第7話 金が好きな男
金を持っている奴が羨ましかった。
金があれば何でも買える。
高級外車を買って。マンションを買って。女を買って。
俺は金が欲しかった。誰よりも金が欲しかった。
季節は夏。
セミが騒ぎ、鳴き声が脳に響いて煩わしい。
だから、スプレーを掛けてやった。
十メートル先にも届く、ジェット噴射の殺虫剤だ。
セミは数十秒後、ぽとりと木の根元に落ちた。
「いかがですか、お客様。
これが我が社の商品、ムシコロスです。
ジェット噴射で遠くからコロリ。
キンジェールを超える殺虫成分は見ての通りであります」
俺は会社の営業で自社の製品である殺虫剤の売り込みをしている。
相手は飲食店の経営者だ。
表情に何の変化も無く、俺の話を聞いている。
「まあ、いいんじゃないの?
ムシコロスだっけ、最初だけの契約はどうなるんだっけ」
「はい、ありがとうございます。
現在はキャンペーン中でして、六本1パックの所、増量キャンペーンの為
初回だけ1パックをプラスさせて頂く販売となります。
お買い上げ、ありがとうございます」
「まだ、買うとは言ってないが」
「は、はい。申し訳ありません。
それで、契約の方ですが・・・」
何で俺は夏真っ盛りの中、人に怒られて頭を下げているのだろう。
殺人的な日差しにやられて、会社に帰ったら課長にノルマについて怒られ。
何をしているのだろう。
俺は金持ちになりたいのだ。
金が欲しいんだ。
金さえあれば、何でも出来る。
だと言うのに、俺はアパートで安酒を煽って眠りにつこうとしている。
飲みながらも頭にあるのは、明日の課長の怒鳴り声と、営業先の相手の顔だ。
「殺虫剤なんか売っていて、金になるかよ!」
誰に言うのでも無く、狭いアパートで怒鳴った。
「ーーーその願い、叶えて差し上げましょうか」
音も無く、青いドレスの少女が俺の前に座っていた。
「あ・・・え、あ・・・」
髪はブロンドの流れる様な風貌の少女だった。
仕立ての良い青いドレスを着こなし、俺のアパートでは場違いの少女が座っていた。
「あ・・・あんたは」
「わたくし、サーシャと申します。以後、お見知り置きを。
それで、あなたの願い、叶えて差し上げますわよ」
「俺の・・・願い・・・」
「あなたを、この青き星で一番のお金持ちにして差し上げますわ」
これは酒で酔っているのだ。
何でもない、飲み過ぎただけだ。
「金が欲しい。一番の金だ。俺を金持ちにしろ!」
「よろしいですわ。では、あなたは、今から一番金持ちの男です
そのおつもりで、今後ともこの青い星を導いてくださる事、お願い申し上げますわ
クスクス。決して、わたくしを退屈させない事、あなたの願いはとても愉快ですから」
上品な笑い声が、目の前から消えた。
ブロンドの髪も、青いドレスもどこにも無い。
訳がわからなくて、酒を飲んで、俺は寝た。
翌日、俺の世界が変わっていた。
社長が亡くなっていた。
遺書には俺の名前が書いており、俺の真摯な営業姿勢に心を打たれ、次期社長へと就任を決定する一文が書いてあった。
訳がわからなかった。
だが、この小さな会社の社長へとなったのは、紛れもない現実だった。
課長が上目遣いに俺の顔色を伺っていた。
同僚は驚いていた。
秘書の女は対応に困っていた。
「仕事を始めよう。今まで通りにでだ」
いきなり社長になって、俺はどうすればいいかわからなかった。
俺は椅子に座って、決定を相談するだけでその日一日を過ごした。
そんな中、定時に差し掛かる頃、秘書の女が俺に電話を差し出した。
困惑した表情を俺に向け、俺に電話を差し出した。
「はい、初めまして、私はこの度社長へと就任した・・・はい? 我が社のムシコロスを千個書いたい。
は、はい、それはもう。契約につきましては我が社の営業部に話を通しておけば・・・はい、はい・・・
・・・ありがとうございます」
狐に摘まれたかの様な電話だった。
秘書に何かを言おうとして、社長室の扉を開ける音に阻まれた。
「社長、テレビをご覧ください!」
課長が息を切らしながら、飛び込んで来た。
「な、何だ・・・」
「私にお任せを」
秘書がテレビを点けて、映し出されるニュースに俺は目を疑った。
「・・・以上がムシコロスを使用した映像です。世界中の皆様、ご覧になって頂けたでしょうか。
世界中の虫はムシコロスでしか殺せません。キンジェールの殺虫成分では地球上の虫を殺せなくなりました。
これからはムシコロスで殺虫をしましょう。・・・・・・」
電話の着信音が響いた。
俺の卓上電話に、秘書の電話に、課長の電話。
「社長、今現在、我が社のムシコロスが爆発的に売れています。
世界はムシコロスです。株価も急上昇して、我が社が世界の市場に食い込んでいます」
電話の着信音が社内中に鳴り響いていた。
社内の電話に世界中の人が、市場が、俺の会社の商品を買いたいと、電話を掛けていた。
その日俺は応接室のソファーで寝た。
アパートには帰れず、社員の半分も自分のデスクで寝ていた。
訳のわからない興奮が渦巻いていた。
営業時代の人に向けられる顔が、全部消えた。
世界中から声が掛かってくる。
株価は今までの例に無い伸びを記録し。
商品の販売数は在庫切れだ。
俺はもしかしたら、世界一の金持ちになるのかも知れない。
先ずは、安定した商品の確保。
工場を新しく建てて、世界中に販売だ。
次は、会社を新しく建てる。
一等地にビルを建てるのだ。
社員も増やして、世界中に出張させる。
次は・・・。
次は・・・。
次は・・・。
「いかがかしら? 世界一の金持ちに成った感想は」
聞き覚えのある声が、応接室に響いた。
意識が一瞬で覚醒し、声の方を向こうとして、出来なかった。
体が金縛りにあったかの様に、身動きが取れなかった。
「あなたは社長で、商品は世界中で売れている。
あなたの望み通りですこと。これであなたは世界一の金持ちに成れますわ」
こんな状態で恐怖感は無かった。
「女神さま、ありがとうございます」
声が出た。俺の本心が喉から突いて出た。
「クスクス。女神ですって。
わたしはシェーナですわよ。お姉様とはドレスの色が違いますわ」
「シェーナ様。ありがとうございます」
「クスクス。あなたは世界一のお金持ちになって、それでどうするのかしら?
ずっと、世界で一番になれるのかしら。お金はいつまでもあなたの側に居てくれるのかしら」
「それは、もちろん・・・」
未来の事を突きつけられた気がした。
声の主が、俺に不吉な事を突きつけたかの様で、初めて怖くなった。
「それでは、御機嫌よう。あなたの願いが、この青い星を導く正しき願いである事を祈っておりますわ」
鈴の音を思わせる声が、応接室から消えた。
後に残ったのが、それを考えるのが怖くて、俺はひたすら忘れようとして目を閉じた。
俺の会社は急成長を遂げた。
ムシコロスは日本と海外に工場を多数持ち、販売を続けている。
世界中の市場が俺の会社に注目していた。
ムシコロスでしか、虫を殺せないからだ。
世界中の害虫を殺すムシコロスに頼らないと、世界中の人々の生活が崩壊してしまう。
農薬や害虫駆除。
主な使い道だが、それは俺のムシコロスにしか出来ない。
おかげで、俺は世界一の金持ちへと変身した。
ブランドのスーツを着て、ハイヤーに乗り、豪邸に住んでいる。
金は使っても使っても無くならなかった。
社長としても、社員を増やして檄を飛ばせばいいだけの仕事だった。
定時に帰り、高級店のバーへ毎日通った。
女も頻繁に買った。
俺の持つ金に嫉妬している貧乏人にも合った。
俺が使うのは札束だ。
バーで、女に、貧乏人に札束で頬を叩いてやる。
その後は去勢された猫と変わらなかった。
全てが俺に屈服する。
何故なら、俺は世界で一番の金持ちだからだ。
金は正義だ。逆らう奴はいない。
世界は俺の物だった。
そんな毎日が続いての事だった。
「社長。工場から、原材料が足りないとの連絡がありました」
「何だと。それはどうなる?」
「ムシコロスがこれ以上生産出来ないと言っております」
俺の世界が揺らぐ言葉だった。
ムシコロスがあるから、俺は金持ちなのに。
「ふざけるな! 世界中の工場にこれからもムシコロスを作らせろ!」
「は、はい」
この事は、それで済んだと思っていた。
だが、そうで無かった。
「・・・でしたら、社長はムシコロスの販売を今まで通りに続けると仰るのですね」
「そうだ。材料を偽造しろ。似たような物を作って、世界中に販売しろ」
会社の高層ビルで緊急会議を開いていた。
重役だけを集め、会議を進めている。
「社長。失礼ですが、その偽造はいつまで続けるおつもりですか」
「ムシコロスの原材料が確保出来るまでだ。各工場の責任者は一ヶ月もあれば、また作れると言っていた」
会議室が騒めいていた。
その騒ぎが、腹立たしかった。
「社員の為だぞ! お前ら、わかっているのか!
今、ここでムシコロスが売れなくなったら、お前らは全員路頭に迷う事になる!
お前が責任を取るか! お前はどうだ! 誰が責任を取ると思っている!」
会議室の空気が凍りついた。
誰か発言をしたら、そいつが責任を取らされる事になる。
「いいな! 会議は以上だ。
ムシコロスは材料の確保が出来るまで、偽物を作り続ける。
問題無いな!」
重役の誰も言葉を発さなかった。
それからは毎日が不安で仕方がなかった。
胃が重く、睡眠が浅い。
そして、虫が街に多かった。
「社長。ムシコロスの売り上げは変わりありません」
「そうか・・・知られて無いな?」
「はい・・・それは、今の所」
「ならいい」
ハイヤーでの移動中の事だった。
秘書の女は共犯だった。
俺とこの女は関係を持っている。
ムシコロスを偽造している事は、この女の暮らしの為でもあった。
自分一人では成分の偽造などしない。
「街に虫が増えましたね」
「・・・ああ」
ムシコロスの偽造をして一週間が経っていた。
世界中で虫が大量発生しているらしい。
このままではいつ偽造が発覚するのか、頭痛の種だった。
「どうした?」
ハイヤーが急に止まった。
慣性に体が揺られて、運転手に声をかけた。
「申し訳ありません。先の道路で事故があったみたいです。
しばらく渋滞になっています」
車が止まって、目的地に着かない。
俺の未来を案じたかのような出来事だった。
「先方に連絡をします」
秘書が手早く連絡を入れていた。
その顔が驚きになり、俺に助けを求めた。
「社長、イベント会場で災害が起きているみたいです。
虫が溢れて、人を襲っていると、現在救助隊が向かっていると」
「何だと!」
突然、爆発音が道路に響いた。
悲鳴が溢れ、通行人が大声を上げながら、何かから逃げていた。
「何だ! 何が起きている!」
人混みが大量に押し寄せていた。
何かに追われて、大量の人間が必死に逃げている。
「社長。火事です! 車の外に出て安全な所に避難してください」
秘書を連れて、俺は道路へ出た。
歩道でも車道でも、パニック状態の人々が助けを求めて、逃げ回っていた。
これは本当に火事なのか?
何かわからない事態に巻き込まれた恐怖感に襲われる。
「おい! 何が起きている?」
走りながらスーツ姿の男に聞いた。
「虫が襲ってきた! 虫が人間を食っている! 殺虫剤を探せ! 虫に殺されるぞ!」
虫、だと・・・
それは、一体。なぜ。
「社長! 逃げましょう!」
秘書の女の顔にありありと恐怖が浮かんでいる。
俺は、逃げた。
どうする事も出来なかったから、人混みに混じって、秘書の手を引いて必死に走った。
そうして、俺は事態を見た。
黒い雲が音を立てて、多くの人間を包み込み、捕食をしていた。
「キャアアア!!!!」
「虫が来たぞーーー!!! 逃げろーーー!!!」
何万もある羽音が人間の悲鳴を食べていた。
声を出しても、羽音に掻き消されてしまう。
虫が。虫が。虫が、人間を食べている。
その後は、何も考えられず、必死に避難所まで逃げだした。
秘書の女とはどこかで逸れていた。
虫の大群が怖かった。
人類の最後。
そうとしか思えない惨事が起きていた。
避難所の空気は重かった。
命からがら逃げ出した人々が、虫の恐怖に震えながら身を寄せ合っていた。
「ムシコロスがあったぞ! 動ける奴は集まれ!」
避難所で率先して動いている男たちがムシコロスの箱を持って来た。
武器を手に入れた男たちが、虫へ反旗を翻そうと人を集めていた。
その中の一人が俺を呼んだ。
「あんたも、来い。これで虫を殺して、避難所を守るぞ」
今のムシコロスに殺虫効果は含まれていない。
俺が、そういう命令を出した。
「俺は・・・行かない」
「あんた、確か、ムシコロスを作っている会社の社長だよな?」
「・・・金だ! 金を出す!! だから俺はムシコロスを使わない!!!」
「おい! ふざけるなよ! 社長か何か知らないが、金の話では無いだろ!」
避難所で大勢の人の視線が俺に向けられた。
だが、俺はムシコロスを持って虫を殺す事に必死に抵抗した。
金を幾らでも出すと、必死に喚いた。
「ーーームシコロスは効きませんわ」
暗い避難所の中で、鈴の音を思わせる声が響いた。
振り向くと、赤いドレスを着た少女が立っていた。
「お嬢ちゃん、それはどういう事だ?」
「ムシコロスは殺虫成分の材料が確保出来なくなっていますわ。
ですから、今のムシコロスは成分を偽造している、偽物なのです。
クスクス。ご存知なかったようですわね」
少女の言葉に、視線の全てが俺に釘付けになった。
「おい! どういう事だ! この子が言った事は、本当か!」
「あ・・あ、あ・・・子供の嘘だ! 虫が怖くて・・そういう事を言っているだけだ!」
俺の周りに男たちが集まっていた。
囲むように、逃げ出さないように、この後の事を決めるように。
そうして、判決が言い渡された。
「助けてくれ! 金なら幾らでも出す! 俺を外に出さないでくれ!
ムシコロスは効かないんだ!! 死にたくない!!」
残酷な判決だった。
俺はムシコロスを持たされたまま、避難所の外へと追い出された。
虫の大群が迫っていた。
何万の羽音が。
理性の無い思考が。
俺を目掛けて飛び掛かって来た。
「ああアアァァァアああああ!!!」
大量の虫が俺の皮膚を齧った。
服を裂き、皮膚を齧り、体内に潜り込む。
激痛と未知の恐怖が俺を襲った。
錯乱して、ムシコロスを所構わず振りかけた。
絶命する、最後の瞬間まで。
ムシコロスが無くなった世界では、虫の大量発生が起こった。
どこの国も対応できず、次々と国家が滅び、人が死んだ。
三日をかけて、虫は全ての人類を捕食し終わった。
そうして、人類は滅んだ。
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