちゃんをからかっているらしい。

 てか元号発表、見ようと思ってたのに見逃しちまった。


「ははーん、お兄ちゃん分かっちゃったぞ。今日はエイプリルフールだから――」

 そう口にしたとき、俺はさーっと血の気が引いた。

 ふつふつと湧き上がる得体の知れない恐怖感に襲われ、俺は言葉を続けられなかった。


「大丈夫!? どうしたの?」

 俺の異変に気付いた卯月が、俺の背中をさすりながら訊いてきた。


「いや……ちょっと眩暈めまいがしただけだから大丈夫。ありがとう」

「もー、無理しないでね? 熱、測ったほうがいいよ」

 卯月の差し出した体温計を受け取ると、俺は脇に挟んだ。


「ん、さんきゅ」

 ひどく気分が悪い。どうやら俺はマジに体調不良らしい。


 結局熱は無かったが、俺は大事を取って布団にくるまった。


「卯月」

「なにー?」

「悪いんだが、喉乾いたからお遣いに行ってくれないか? お駄賃あげるから」

「うん、いいよー!」

 彼女は無邪気な子供の様な声音こわねで言ったあと今にも駆け出しそうだったので、俺は慌てて止めに入る。


「おい! ちょっと待て! 机に俺の鞄があるから、そん中の財布持っていって」

 卯月はぴたっと止まると「うん」と返事をし、俺の机へと向かう。

 そして俺のショルダーバッグを開けながら質問した。


「何、買えばいいのー?」

「チビビタかマジゴールドか、何でもいいからそれ系のやつお願い」

「チビビタ……?」

「うん、茶色いビンに入ってるやつ」

「それって……」

 そう言うと卯月は鞄から見慣れた茶色のビンを取り出す。


「これ?」

「え……あ、ああ。そう、それ」

 彼女は「これも入ってたよ」とおしるこの缶も取り出した。

 全く身に覚えが無い。俺の鞄はいつから四次元ポケットになったというんだ。


「なんで入ってんだ……?」

「忘れてたんじゃないの? 飲む?」

 卯月はさして気にも留めない様子で俺にチビビタを差し出したので、俺は礼を言って受け取る。

 俺の手に触れたそれは生温かったが、贅沢ぜいたくは言ってられないので飲もうと起き上がる。


「ベッドだとこぼすとあとが大変だから、ちょっと起きるな」

 万一そうなれば、誰が見ても満場一致でおねしょである。


「う、うん。気を付けてね」

「大丈夫だよ。心配し過ぎだ」

 俺はベッドに腰掛けると、チビビタを勢いよく飲み干す。

 生温い液体が俺の喉の渇きを潤す。正直あまり美味おいしくはないが、今は仕方無い。


「こっちはどうする?」

 卯月はおしるこの缶を俺に見せた。


「ああ……全く覚えてないけど、多分卯月に買ったやつだと思うからあげるよ」

「え? いいの?」

「うん。俺の鞄に入ってたんだろ? あげるよ」

「ほんとー? ありがとー!」

 卯月は満面の笑みで八重歯を覗かせる。


「あーそれと、もうお遣いは行かなくて大丈夫だよ、ありがとな」

「そっかー、分かったー。これ飲んでいい?」

「ああ、いいけど。それ、よくふ――」

 俺が言い終わる前に、せっかちな妹はカシュッと小気味のいい音を鳴らせた。


「――ってから飲んだほうがいいぞ。もう遅いが」

「まぁまぁいいじゃん、いいじゃん。胃袋に入っちゃえば同じだって」

 にこにこと陽気な笑顔で返事した彼女は、申し訳程度に缶で円を描くと口をつけた。


「いや、振らねーと胃袋に入んねぇんだよ、そもそも」

「ね、ね、お兄ちゃん! すごい豆の豊潤な香りがするよ!」

「ほんとかよ。コーヒーのCMじゃないんだから。あ、てかそれ、あっためたほうが美味しいと思うから器に移してチンしたら?」

「なるほどー。それは盲点でしたな~。ちょっと下、行ってくるねー」

 卯月はサイドに結んだ髪を揺らしながら、たったったっと部屋の外へと走っていく。


「ちゃんと耐熱のスープ皿とかに入れろよー! 漆器のお椀はレンジで使えないから」

 去っていく卯月に俺は声を掛けた。


「へへへ、わかってる、わかってるぅ~」

 騒がしい妹はそう言い残し、どかどかと階段を駆け下りていく音を響かせた。


 本当に大丈夫かよ、あいつ。

 俺は開けっ放しのドアを見つめながら、妹を案じた。いや、どっちかっていうとお椀の身を案じた。


 部屋がしんと静かになったところで、俺はぼふっとベッドに身を投げた。

 傍らに置いたスマホを取り、仰向あおむけになったまましばらくそれをいじくった。


 調べた記憶の無いJAXON相模原研究所までの地図。

 今日初めて起動したはずなのに、既にログボを受け取っているソシャゲ。

 いいね! した覚えの無いSNS上の発言。もっとも、これは単なる誤タップかもしれないが。


 今日起きる前の俺の記憶が綺麗にすっぽ抜けている。あらゆる事象はそれを示していた。

 ――記憶喪失。そう考えるのが自然か。


「お兄ちゃん、ただいま~」

 卯月が開け放たれたドアから極々自然に入ってきて、ドアを閉めた。


「おかえり。っていうか、もう自分の部屋に戻っていいんだぞ?」

 俺はくたばりながら返事をする。


「ええ~。可愛い妹がこんなに心配してるのに、厄介払いみたいな言い方しなくたっていいじゃ~ん」

「そういうつもりで言ったわけじゃねぇよ。お兄ちゃんはもう大丈夫だから、やることあんなら部屋に戻ってもいいんだぞってこと」

「そっかー。じゃあ、特に無いからここに居るね~」

 全く可愛い奴め。俺はこそばゆさに、ふふっと微笑をらした。


「そうかい。じゃあ飽きるまで居なさい」

「はーい」


 俺はまぶたを閉じて、ふーっと大きく息を吐くと卯月に問いかけた。


「なぁ、卯月」

「なにー?」

「俺が道端で倒れてたって話、詳しく訊かせてくれないか?」

「ん~。詳しくったって、警察の人が道に倒れてたお兄ちゃんを抱えて家まで来たってことしか聞いてないよ」

「……そうか」

 俺の頭の中で何かが引っかかる。


「あ! そうそう、お兄ちゃんお姫様抱っこされてたんだって~。へへっ、その警察の人ムキムキマッチョメンだったのかな?」

 シュワちゃんかよ。卯月は悪戯いたずらっぽくへらへら笑いながらそう言った。

 しかし、そんなことお構い無しに俺は気掛かりなことを口にする。


「道で人が倒れてたら、普通は救急車呼ばないか?」

「あっ、確かに」

「なんで警察官が家まで連れてきてくれたんだろうな」

 住所は財布の中の学生証を見れば分かるからそこは問題じゃない。


「さあ? 救急車呼ぶほどじゃないって思われたんじゃない?」

「それを警察が判断するかねぇ……」

 妙な感じがした。俺の記憶が無いことといい、おかしなことばかりだ。


 俺は目を開け、見慣れた天井を眺めた。


「あのさぁ。変なこと言うかもしれないが、俺はついさっき起きた気でいたんだ」

「そういえばさっき、そんなこと言ってたね」

「ああ。だから今朝、起きて……その、倒れてたときまでの記憶がまるで無い」

「えっ……そんなことって……」

 卯月の声からは動揺がにじんでいた。


「もしかして……夢遊病、とか?」

「夢遊病か……」

 確かにそれなら説明はつく。


「あっ、そういえば急いで帰ってきた、ってさっき言ってたよな」

 そう言って俺は卯月のほうへと首を向ける。


「うん。ミナちゃんと遊び行ってたの」

「そっか。……悪いことしたな」

 ミナちゃんとは、卯月の中学校時代の同級生だ。卯月と話していると頻繁に登場する人物で昔馴染むかしなじみと錯覚することもあるが、俺は一度たりとも会ったことはない。


「ううん、大丈夫。ミナちゃんも急いで帰りなよ、って言ってくれたし、また明日遊ぶから」

 卯月は「へへっ」と笑顔を見せるが、さっきまでと違って無理して作ってくれているのが分かる。

 余計な心配させちまったな。しかし俺は自分の身に何が起きたのか分からない恐怖に侵され、彼女を気遣う余裕など無かった。


 それから俺は体調の異常は特に無かった。

 母さんにも事情を説明して、俺に何か異常があれば外出を止めてくれ、とお願いした。

 一時は精神科に通ったほうがいいかと懸念もしたが、二、三日経っても何の異常も無かったので見送ることにした。


 どうやら杞憂きゆうだったらしい。結果論だが俺は春休みの間は、平穏無事な生活を送ることができた。

 そう、春休みの間は――

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