大山椒魚の目【純文学】

 大山椒魚の目に映る景色が大層美しく感じたので、その目をえぐり取ったが、そこに残るのは女の姿だけであった。

 緩慢な生活を良しとして日々積み重ねる怠惰は、うじたかる腐乱死体より醜い。蚕の作る繭に体を預けても、沈み込むのは精神。沈み込む精神だけが、繭の細やかな隙間からぬろんと滴る。伽藍堂がらんどうの肉体に忍び寄る死出虫しでむしを踏み潰す、悪意無き子供の足。飛び散る体液は床に染み込み、不吉な紋様を描く。紋様を拭き取る女が持つ乾いた布の、毛羽立った繊維の一つ一つがささくれ立った指と同化していく。川の流れへ指を伸ばし、ささくれ立った指と接吻を交わした枯葉だけを細かく裂く。原形を留めないそれを再び川の流れへ帰す時、ささくれは下流へと波及していく。それを見届けると女は雌になってその長い舌で指を舐めた。舐めた指は雄の指と絡まるとてかりを移譲して、療養所サナトリウムに雄叫びの残響だけを感染うつした。

 悪意無き子供は川を流れていき、胡乱うろんな表情で歩き続ける森の木々に、希望などもっても無意味と知る。療養所の窓に腰掛け子供を覗く男は、男性器を露出して不気味な笑顔のまま落下していく。白に染まった蓬髪ほうはつに片手を突っ込んで、もう片方の手を先程まで男がいた所に突き出している女。女が突き落としたのだろう。男を。子供はその一連の動作を見届けたまま川を流れていく。川に立ち塞がる岩で頭や手や足をごつりとぶつけながら、子供は下流へ意思とは無関係に進んでいく。水は清く冷たい。川の途中、水が濁り流れの無い水の溜まり場がいくつか見える。ささくれにも似たボロボロに裂かれた枯葉の残骸が浮いている。いくつかの枯葉の残骸は、腐っていく過程の初期段階をとうの昔に終えているように見受けられる。昨日今日に流れ着いたものではないのは一目瞭然であった。雄叫びが森の中を駆け抜けていく。自分自身がこの腐っていく過程の初期段階に差し掛かる可能性を知り、子供は身震いした。安定して浮いていた体がとぷんと沈んだ。子供の体は川に吸収され、二度と浮き上がってくる事はなかった。暫くして男性器を露出させた男が流れてきて、子供と同じようにとぷんと沈んでいった。男は更に下流で倒木に引っかかり、恐怖で引き攣った無様な顔を胡乱な表情で歩き続ける森の木々に披露するが、誰もナニも男を相手になどしなかった。男の動かない目に大山椒魚が映った。

 大山椒魚は川を上っている。森の木々の合間を縫い、最初に男を見付けた。男は倒木に引っかかって、男性器だけが男を男たらしめている。体は貧相で身長も低く、髪の毛が長いので見た目だけでは老婆のように見えなくもないからだ。ただ男性器だけは冷たい川の中で唯一男の男としての熱量を蓄えているように大山椒魚の目には映った。大山椒魚は男の男性器を噛みちぎった。繁殖期の大山椒魚にしてみれば、それはなんの変哲もない肉にすぎなかった。その後も川を上っていく大山椒魚の目に子供が映った。子供は苦悶の表情で大山椒魚を見つめ返しているように見えるが、すでに死んでいる。その姿は死出虫を踏み潰していた時とは対照的であったが、大山椒魚は変わらず無表情で子供を見つめた。子供は水流の強弱で体を大きく揺すったり小さく震えたりを繰り返している。その様子が大山椒魚の野性を掻き立てていく。雄叫びが空気より早く水中を進む。川に赤い糸を大量に流したのは女だろう。大山椒魚の体にいくらか糸が絡む。不快そうにしながらも突き進む大山椒魚の頭上をナニかが流れていく。赤い糸を手繰るようにしながら。大山椒魚は廃墟となった療養所の地下に繋がる穴を抜けて、死体に群がる死出虫を横目に療養所の奥へと進んでいく。奥にはナニもない伽藍堂の空間が一つ。いや、ナニもない訳ではなく。ナニかがいる。それは私だ。繭の隙間からぬろんと滴り落ちた私の精神。私はいくつもの情景を知る大山椒魚の目を抉り取った。大山椒魚は声も出さず静かに後退る。そうして再び川へと戻った。

 私は大山椒魚の目を股の間に押し当て、そうして繁殖を試みる。蛆が集る腐乱死体よりは美しくありたいと願う事が、滑稽であるはずがない。私は生まれ変わるのだ。

 伽藍堂の部屋は、はえの羽音が俄かに満たす。

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