第7話 エピローグ
小高い丘の上、眼下には復興街が広がっている。
吹き抜ける静かな風に、一人の女性がその黄金色の髪を靡かせてそこに佇んでいた。
左の肩から指先に掛けて黒い鎧の籠手に覆われ、それを太陽に翳して眺めている。
眩しそうに細められる瞳は片方が美しい青色。そして、もう片方はサイティングマークの様な十字の模様が刻まれた緑の瞳だ。
クロスアイズ。
彼女――いや、彼クロイツはこの瞳の力を正しく全てを理解していない。
つい先日も、虚飾を払う力だと思っていたのが実は誤りであり、真実を見る瞳だという事に気付かされたばかりである。
そして肘から肩までの体を取り戻した今、さらなる瞳の本質を思い出した。
それは「とらえる」力。
時に目標を捉え、時に敵を捕らえる。
極めて強力な眼だ。
同時にこの力を理解した事で一つ、無視できない疑問が浮かぶ。
果たして、これは本当に銃を扱うスキルなのだろうか。
人に戻る為に体を集めようとしているはずなのに、一歩人から遠ざかったような気すらする。
――クロイツ様。
頭に響く柔らかな女性の声。
この体の本来の持ち主であるクリスベリルだ。
手を翳すのもやめないまま、クロイツは自分を呼ぶ彼女の次の言葉を待った。
流れる雲が、僅か眩しかった太陽を遮る。
――貴方がどの様な化け物であったとしても、わたくしは貴方と共にありますわ。
「それは俺の台詞だな。お前が人に戻るまで、化け物として隣に居てやるよ」
――うっふふ……わたくしに対してのその言葉の意味、ちゃんと理解されてまして?
理解している。
クリスベリルは既に人として壊れている。
彼女を人に戻す。
それは、すなわち全力のクリスベリルと一対一で戦い、殺す事。
個人に敗れる程度の者は、化け物などではありはしない。
愚かな破滅願望である事は理解している。
ルクスのように、かつての名前で人として呼んでくれる者もいる。
それでも、やはり壊れた彼女はダメだった。
クリスベリルが盲目なまでにクロイツを慕う理由はこれである。
自身をあくまでも化け物として扱ってくれて、その上で葬ろうとしてくれる……それが可能かもしれない個人。
カルメリアでは弱すぎた。
エメリスはきっと個人で対峙はしてくれない。
ともなれば、残るはクロイツを置いて他にいない。
「あ! クロイツー! クリスー!」
背後から聞こえてきた元気な声に、左手を下ろして振り返る。
銀色の髪を揺らして走ってくる、耳の長い少女が見えた。
黒い上着とスカートに、その白い肌と美しい髪色がなんともよく映える。
彼女、アルシェは軽い足取りでクロイツの前までくると、眩しいばかりの笑顔を向けた。
「よく場所が分かったな」
「ルクスに呼んでくるように頼まれたのよ。二人はデート?」
「うっふふ、そうだって言ったらどうしますの?」
――あ、おいクリスベリル!
突如体の主導権を奪われ、クリスベリルが勝手に返事をする。
女性的な柔らかな笑みを浮かべて意地の悪そうに言うクリスベリルに、アルシェも笑って返す。
「もしそうなら私に言いなさいよ。隣で歩く方が楽しいでしょ」
「あら、嫉妬くらいしてくれると思いましたのに」
「しないわよ。今さらアンタ達二人の関係に嫉妬なんて」
――おーい、頼むから当人居ないところでやってくれー。
正直言って恥ずかしい。
人間を愛せない身だと言うのに、好意を向けられていることを隠しもせずに言われるのはどうにも慣れない。
例えそれが――少なくとも片方は――からかっているだけだと分かっていても。
「クロイツ様が恥ずかしがられていますので、わたくしは引っ込むとしますわ」
「またお話しましょうね。クリス」
黄金の麗人は小さく手を振った後、纏う雰囲気が一変した。
ほんのりと頬を赤らめ、不機嫌そうに目を伏せている。
「ルクスが呼んでるんじゃないのか?」
そのまま、あくまで声色は平静を装いながらクロイツが言う。
アルシェは手を後で組みながら、足取り軽く緑の絨毯の上で楽しそうに舞い歩いている。
くるりとその場で回転し、下からクロイツを覗き込むような姿勢をとる。
そして満面の……それでいて悪戯な笑顔を浮かべる。
「ええ、行きましょ? あんの眼鏡からこないだの話しっかり聞かせてもらうんだから!」
◆
グラース本館に戻った二人はそのままルクスの執務室へ向かう。
初めてアルシェをここへ連れてきた時にはクロイツの後に彼女が続いて歩いていたが、今は少し先を歩いていた。
その対比につい口許が緩みそうになる。
「おかえり、二人とも」
廊下を抜け、扉を開ければルクスが声を掛けてくれる。
この男のおかえりを聞くとなんとも落ち着くものだ。
「ただいまー」
「ああ、ただいま」
クロイツとアルシェの二人はそのまま部屋の中央にある椅子に腰掛ける。
柔らかな陽射しの入り込む窓は小さく開けられており、時折優しく吹き込む風は冷たくも心地よい。
ルクスは書類仕事で使っていたであろうペンを置く。
眼鏡の位置を直し、背もたれに寄り掛かるように大きく伸びをして机に両の肘をついた。
グラースのギルドマスターとしてではなく、ルクスという個人として話をしようという事なのだろうか。
普段この部屋に居るときには中々見ることがないくつろいだ姿勢だ。
「さて、まずどこから話そうか?」
「アンタ、レーヴェフリードに兄上って呼ばれてたわよね。あいつって第一王子よね? 第一王子って長男の事なんじゃないの?」
「うん。それについては、実はティアの一件が関わっててね」
クロイツ……いや、その体であるクリスベリルにルクスは視線を向ける。
釣られてアルシェもそちらを見れば、いつの間にやら女性らしい座り方に直していたクリスベリルが、目を伏せながら静かに頷いた。
ルクスもその意図を汲み、一度頷くと静かに話を始めた。
「人の魂を砕く闇の魔法の話は知っているかい?」
「ええ、クロイツから聞いたわ。クリスはそれで力を奪われたんだって」
「あれは極めて強力な魔法なんだけど、魔力以外にもとある代償を求められるんだ」
「とある代償……?」
怪訝そうに聞き返すアルシェに対し、ルクスは小さく頷いた。
柔和な表情をしてこそいるが、眼鏡の奥に光る緑色の瞳は、レーヴェフリードの底知れない眼光と同じ光を放っているようにも見える。
窓から吹き込む風すら今は何処か重苦しく、この男が王族の血を引くのだと思い出させる。
「術者の魂だよ」
「え!?」
「術者本人の魂……ようは魔力の根源を直接ぶつける事で、対象の魂の魔力を暴走させて内から壊す。これが闇の魔法なんだ」
魔法の才に秀でている者ほど、魂というのは強力になる。
クリスベリルはその点でも常人から逸脱した存在であった。
そこで、当時まだ第一王子であったルーカスに白羽の矢が立ったのだ。
彼は攻撃魔法の扱いはさっぱりだったのだが、それは高すぎる魔法の適性と、優しすぎる彼の性格に起因している。
ルーカスは無意識の内に攻撃用の魔力の出力を抑制してしまうらしく、力が形を成す前にほとんどが霧散してしまっていた。
しかし、治癒魔法に限ってはその魔法の適性を存分に発揮でき、これにより彼の魔法の才能……つまり魂の強さは自他共に知れることとなる。
クリスベリルに効果を及ぼせる闇魔法の触媒になりうるのは、ルーカスを置いて他には居なかった。
しかし、王子の才能を犠牲にする事に、当然反対の声は多く上がった。
「まあ、当然よね」
「彼らの気持ちも分かるよ。でも僕はそんな彼らの反対を押し退けて、ティアに対する施術者になる事を選んだんだ」
「他の人を犠牲にするのが嫌だったから?」
「それもあるね。でも、それ以上に僕はティアの生い立ちを知った事が理由だったと思ってる」
限られた一部の人間だけが知るクリスベリルの過去。
これを調べたのも、他ならぬ王子ルーカスだった。
クリスベリルは被害者である。
本来は優しく正義感に溢れる少女だったはずの彼女が化け物と呼ばれ、災厄のように暴れるのは本人の責任ではない。
ルーカスは周囲に主張するも、聞き入れる者は居なかった。
「本当に、お節介な方でしたわ」
「そう言わないでよ。僕だって必死だったのに」
ならば、ならばこそ彼女が化け物ではなく人間であると知る自分が、隣でその名で呼んでやるべきだと。
たった一人の大罪人の為に、王族がその地位を投げ出す。
自己満足のどうしようもない馬鹿者だと、ルーカスは周囲に言われるまでもなく感じていた。
「クロイツといいアンタといい……この男共は……」
「うふふ……モテる女性は辛いですわ」
施術が終わると、ルーカス王子の美しかった金の髪は枯れたような茶色に変色。同時に、質の良い魔力を帯びて輝いていた薄緑の瞳も輝きを失い、今の濃い緑色になることとなった。
一方のクリスベリルは外見の変化はまるで無かったが、その力は全盛期の二割程度にまで落ち込んだ。
これにより、クロイツを用いた身柄の拘束が可能になったと判断され、クリスベリルはクロイツがその体を支配する形で追放された。
「第一王子が勝手な事をしたなんてのが知れると色々と厄介だからね。レーヴェが第一王子であり、第二王子は失踪したという情報を国内外へと流して僕も城を去ったんだ」
「そうしてこの一件を知る者3人が集まりまして、隠れ蓑としてこのギルドを立ち上げましたの」
「幸い、父上は僕の考えを理解してくれていたからね。ティアの監視に僕が付くって形式を提示したらギルドの立ち上げを容認してくれたよ」
追放されるクロイツとクリスベリルの為に王族である事を捨てた。
要約してしまえばただそれだけなのだろうが、果たしてそれにはどのような覚悟が必要だったのか。
クロイツには分からない。
きっとアルシェにも、クリスベリルにも、それこそレーヴェフリードにも理解はできないだろう。
平和な世界にしか居場所のない男。
元は被害者であったとはいえ、戦場で何人もの命を奪ったクリスベリルという個人を切り捨てられない優しさが、きっとこの男の強さなのだろう。
だが、王としては相応しくない。
現王の顔がクロイツの脳裏に浮かぶ。
群の為に個を捨てられるレーヴェフリード。
個の為に全力を尽くしてしまうルーカス。
きっと彼がレーヴェフリードに後を託したのは、あの苛烈さこそ王に必要な器であると理解していたからなのではないだろうか。
「この件で話せるのはこのくらいだけども、こんな物で大丈夫?」
「ええ、問題ないわ……ねえルクス」
「何かな?」
「私、アンタがここのリーダーで良かったと思えたわ」
僅かルクスが目を見開く。
クリスベリルは口元に手を当てて小さく笑い、その内側でクロイツも息を漏らすように笑った。
自分は国の指導者として相応しくないと、自らその地位を捨ててやってきた男が指導者として認められる。
さぞや嬉しかった事だろう。
ルクスはその後小さく笑みを浮かべると、アルシェに対して無言のまま頷く。
「俺からも一つ聞いていいか?」
「構わないよ」
柔和な表情から一変、目付き鋭く声音も尖った金の麗人が腕と脚を組んで座っていた。
「安全な潜伏先ってのは城内だったらしいが、誰が手引きした?」
「ああ、その事ね。妹だよ」
ルクスの妹。
つまり王位継承権三位の王女ルナリアの事か。
なるほど、確かに彼女ならばレーヴェフリードの息の掛かっていない従者だけで手引きが可能だろう。
今回、騎士団の動きに対してダミーの用意なんていう先手を打てたのもそこから情報を得ていた訳か。
やはりこの男はレーヴェフリードの兄だ。
謀略に長けると言われる弟と違い、それを好んで振るうことがないせいで周囲に知れていないだけで、有利な状況を作り上げる手腕は確かな物だろう。
「ルナリアともちょっとだけど話もできたよ。すっかり大きくなってて、誇らしかったよ」
「アンタ、良いお兄ちゃんしてるわねぇ」
「いやー、やっぱり二人とも可愛くて」
「ルナリアはともかく、あのレーヴェフリードを可愛いなんて言えるのは俺の世界まで探してもお前くらいだろうよ」
アルシェがうんうんと頷いている。
苦笑いのまま、ルクスは机の引き出しから数枚の書類を取り出して中央のテーブルに持ってくる。
クロイツがそれを手に取り、文字の読めないアルシェは彼の後ろからそれを覗き込む。
書いてある内容はグラースの行動方針についての物だ。
「先日、レーヴェフリード王と一対一で話し合ってね。グラースはこれまで通りに活動する代わりに、一つだけ条件を課せられた」
「…………名前の通り、復興支援にのみ従事すること……か」
「え? どういう事?」
「つまるところ、争いの火種になりそうな事や小さな紛争に首を突っ込むなって事だな」
「何よそれ!」
「耳元ででかい声を出すな!」
「あ、ごめん」
謝罪を口にすると、彼女は再びクロイツの後ろから書類を覗き込む。
読めないのに意味があるのかは不明だが、形だけでもこうしていたいのだろうか。
ルクスも恐らく同じことが書かれているであろう書類を手に、湯気も上がっていないティーカップを口に運んでいる。
「あの王様、結局何も分かってないじゃないの」
「いや、そうでもないだろうさ」
「そうなの?」
小首を傾げるアルシェの頭に、クロイツは撫でるように手を置く。
グラースの活動はこれまでと同様に認める旨と、その活動範囲を制約する内容。
文面だけを見るならば、レーヴェフリード達の思想は何も変わってないように見える。
だが、これはグラースをただの民間ギルドとして扱うという事だ。
これまで、王族と繋がりのあるルクスがクリスベリルを監視する為に活動と存在が認められていたグラース。それが国から首輪を外され、民間ギルドとしての活動が許されるというのはとても大きな意味を持ってくる。
要約してしまえば、今後はクリスベリルを含めてグラースの所属人員はネレグレス王国の一民間人として認可される。
クリスベリルは罪人ではなく、ルクスも王族ではない。アルシェも反逆を企てかねないエルフとして扱わず、クロイツも国の所有物ではなくなった。
「血を流すのは民ではなく騎士や兵士。俺達はそれを癒す為に動けば良い」
「あーもう! 頭悪いって言ってんのに回りくどい言い方されても分かるかってのよ!」
「だから、耳元で叫ぶな!」
「あはははは……レーヴェも王様としての立場があるからさ」
民間ギルドとして扱う以上、戦争行動への介入は原則的に認められない。
火種や広がってしまった戦火を消すのは国の仕事になる。
元々グラースは後手で動いてきた組織だ。そのせいで救えなかった物も多く、構成員が悔しい思いをする事も少なくはない。
だが、それはこの組織の人間では救えない物。歯痒さを感じるならば、兵士か騎士になるべきだ。
「とはいえ、僕は兄としてレーヴェから一つ頼まれ事をしててね」
「何よ。勿体ぶらずに言いなさいよ」
「もしも自分達が間違ったのなら止めてくれって……まあ、グラースに抑止力としての働きも期待するって事だね」
レーヴェフリード達がこれから行う国政の実情はまだ分からない。
だが、民に近い目線であるグラースがそれを間違っていると思ったのならば、止めてくれとの頼みだ。
そんな事を言うからには、恐らく流血し続ける国を目指すなんて事はないのだろう。
もしもそうならば、この銀のエルフが黙ってはいないはずだ。
「まあ今は良しにしておいてあげるわ。お国様の今後に期待ね」
「なんだか、まるでこっちが偉いような物言いだね」
「偉くはないわ? 対等よ。レーヴェフリードが私に言ったんだもの!」
わざとらしい咳払いを一つ。
「余とそなたは対等であったな。エルフの銀王よ」
「ぷっ! あははははははは! 言う言う! レーヴェの特徴よく掴んでるねアルシェ君!」
「声まで寄せようとして低くてしてな! 妙に良い声なのが余計に面白い!」
「ふふん! どーよ!」
銀の髪を揺らし、彼女は自慢げに胸を張る。
ルクスとクロイツはひとしきり腹を抱えて笑うと、目元の涙を拭う。
「しかしお前が王様か」
「な、何よ! 文句ある!?」
「いや、きっと良い国になる」
静かな風が吹き込んだ。
クロイツの金の髪と、アルシェの銀の髪を優しく撫で、短い沈黙が空間を支配する。
ルクスは優しい目で二人を眺め、やがてアルシェの白い肌が紅潮してゆく。
何かを言いたいのに言葉がでないような様子で開いた口をパクパクと動かし、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「ありがと……」
そのまま、彼女は消え入るような小さな声で呟くのだった。
◆
城内の廊下を歩く赤い鎧の騎士が一人。
規則正しい足取りで、凛然とした視線を前方に向けている。
目的の部屋の前に着き、二度のノックをする。
返事も待たずに扉を開き、中に入ればベッドに腰掛けている大男が顔を上げた。
「ノックをしたら返事を待つべきではないかね?」
「団長。お願いですから安静にしていてください」
赤い騎士、カルメリアは大きく嘆息する。
先の戦闘で大怪我を負ったエメリスは、治癒魔法での回復が追い付かないほどの状態になっており、医術者から絶対安静を言い渡されていた。
身体中に巻かれた包帯には血が滲んでおり、そしてそれらは乾いて黒くもなってきている。
ばつの悪そうな顔で視線を逸らすエメリスだったが、何かを感じ取って軋むブリキ人形のようにゆっくりと顔をカルメリアへと向けた。
「分かった。分かったから加重を少しずつ増して行くのをやめてくれ……」
「分かりました。では一気に増やしますね」
「お前は私を心配して安静にしろと言っているのではないのかね!?」
不意に体に感じていた不快な重さを感じなくなり、エメリスは溜め息を吐く。
カルメリアは珍しく小さな笑みを口元に浮かべ、ゆっくりとエメリスへと近付くと、背中に回って包帯を解き始めた。
ぐるぐる巻きにされていた包帯だが、それを解きながら巻き取って行くカルメリアは手慣れた様子だ。
彼女の親指ほどもある直径の弾痕が次々に姿を見せる。
「痛いですか?」
「ああ……痛いな……」
傷口からはまだ滲むように血が出ている。
きっと、これがレーヴェフリードとエメリスが目指した国の形なのだろう。
これから先もこんな国を目指すのか。カルメリアは口に出そうになった問いを飲み込んだ。
如何なる先を目指すのであれ、この人達と行くと決めたではないか。
傷だらけの背にそっと手を当て、愛しそうに体を預ける。
「血で汚れるぞ」
「構いません……少しだけ、こうさせていてください」
エメリスは何も言わない。
目を閉じたまま、両の手を膝に乗せて少し俯いているばかり。
カルメリアは彼の肌の熱を感じようと、少しだけ瞳を伏せた。
静寂も長くは続かない。
ふと目を開いたカルメリアは、持ってきていた替えの包帯を用意してエメリスに巻き始めた。
自分達を守るために彼が一人で負った傷を、彼女は真白の布で隠して行く。
次からはこんな風にはさせまいと、灼鉄のような橙色の瞳にその姿を焼き付ける。
「エメリス団長」
「どうした」
「前王を殺したのは、本当に団長なのですか……?」
暫しの無言。
そして、彼はゆっくりと首を横に振った。
レーヴェフリードから、前王の暗殺を命じられ、それを承諾したのまでは事実だ。
だが、彼が王の前に立ったその時、前王はエメリスに短い謝罪と、王子を頼むとだけ言い残して自らの喉に短剣を突き立てた。
最も信頼した騎士を、せめて本当の裏切り者にしない為の優しさだったのだろうか。
今となっては、その真意を確かめる術は無い。
「そうですか……少し、安心しました」
「覚悟は決めていたのだがね……前王には、命を掛けて救われてしまった」
辛そうに笑うエメリスの背を、彼女はゆっくりと撫でる。
自分達は弱く、同時に強くもあると彼に言った。
それはきっと、エメリスも変わらない。
力が強く、心も強い彼であるが、きっとその何処かに弱さはある。
誰かがそれに気付き、その弱さは決して悪ではないと認めてやる必要があるのだろう。
不意にノックが聞こえ、間髪入れずに扉が開かれた。
「む? 間が悪かったか?」
「何故カルメリアといい貴方といい、ノックの後を待たぬのですか」
「きゃ」
「まるで感情のこもらん声で何を言う」
部屋に入ってきたのはレーヴェフリードだった。
手には果物が入れられた木のカゴを持っている。
どうやら見舞いのつもりらしい。
「これでよし」
「イ――――ッ!?」
一通り包帯が巻き終わると、カルメリアはエメリスの背中を一発強く叩く。
弾丸の雨を突き進んだはずの彼が、声にならない声をあげて痛みに悶えている。
レーヴェフリードが苦笑いをしているが、その顔はあのギルドのマスターによく似ていた。
「カルメリア。その辺にしておいてやれ。腹が立つのも分からんではないが、エメリスとて悪気があった訳では――」
「レーヴェフリード王も同罪ですからね」
「スミマセン」
感情の起伏に乏しいカルメリアの、それでも憤りが窺える目に睨まれてレーヴェフリードが謝罪する。
確かに、今回の一件はカルメリアも了承した事ではあったが、それにしても無理をし過ぎ、させ過ぎである。
本気で二人を慕っているからこそ、カルメリアはエメリスの無謀に腹を立てていた。
レーヴェフリードもその件には責任を感じているし、エメリスに至っては当事者なのだから何も言い返せない。
小さく嘆息した後、カルメリアはレーヴェフリードの持つカゴからリンゴを一つ取り、部屋にあったナイフでそれを剥き始めた。
「憑き物が落ちたような顔になったな。エメリス」
「恥ずかしながら、重圧が減ったような気分です。身の丈に合わぬほど、抱えて居たのだと今になって思います」
「団長は強いですけど、あらゆる面で鈍感ですからね。今後は私達部下の意見にも耳を傾けていただければと思います」
「む……善処する」
ウサギの様な形に切り分けられたリンゴが皿に乗せられてエメリスとレーヴェフリードの前に出される。
二人はそれを一つずつ手に取り、感心したように眺めると口に運んだ。
シャキッという瑞々しさを感じられる音が、大男を含む三人には少し狭い室内によく響く。
「味は普通なのだな?」
「当たり前じゃないですか」
「ははは、愛い形をしておる。余は好きであるな」
大の大人二人が、ウサギリンゴに一喜一憂する様の方が愛らしいと思うがカルメリアはこれも口に出さない。
思わず笑いそうになるが、表情にすら出さないようになんとか堪える。
皿が空くと、そそくさそれを下げてテーブルに置いた。
「私達は、この先どうすれば良いのでしょうか……」
「やりたいようにやる。余達が間違えたならば、正そうとしてくれる者達が居る事が分かった故な」
呟くようなエメリスの問いに、レーヴェフリードが即座に答えた。
カルメリアは無言のままだ。
これは主導者の語らい。
後に続く側の彼女は、自分の出る幕ではない事は理解してた。
部屋の窓を少し開け、新鮮な空気を室内に取り入れる。
彼女の黒い髪を揺らし、頬を撫でる風は少し冷たく、肌に心地よい。
「エメリス、それにカルメリア」
「はっ!」
「どうなさいましたか?」
レーヴェフリードは僅か沈黙し、目を伏せる。
ゆっくりとその薄緑の目を開き、二人の顔を見ながら告げる。
「余は未熟な王である。迷い、間違い、そなたらに傷を負わせる事も多々あるであろう。……それでも、どうか余に力を貸して欲しい。余の……俺の愛する民と、彼らが平和に暮らせる世界のために」
「ええ、私達はその為の剣なのです」
「貴方の絞首台への供は私です。どうか、前王のように置いて行かないでください」
静かな時間は過ぎて行く。
やがて白騎士の傷が塞がるように、この国が、世界が大戦で負った傷も塞がって行くことだろう。
◆
かつて、エルフの住んでいた土地があった。
大戦の時代、その戦火に飲まれて森は焼け、ただ一人の森番を残して荒野へ消えた。
しかし、その荒野には森があった。
エルフが暮らしていたあの森が、まるで夢でも見ているかのようにそこにあった。
今は、それすら過去の話。
そこにはただ彼らの墓標が立ち並び、森も獣もエルフももう居ない。
そんな墓の荒野に、かつての森番はやって来ていた。
その左腕に黒い籠手を纏い、二つの車輪で動く金属の馬に跨がって。
日はすっかり暮れてしまい、月もない夜では一面真っ暗だ。
黒い籠手を外し、彼女は唄う。
銀の月。
虚の森。
夢の夜。
虚構は揺り篭にして夢の守。
其の真実はここに在り。
夢を見よ。月落ちるまで囚われよ。
夢を見よ。月落ちるまで抱かれよ。
我ら森と共にあり。
故に森は我らを喰らう。
我は望む。
どうか森が其を守らん事を。
現れよ夢幻樹海。
「発動せよ。幻惑の森」
静かに告げられた大魔法の発動。
二度と戻らぬはずの荒野に、奇跡の森が姿を現した。
空には月が浮かび、銀のエルフ――アルシェと、いつの間にか彼女の隣に立っていた帽子の男――クロイツを照らし出す。
初めて二人が会ったとき、アルシェは今よりも質素で色気のない服装で、クロイツは長い金髪の女性の姿だった。
「悪いわね。我が儘に付き合って貰っちゃって」
「クリスベリルが俺を貸したなら、付き合うって言っただろう?」
「ふふ、そうだったわね」
当てもなく、二人は並んで森を歩く。
アルシェがかつて守った森は、今やクロイツと彼女を守る切り札だ。
この森の中では、クロイツは本来の姿で歩ける。
幻ではあるが、森はかつての姿のままだ。
師に魔法を教わった広場、毎年身長を刻んだ木、同い年の友達と木の実を採った秘密の場所。
その全てが記憶の通りに再現されている。
ただ、そこにかつての仲間の姿だけがない。
「ねえクロイツ」
「何だ?」
先を歩くアルシェは振り向きもせずに足を止めて、クロイツの名を呼ぶ。
しばし沈黙が流れた。
アルシェが何を思っていたのかは分からない。
懐かしい空気と夜の心細さに、寂しさが蘇って泣きそうになっているのかもしれない。
だが、振り向いた彼女は笑っていた。
いつもの元気な笑みではなく、ルクスのそれにも似た、優しく、儚く、美しい笑顔。
「あの夜、私達は平行線だったのよね」
「ああ、銃と人によって滅ぼされたエルフと、銃しか扱えない来訪者の俺だからな」
「なら、今は交われたかな」
無言のままクロイツは頷いた。
交わるはずのない二人だと思っていた。
あの森から彼女を救っても、ギルドに着いたら離れる物だと思っていた。
なのに気付けばこうして側にいて、全てを失った少女は笑っている。
それだけではない。
グラースとネレグレス。
別々の道を歩むはずだった二つを繋げ、クリスベリルを国が赦す切っ掛けまで作ってみせた。
「良かったわ。ふふ、まあ答えは分かってたんだけど」
悪戯に笑う彼女は、しかしやはりいつもと雰囲気が違う。
月明りに照らされる美しい銀の髪のせいか、どこか大人びて見える。
時折見せる軽い足取りで、再び歩き始めた。
クロイツもその後ろをゆっくりとついて行く。
跳ねるように一歩進み二歩進み、着地した足を軸にくるりと回ってまた進む。
その度に銀の髪が踊り、夜闇に朧な光を反射する。
見惚れていた。
クロイツはそう認める。
かつて自分のエゴで救ったエルフはあまりに美しく、その妖精の様な姿から目が離せなかった。
聞いたこともないような、しかし美しい音色の鼻唄を歌いながら、銀のエルフは舞い歩く。
「皆に自慢したくてね。アルシェは立派に人と手を取り合えてますよって」
やがて二人は泉に着いた。
波一つない水面が月を写し、まるでそこにもう一つの空があるかのような美しい泉。
アルシェはその前で振り返り、クロイツの手を引く。
「入りましょ!」
「は!?」
引っ張られるまま、クロイツは水面に放り込まれた。
彼が落ちたすぐ後に、アルシェも泉に入ってきた。
「っぷは! お前! 何すんだよ!」
帽子を押さえながら水面から顔を出したクロイツは、髪と帽子から水を流している。
そんな彼の文句も無視して、彼女はその手を引いたまま泉の中央へと引っ張って行く。
二人が歩く度に波が生まれ、水鏡のようだった泉が荒れて行く。
中央へと辿り着いた辺りでアルシェは手を離し、少し歩いてクロイツに向き直った。
辺りには木がなく、真上からの月光が二人を静かに照らしている。
「ありがとうね。クロイツ。私、あなたがいる世界になら生きて行きたいと思えるの」
クロイツは帽子を手で押さえたまま、クロスアイズを大きく見開いていた。
小さく口元に笑みを浮かべると、軽い溜め息を吐いた。
「俺は銃だ。本当ならこの世界にあるべきじゃない武器……多くの命を奪った存在だ……それでも、俺の隣に居たいなんて言うなら、せめて上手く使え」
「バカね。私はエルフ様よ。銃なんて死んでも使うものですか」
アルシェは少しだけ前に出て、クロイツの右手を掴む。
自分の両手で、武骨な黒い籠手に覆われたそれを包み、心底愛しそうに目を細める。
「私達は手を繋ぐの。平行線だった人達がその瞳みたいに交われるように、この世界で手を繋いでいて」
「…………はは、敵わないな」
空いている左の手の平を空の月に向け、頭を左右に振る。
そしてそのまま左手を空に突き出した。
「形成」
彼の左手に毒々しいまでの赤い光が集まる。
ゆっくりと光は形を為し、クロイツがイメージする銃の姿で固定される。
「リボルバー」
そして彼の言葉をトリガーに光は弾け、その手には銀のリボルバー銃が握られていた。
アルシェは何も言わない。
その様子を見る彼女の目はどこか優しく、そして口元には柔らかな笑みすら浮かんでいる。
クロイツはハンマーを起し、その引き金に指を掛けた。
「いつか、本当の俺になれたなら、また手を繋いでくれ」
「ええ、約束! 絶対にね!」
「それまでは化け物でいい。お前が生きたいって言ったこの傷だらけの世界で、大事に思ってしまった奴等を守れるように、化け物でいてやるさ……アルシェ」
「何かしら?」
「アーソゥ・ユアン・アール」
重い射撃音が静かな森に響いた。
放たれた弾丸は月の中央を穿ち、十字にひびを広げた。
クロスアイズの月に見守られながら、魔砲使いの魔法は解けて行く。
森も、泉も、月も、そして彼自身も光となって消え行く中、それでも二人は笑っていた。
美しい月と、優しい夢の中。
ずっと先の、もっと美しくて、もっと優しい未来を約束して。
――Fin
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