第4話 黒と銀、赤と金

「目を合わせた相手を石にする魔物がいてな」


「へー、アンタみたいね」


「お前……」



 グラース本館の一室、クロイツは自分の世界で魔物と呼ばれる存在についてアルシェに聞かせていた。

 アルシェが言っているのはクロイツが来訪者ナギトとの戦闘で見せた能力だ。


 対象の完全停止。


 曰く、クロスアイズで相手を視認し続けた後に視線を合わせるのが発動条件らしい。



「そういえばアレに名前みたいの無いの?」


「考えた事がなかったな……」


「バカ! ロマンの分からない男! バカロマン!」



 あちらの世界にはそんな感じの名前の入浴剤があったなとか考えながらアルシェの理不尽でアホな罵倒を聞き流す。


 あの一件から早くも一月半。


 力があるだけの首謀者の下に集った有象無象では、その頭を潰されてから散り散りになるまでそう時間は掛からなかった。

 あの日に捕らえた男とナギトの遺体を自警団に引き渡し、革命を目論んで集っていたならず者のほとんどは捕まった。


 男が素直に協力してくれた背景には、目の前でナギトが敗れた事もあったのだろうが、なによりもクリスベリルの姿を見せられたのが決め手になったようだ。


 グラースと連携する事も多い復興街の自警団には、クリスベリルと瓜二つのクロイツという女性……という事で話が通っており、事実噂に聞いていたクリスベリルとは立ち振舞いが全く違う事もあって実状はバレていない。……ということになっている。


 実際に彼らがクリスベリルの体を使っているクロイツを、別人として見ているかは定かではない。



「それでだ。要するに俺の世界で魔物と呼ばれている物と此方で呼ばれている魔物とは厳密には少し違うものだと考えているって話なんだが」


「昔話に出てくる悪者がそう呼ばれてるってこと?」


「大方合ってる。こっちでは人に害を及ぼす狂暴な生物がそう呼ばれているだろう?」


「え……? あー……うん! そう! そうよ!」


「バレバレの見栄を張るな……」


「ば、バレてないわよ!」


「そうか。なんとかバレないでやり通せるといいな」


「任せておいて。得意なのよ」



 人に害を及ぼす狂暴な生物。


 あちらでは害獣という言葉に含まれたりもするが、これも厳密には少し違う。

 この世界の魔物とは、その土地の生態系において自然に発生し得ない筈の存在を指すとクロイツは考える。


 ウルフに代表される普通の獣が大型化されたような魔物などは、発生した時点で生態系を壊しかねない。

 上位種とされるウェアウルフに至っては、極めて人に近い振る舞いを何処かで覚えてきている。


 これらはあくまでもイレギュラーでありながら野生生物の範囲を大きくは逸脱しない。

 不死種と呼ばれる魔物はこれとはまた違ってくる。


 動く人骨や腐敗した屍体などがそれに分類されるが、これらの発生原因は不明。

 なんなら人の死体が無さそうなところでも群れで発生する事もある。



「これらを考えるに、ドラゴンはその魔物の定義からも外れた存在になるんじゃないだろうか」


「確かに言われてみればドラゴンって、昔話に出てくる悪者っていうアンタの世界の魔物に近いわね」



 ドラゴンについてクロイツが言及する。

 ナギトの一件以降、暇を見付けては出掛けているクロイツだがクロスアイズを持つ青いドラゴンはいまだ見付からない。


 クリスベリルのタフネスと魔導二輪車の機動力のお陰で捜索範囲自体は広いのだが、行動範囲で言えば空を行けるドラゴンと制約のある人間では比べるべくもなく。

 闇雲に探すことに限界を感じたクロイツは、まずドラゴンという魔物を調べる事にした。



「こっちでもドラゴンは昔話に登場するわ。大きな翼を持ち、灼熱の……あるいは吹雪の息を吐く生物の王。鱗一枚は百の兵士と等価であり、瞳は国の一つと等価である。個がそれを討ち滅ぼすのであるならば、王の器の英雄か。あるいは人ならざる何者か」



 胸に手を当て、目を瞑って劇を演じるように鈴鳴りの声で歌い聞かす。

 くるりとひらりと足を運び、アルシェは役に入りきる。



「勇者様勇者様。隣国がドラゴンに滅ぼされました。それは真か! ええい悪しきドラゴンめ! 私が成敗してくれよう!」



 虚空に剣を描くように、アルシェその拳を握る。

 演じ分けなのか声の高低が都度変わり、彼女の美しい容姿も相まってまるで劇場にいるかのようにも錯覚する。



「小さく愚かな人の子よ。生け贄にでもなりにきたか? 大きく尊大な竜よ! 私はお前を討ちにきた!」



 握った拳を振って剣を、腕を前に出して盾を表現する。

 剣を振り、剣を振り、盾を構えるもその膝は地面に着く。



「勇敢で愚かな人の子よ。我を討つにはお前一人では弱すぎる。 臆病で尊大な竜よ。私は一人などではありはしない」



 アルシェは握っていた拳を解くと、弓を構えるポーズをする。

 次に両手で重そうな物を持ち上げるポーズ。

 前傾姿勢で猫が威嚇するようなポーズ。

 推察するに、エルフ、ドワーフ、獣人……ビーストだろうか。



「勇者は旅で出会った人々の動きや武器を使ってドラゴンと対峙します。太陽と月が2度入れ替わるまで続いた戦いの末、立っていたのは勇者でしたとさ」



 またもくるりひらりと舞い動き、アルシェは最初のように胸に手を当てて物語を締め括る。

 よくある英雄譚。


 大人が寝る前の子供に聞かせるような、幼心に勇者への憧れを抱く物語。

 水平に片手を上げ、空いた手を胸元に持ってくる丁寧な礼をするアルシェに、クロイツは拍手を贈る。

 ドラゴンを倒す。


 ただそれだけで周囲からは英雄とされ、そんな話が御伽噺になる程にあの生物は強い。

 鱗一枚は百の兵士、目の一つは国と等価とはよく言ったものだ。



「実際のドラゴンと戦った事はないけども、世界に伝わってるイメージはだいたい今のお話みたいな感じよ」


「流石に鱗一枚に兵士百人は言い過ぎだと思うがな」



 ふと大戦時代のクリスベリルを思い浮かべる。

 彼女相手では兵士百人などあってないような物だ。そして、そのクリスベリルがドラゴンと対峙しては勝てない……ような感じに話していた。


 ならば、百の兵士と鱗一枚は本当に等価なのではないだろうか。

 いや、やめよう。

 あまりに異種バトルがすぎる。



 ――失礼な事を考えておいでではありませんか?


「気のせいだろう」



 クリスベリルにだけ聞こえるよう、小声で呟く。

 しかしながら、薄々分かっていた事だが捜索の為になりそうな情報は何も無かった。


 グラースの人脈を頼りにしつつ、脚で探す他なさそうだ。

 不意に聞こえた扉のノブが回される音に、クロイツとアルシェの二人がそちらへ顔を向けた。



「賑やかだね。何の話してたの?」



 眼鏡を掛けた長身の男が部屋に入ってくる。

 ギルドマスターのルクスだ。



「女の子二人の部屋に入るのにノックもしないなんて、着替えてたりしたらどうするのよ」


「あー、それはごめん。でもそこの苦虫噛み潰したような顔をしてるクロイツが、女の子と一緒にお着替えはしないと思ってね」


「元からこんな顔だ」


 ――失礼でなくて!?



 いつも少しくたびれたような顔をしているルクスは悪怯れる様子もなく。

 ついでに言ってしまえば話していた内容にもあまり興味がなさそうだ。そもそも、彼の方から来たのだから用件があるのはルクスの方だろう。


 大方、話の途中だと悪いからと気を使ったと言った所か。

 アルシェが茶化すのをやめ、クロイツもその視線をルクスに向ける。

 二人の様子を一通り確認した後、ゆっくりと口を開く。



「さて、そっちの話題が一段落しているなら、ちょっと大事な話をさせてもらおうかな」



        ◆

 


 大理石の床を歩くのは白い甲冑姿の男。

 金属のぶつかる音と、その足甲が床を叩く音が静かで荘厳な雰囲気の室内に響く。


 歩幅は常に一定で、柱でも入っているのかと思うように背筋は伸びている。

 がたいの良い体つきをしており、正面を見つめる金の瞳は光を吸い込むように落ち着き払っていた。


 その視線の先には、麗美な金の髪をまるで女性のように伸ばす一人の青年が玉座の手摺に頬杖を突くような形で座っている。



「此度の御即位。誠におめでとうございます。レーヴェフリード王」


「前王、我が父の崩御に伴う即位だ。それに祝言とは。そなたは面白い男だな……エメリス」



 レーヴェフリードと呼ばれた青年は薄ぼんやりと光っているようにも見える淡い緑色の瞳を細め、口角を僅かに吊り上げる。


 笑っている……のだろうか。

 白騎士ことエメリスにはこの男が内で考えている事が分からない。



「私に前王の暗殺を命じたのは貴方でしょうに」


「如何にも」



 さも当然だろうと言わんばかりの語調で帰ってくる。

 レーヴェフリードは王位継承権一位の王子だった。

 前王の突然の崩御は内部事情に明るい者ならば即座に暗殺と気付くだろう。それどころか、誰が指示したかまで薄々理解しているはずだ。


 そうでなくては困る。


 聡明な王位継承権第三の王女ルナリアは保身の為か早々に継承権を破棄。

 第二位だったもう一人の王子は行方不明となっている。

 必然、レーヴェフリードが玉座に座ることとなった。


 誰の差し金で王が暗殺されたかは分かる。

 だが、それを糾弾する材料はない。

 まして相手は王子だ。

 下手に声を上げたならば、あっさりと処刑台に送られる事となるだろう。

 そして、逆らうならば同じ様にして消される恐怖も付いて回る。


 王権を握りながらも尻尾を掴ませる事で反乱分子を黙らせる。

 庇護を受けて育った王子とは思えない謀略家の才を、レーヴェフリードはここへ来て実父と自国へ遺憾無く発揮した。



「私を罰しますか? 王の命とはいえ貴方様の実父を手に掛けた罪、首を出さねば購えますまい」


「そこまでの暴君と思われていたのであれば、余はその事でそなたを罰したい所ではあるな」



 あの感情の伴わない絵に描いたような笑みはそのままに、相変わらずの様子でレーヴェフリードは続ける。

 広い玉座の間には、しかし二人以外の何者もいない。


 仮に何者かに話を聞かれていたとして、眼前の王は慌てもしないだろう。

 淡々と抹殺の命を下すはずだ。



「案ずるな。そなたを余は罰せぬ。それは余の右腕を落とすも同じこと故な」



 エメリスは彼の王の前に膝を突く。

 頭を下げ、目を伏せた。

 己の命を尊重してくれたからではない。


 確固たる信念。


 己の物も他人の物もあらゆる罪をすら呑込み、その時代に最も必要とされる手を打つ。

 大義の為に悪を敷く王。

 己が主にその気質を再度見たような気がした。



「して、エメリス」


「はっ!」


「以前話していたクリスティア……否、クリスベリルが所属する組織に、エルフの生残りが加入したとの事であったが……手を打て」


「直ちに」



 白騎士は立ち上り踵を返す。

 扉が閉まり、レーヴェフリードは玉座に背を預けて息を吐く。

 口許には小さな笑みを浮かべたまま、ただ暗い部屋で一人、楽しそうに目を細めるのだった。



        ◆



 ルクスの執務室にはかつてない程の緊張が張り詰めていた。

 銀色の甲冑と兜の騎士が4人。

 それぞれ二人ずつが出入口の扉と窓の横に陣取り、誰も部屋から出られないように見張っている。


 クロイツはいつもの外套とフードを被ったまま壁に背を預け、アルシェはその隣で緊張した様子のまま背筋を伸ばして固まっていた。

 執務室中央のテーブルを挟んで、二人の人物が座っている。


 片方はルクス。

 もう片方は銀色の金属部と赤い布部のドレスアーマーを纏った女性だ。

 襟足程度までの長さで切り揃えられた吸い込まれそうな黒い髪が目を引く。

 赤熱した鉄の様に鮮やかな橙色の瞳は眼前のルクスをしっかりと見据えている。



「で、お話とは何かな」


「単刀直入に言います。そちらの方を引き渡していただきたいのです」



 赤い騎士は外套の人物に視線を向ける。

 深く被ったフードのせいで顔色はうかがえないが、視線には気付いたのか小さく肩が動いた。



「念のため確認するけども、エルフの彼女ではないんだよね」


「はい」


 声色鋭く赤い騎士は返答した。

 言葉使いは丁寧だが、その語気には反論の一切を許さないという意思を感じられる。

 安堵したのか、小さく溜め息を吐くアルシェの様子がなんとも場違いで和む。



「理由を聞いてもいいかな?」


「我々の国、ネレグレス王国は先日前王の崩御に伴い新しい王が即位なされました。御方の名はレーヴェフリード様。新王は世界の恒久平和を志し、我々の上に立たれています」


「…………うん。なら、なんで復興支援ギルドの貴重な人員……中でも特に戦力となる彼女を奪おうとするのかな」


「まさにおっしゃられた通り、戦力となるからです」



 凛然と。

 赤の騎士は視線をルクスに戻し、崩れてもいない姿勢を今一度正す。

 アルシェを迎えた日に穏やかな風が吹き込んでいた部屋と同じ空間であることが信じられないほどに空気が重く、そして苦しい。


 出入口を塞ぐ騎士たちは一言も発する事はなく、姿勢が崩れる様子もない。

 兜に覆われた顔では視線も分からないが、その顔の向きは虚空を眺めているかのようだ。

 剣を預けるとはよく言ったものだ。


 あらゆる思考を破棄し、指示を出されたならばそれが如何な物でも剣を振るう。

 悪い事ではない。

 むしろ、何者かの下に就くのならばこれ以上無いほどに正解だろう。



「貴殿方グラース……戦後復興支援ギルドの貢献は我々の耳にも入っています」


「それは嬉しいね」


「ただ、問題なのはそこのエルフ」


「私!?」



 緊張していた所へ急に話題を振られたアルシェが裏返った声を上げる。

 同時に、初めて騎士たちが顔をアルシェへと向けた。

 が、すぐにまた正面に向き直る。



「僕たちは戦後復興支援ギルドだ。あの大戦で被害を受けた者を援助し、可能な限り元の状態へと戻す……同胞と住む場所を失った彼女を保護する事はその活動方針からすれば何も間違っていないはずだよ」


「保護までならば問題は無かったのです」



 アルシェはつい先日正式にグラースの構成員となった。

 赤い騎士が言うには、それこそが問題なのだそうだ。



「グラースはあのクリスベリルを所属させている。公にはなっていませんが、ネレグレス王国はその旨を聞いています」


「うん。確かに、互いの信頼の為にも僕はそれを伝えていたし、その話は間違いじゃない」


「魂を削がれて力の八割を失ったとは言え、クリスベリルは国一つと戦える個人……それを抱えた組織に、人間によって滅ぼされたエルフが加入したのですよ?」



 橙色の瞳がアルシェへ向けられる。

 銀のエルフは眉間に皺を寄せて半目で何か言いたそうに、しかし話に水を差す事はせず口をつぐんでいた。

 赤い騎士が視線をルクスの方へと戻す。



「そのエルフは人間への復讐を画策していたとして不自然ではありません。いえ、むしろ人間の中で暮らしている方が我々は信じられない」


「なるほどね。段々と君達の言いたい事が分かってきたよ」



 クリスベリルはかつて個人で軍と渡り合った人物だ。

 彼女は魂……力の八割を失ったとされているが、その理由はクリスベリルが魔法の扱いに長けていた事に起因する。


 剣の扱いでも達人と渡り合える程ではあるのだが、達人程度ならば軍で抑え込める。

 問題は、そのクリスベリルの体を支配している来訪者が存在すること。


 魔法の代わりにスキルが扱えるのならば、クリスベリルは実質的に全盛期の力を持っている。

 ……と、ネレグレスの連中は思っているのだろう。

 そしてそんな中で、彼女を抱えるグラースに叛意を持っていると思われるアルシェが参入した。



「極めて少数の人員で軍を相手取れる組織が、エルフに唆されて国に反旗を翻す事を懸念していると」


「理解が早くて助かります。その為、貴殿方から叛意、あるいは戦力のどちらかを剥奪したいのです」


「言わせておけばぁ……」


「暴れてくれるなよアルシェ。本当にお前が国家転覆を狙っていると思われたら色々と面倒だ」


「分かってるわよ」



 小声で話す二人だが、クロイツに諭されてアルシェは口を尖らせながらも暴れだしたりはしていない。


 ルクスは顔にこそ出さないが、内心で苦笑する。

 相変わらず元気な子だと。



「そちらのエルフは庇護を受けるべき立場であることは我々も理解しております。ですので、大罪人の身柄を我々が預かる形で矛を納めようと言うのです」



 あくまで対等であるような言い方だが、こちら側に選択肢などありはしない。

 逃げ出すことを出来ないように出入口を塞ぎ、断るならば反逆者として処断しようという腹積もりだろう。


 クロイツならば切り抜けられるやもしれないが、アルシェはともかくルクスは間違いなく拘束される。

 彼が居なくなったグラースならば、国が情報操作であっさりとその力を奪える筈だ。


 クリスベリルやその身体を使っているクロイツ、エルフであるアルシェではこう言った組織を潰すたの搦め手には恐らく対処できない。



「……………………」


「アンタ……」



 アルシェがフードに隠れた顔を不安そうに覗き込む。

 ルクスは口元に手を当てて暫し思考を巡らせる。


 自分達の圧倒的な優位を理解しているからなのか、赤い騎士ここへ来て初めて背もたれに体を預けた。

 表情にこそ出ていないが、思い描いた通りに話が進んでいるのだから楽しくないはずがない。



「クロイツ……」


「…………仕方ない……か」


「え、嘘……嘘よねルクス!?」



 今まで聞いたこともないようなルクスの静かな声。

 名前を呼ばれただけで全てを察したクロイツは、一歩前に出た。

 黒い籠手に覆われた左手を、すがるようにアルシェが掴む。



「どうした?」


「帰ってくるのよね……」



 クロイツは辺りを見渡す。

 不安そうな顔をしたアルシェ、内心のうかがえないルクス。赤い騎士と甲冑に身を包んだ無機質な騎士。


 再びアルシェに視線を落とすと、クロイツは口元に小さな笑みを浮かべ、彼女の耳元に顔を寄せて小さく何かを呟いた。



「では、この者の身柄は預からせていただきます」



 出入口を塞いでいた騎士達がクロイツを取り囲み、別れの挨拶もできないまま部屋を後にした。

 扉が閉まり、部屋に残されたアルシェとルクスは大きく溜め息を吐く。



「……ここからが大事だね」


「ええ、クリスベリルが作ってくれた時間だものね」



 執務机の最下段の引き出しから、ルクスは黒い籠手を取り出すと、それをアルシェに渡した。

 彼女が左手にそれを装着すると、左目が銀から緑に……そして十字模様がその中に浮かび上がる。



「クリスベリルと俺があちらの手に渡れば成す術無しだが、どちらかだけでも残るなら手はある……か。しかし、これからどうするつもりだ?」



 アルシェ……否。

 クロイツは楽しそうにルクスへ問い掛けた。



「まず、前提として今回僕達がすべきことを明確にしておこう」


「俺達は今、こないだ即位した新王とやら……まあ十中八九レーヴェフリードだろうが。それに目をつけられたって所だな」



 クロイツはかつて国の軍に所属していた。

 いや、正確に言うのならば国の所有物として扱われていた。

 彼自信の人格は確かにあるが、その実は依り代無くしては行動もできなき籠手でしかなく、前王はクロイツを物として扱っていた次第だ。


 不満が無かった訳ではないが、逆の立場ならばきっとクロイツ自身もソレを人とは見れなかった事だろう。

 依り代さえあるならば彼の戦闘能力は尋常ではなく、国宝……とまでは行かないものの、非常に重宝されていた。

 そんな彼だからこそ、王家の人間の顔と名前も知っている。



「第一王子レーヴェフリード……」



 ルクスが呟き、視線を伏せる。

 クロイツが知りうる限り、彼の王子はあらゆる方面に才能豊かな人物だ。


 剣は騎士団長仕込みであり、戦略家としては軍師ですら意見を求める。王子でなかったならば、おそらくクリスベリルの討伐にすら駆り出されていた事だろう。

 もっとも、流石にクリスベリルが相手では戦いになるかは怪しい所であるが。



「グラースの保有戦力が自分達で抑え込める範囲を超えかねない事を危惧したみたいだね」


「そこへ来てこいつが正式にグラースへ加入」


 ――ちょっとぉ!


「あ、いや、すまん」



 胸を軽く叩いた所で頭の中に苦情が入った。

 流石にデリカシーが無かったか。


 クリスベリル……女性の体での生活が長いせいですっかり感覚が麻痺していた。

 他人の体に触れるのは気にするのだが、自分の体になっているとつい頭から抜けてしまう。



「ティア……じゃあアルシェ君には伝わらないか。クリスベリルとクロイツが二人して向こうの手に落ちたとしたら確かに僕達には騎士団に抗う術はなかった」


「お前が持ってきた俺のダミーとクリスベリルの演技のおかげで俺はこうして無事にここに居るわけだが……」


「君が居るならばティア……じゃなくてクリスベリルの……」


 ――言いにくいならティアでいいわよって伝えてもらえる?


「ティアで良いとさ」


「あ、そう? うん、じゃあティアの救出もできるはずだ」



 銀のエルフ、クロイツは目を閉じて思案する。

 先程ここに来ていた女騎士。

 引き出しの中にいたせいで姿は見てないものの、あの声に聞き覚えがない。

 クロイツが国を離れた後に入った者だろう。


 騎士団長がエメリスのままであるのならば戦力予測も立つが、あの女が不確定要素となる。



「ただ、ティアを助けただけだと本格的に僕達はただの反逆者だ。どうにかして王にグラースがこれまで通りであることを認めさせないといけない」


「…………ちょっと私に任せてもらえないかしら。王様とやらと話をしてみたいわ」



 喋ったのはクロイツではない。

 彼に体を貸すアルシェが静かに……それでいて毅然とした態度でそこに立っている。

 ルクスは返事もせずアルシェの右目を見詰める。


 普段のルクスの柔和な表情を浮かべている様子を知っているのならば、今の彼を恐ろしいとすら感じるかもしれない。

 自分の目の前にいる人物がルクスである事を疑いたくすらなる。


 どれ程そうしていただろうか。


 とても長かった気もするし、ほんの刹那だった気もする。

 ふと小さく息を吐いて、ルクスはいつもの少し困ったような笑みを浮かべた。



「本当は僕が話をしに行こうかと思ったんだけどね……いや、これは君の為にもその方が良い」


「ねぇルクス……アンタって何者なの?」


「僕はこのグラース……戦後復興支援ギルドのマスター。知っている事だろう?」



 何かを言おうとしたアルシェだったが、不意に目を一度閉じさせられた後、クロイツに主導権を奪われた。



「レーヴェフリードとの話が終わったら話してやる」


 ――……我慢しておいてあげるわ……。



 渋々といった様子だが、今は時間があまりない事を理解しているらしい。

 アルシェの声が聞こえなくなったのを確認すると、クロイツはルクスに視線を送った。

 彼は小さく頷くと話を続ける。



「でも突発的に王に謁見はできないし、ましてやエルフじゃあ門前払いだろうね」


「強行突破か」


「うん。ティアと合流すれば騎士団が相手でも正面から乗り込めるはずだ」


「なら、この後俺はクリスベリルの救出に――」


「いや」



 事を飲み込んだと言った様子のクロイツを、ルクスが短い言葉で止めた。

 流石のクロイツも面食らったらしい。


 普段の彼らしからぬ表情――まあ、アルシェはよく浮かべる表情だが――を浮かべていた。

 窓を軽く開き、重かった空気を外へ逃がす。



「多分、今回の僕達の行動は読まれていると思う。レーヴェフリード王はそういう人だ。だから、ティアは助けに行かない」


「お前! 何を!」


 ――落ち着いてクロイツ!



 掴み掛からんと前に乗り出したクロイツを、アルシェが止める。

 窓から入る風が銀の髪を撫でた。

 風はアルシェを好いているのか、あるいはその逆なのか。彼女の体であるクロイツは、上った血が下がっていくのを感じた。


 冷静さを欠くのは彼には珍しい。

 と、彼の本質を知らない者ならば言うのかもしれない。

 だがアルシェもルクスも、クロイツが声を荒立てる事に驚きはしなかった。

 不器用なだけなのだ。


 お人好しなのに、自分を他人に上手く伝えられない男。

 それがクロイツという人物だ。



「君達は明日、正面から城へ突入してもらう。ティアの奪還を見越して戦力の多くをあちらへ割いているはずだ」


「ならクリスベリルはどうする」


「彼女には、日の出を合図に自力で脱出するように伝えてあるよ」



 思わず引きつった笑みが浮かんでしまう。

 ルクスもルクスだし、それを承諾したクリスベリルも大概だ。

 無茶苦茶な作戦を立てる。

 いや、こんなもの作戦ですらない。



「僕はこの後、万が一の暗殺に備えて安全な場所……流石にそこなら潜伏がバレない当てがあるから、そこに向かう」


「俺とアルシェは明日の朝に正面から突入だな」


「うん。危険だけど、頼めるかい?」


「当たり前でしょ? それより、私がしくじったらの方を心配したらどう?」



 アルシェの言葉に、ルクスが盛大に笑う。

 眼鏡の奥でその緑色の瞳を輝かせて、彼は言うのだ。



「その時は僕が反逆の指揮者として処刑台に登るだけだけだね。でも大丈夫。君ならやれるよ」



 状況は圧倒的に不利。

 絶望的に戦力差がある。

 それでも、柔らかく笑う彼を見ているだけで何故だか思うのだ。

 自分達の勝利は、きっと揺るがないと。



         ◆



 暗い牢を鉄格子から射し込む月明りが薄ぼんやりと照らす。

 冷たい石作りの壁と鉄格子に囲まれた独房の中、似つかわしくない美しい女性が座っている。


 白い肌は月明り受けて一層儚さを増し、金糸のような長い黄金の髪は吹き込む風を受けて柔らかく揺れる。

 彼女、クリスベリルは囚われの身でありながらも普段の余裕を僅かにも崩さず冷たい壁に背を預けていた。



「獄吏の姿がありませんわね」



 鉄格子を挟んだ向こう側には短くなった蝋燭が照らす机が置いてある。

 本来ならそこに獄吏が座り、囚人の様子を逐一見ているのだろう。

 しかし今はそこに人は居らず、机の上にはクリスベリルより外された黒い籠手が置いてあるばかりだ。


 クロイツの本体。

 ではなく、それを極めて高い精度で模造した品である。


 何処からか国王の思惑を知ったルクスが用意した物だが、その完成度たるや普段からクロイツに体を貸しているクリスベリルですら間違えそうな程。

 さぞ腕の良い鍛冶屋が作った事だろう。



「人の気配が一つしかしませんし、これは……」



 獄吏どころか囚人の気配すらしない。

 クリスベリルが脱獄を企てた際に被害を抑える為だろう。

 かつて、各国の軍を無差別に襲撃していた頃に、ネレグレスの騎士団が彼女の討伐に動いた。


 その際、軍の兵士は全て退却させ、撤退戦を視野に入れた最低限の人員を引き連れたクロイツが彼女の前に立ちはだかった。

 有象無象では被害が増えるばかり。

 極めて強力な個人をぶつける事こそ最大の対策だったと、後にクロイツから聞かされたのをよく覚えている。


 当時より騎士団の長であったエメリスがいまだ現役ならば、この采配にも納得がいく。

 クリスベリルに対しては人海戦術は愚策でしかないのだ。



「わたくしが力を失った今でも、当時と同じ方法を取るとは……エメリスらしいですわ」



 国の所持する国軍とは別に存在する王の私兵が王国騎士団だ。

 大戦時代、少数精鋭の騎士達は各地で軍の指揮を執るのが主な仕事だった。

 所謂、指揮官の集まりが騎士団と思っても良いだろう。


 集団のまとめ役、さらにそれをまとめていたのが騎士団長エメリスという男。

 高い実力に裏打ちされたカリスマに心酔する者は多く、無謀とも思える作戦でも彼の指示ならばと動く者は多かったと聞く。


 あの男が相手となれば、さてこちらの動向はどの程度まで予期されているのやら。



「嵐の前の静けさ……と言うのでしたっけ?」



 見慣れた黒い籠手が左手には無い。

 傷もない白く細い手を月明りに翳す。

 いつもは覆われて守られているクリスベリルの手が逆光で影を作った。


 ああ、やはりこの手は黒い方が美しい。

 青い宝玉のような両目を恍惚気味に細め、柔らかそうな唇から悩ましげな息を小さく吐く。



「クロイツ様……」



 恋慕ではなく、甘い殺意が混ざった破滅願望を叶えてくれる想い人の名を思わず口にする。

 崩れるように、しかしゆっくりと手を下ろした彼女は、しばし微睡みへ意識を手放した。



         ◆



 とある貴族の家に少女が暮らしていた。

 青い瞳と黄金の川のような金の髪。幼い頃からその美しさの片鱗を覗かせていた。


 両親は彼女をよく叱り、よく褒め、持ちうる愛情を注いで育てていた。

 少女も両親の愛をしっかりと受け止め、よく学び、よく笑って暮らしていた。


 少女の名前はクリスティア。

 女性でありながら正義感が強く、騎士を目指して剣と魔法の稽古には特に精を出した。

 それが後の悲劇に繋がろうとは。

 彼女の才は非凡を通り越して異常な物だった。



「ティア、お前は私たちの誇りだ」



 たったの数ヵ月で指示していた現役の騎士を下し、魔法の扱いも教えることが無くなってしまうような、化け物じみたクリスティアにも両親は誇りであると頭を撫でる。


 誰も友達にはなってくれなくて、皆が怖いものを見るような目で彼女を避けても、クリスティアには両親の優しさだけで十分だった。

 彼女は賢い子だ。


 才ある者への劣等感、実感はできずともその気持ちは理解できる。

 ならば、自分のこの扱いも仕方の無い物だと割り切れた。

 何よりもそんな化け物でも愛してくれる人がいた。



「懐かしい夢ですわね」



 白い光の中、顔も思い出せない両親に頭を撫でられるクリスティアを、クリスベリルは遠巻きに眺めている。



「あ、悪魔!」



 突如聞こえた声に振り返ると、成長したクリスティアがそこに居た。

 齢十五くらいの頃だろうか。ドレスに身を包み、顔を両手で覆って泣いている。


 姿も見えない何者かが、クリスティアは悪魔だと言葉を浴びせていた。

 蔑まれても、才能を妬む者に心無い声を浴びせられても凛然としていたクリスティアだが、その心はいつも泣いていた。


 何故。

 わたくしはただ人々を守る騎士になりたかっただけなのに。



「ベリアル! お前は悪魔ベリアルだ!」



 クリスティアという美しい名前で呼んでくれる者は両親しか居なくなっていた。

 来訪者の世界では、異教の神に悪魔の名前を当てて蔑み呼ぶ事がある。


 そんな話を何処からか聞いた何者かが、向こうの世界の名前で彼女呼んだ。

 いつしかその呼び名は広まり、周りは彼女をクリスベリアルと呼ぶようになった。



「…………ああ、もうすぐですわね」



 クリスベリルは知っている。

 この後にクリスティアに起きる事を。

 変えようのない過去の悲劇は、白い光の中で繰り返される。

 額縁の絵画を眺めるように、再び振り返った彼女の前には何者かに殺された両親の亡き骸が転がっていた。


 金切声のような悲鳴を上げながら、クリスティアがその遺骸を泣き抱える。

 それを見るクリスベリルの表情は変わらない。

 悲しむでもなく、怒るでもなく、ただ諦めたような笑みを口許に浮かべて遠い目で眺めるばかり。



「わたくしを悪魔と呼びましたわね……お父様とお母様を、悪魔の親として殺したのですね」



 クリスティアは悔しそうに唇を噛み、そこから血が滴る。

 正義感から騎士を目指した少女が死んだのは、確かこの時だ。

 クリスティアは泣き腫らした目に憎悪と狂気を孕ませて両親の下を去った。


 これより数年、世界各地の戦場で黄金色の悪魔の話が語られるようになる。

 かつてクリスティアと呼ばれた少女はその名を捨て、伝わる内にクリスベリアルと言う名前が変化したクリスベリルと呼ばれる事となる。


 お前達が望んだ悪魔はここにいる。


 お前達が作った悪魔はそこにいる。


 悪魔は、クリスベリルはここに――。



        ◆



 黒い服に身を包んだ銀のエルフが魔動二輪車に跨がる。

 闇夜を照らしていた月が沈み始め、黒かった空が藍色に変わり始めていた。

 右手に小さく風を纏わせれば、車輪が回転を始める。


 左に浮かぶ十字模様の瞳はいまだ暗い道をハッキリと視認する。

 スタンドを蹴り外し、クロイツを乗せたマシンは走り出した。



「クリスベリルの体の時よりも風が気持ちいいな」


 ――エルフは森と風と生きる種族だからよ。



 冬が近づいている冷たいはずの夜風なのに、体が冷えるような感覚を覚えない。

 それどころか、いつもは速度を出せば風圧に押されながら走っていたのに今はそれすら感じない。


 あくまでも心地よい風が頬を撫でる程度の感覚だ。

 しかし、髪が靡く感覚はある。

 エルフの体は不思議なものだ。



「お前がこいつを気に入った理由がわかる」


 ――だったらたまに貸してよ。


「クリスベリルが俺を貸してくれたらな!」


 ――それは難しそうねぇ……。



 背丈の低い草が並ぶ道に通る轍をなぞるようにマシンを走らせる。

 小さな木や復興街の外壁を脇に見ながら、ただただ王都へ向かって行く。


 鳥の声が聞こえ始めた事を思えば、夜明けはもう近いらしい。

 時間帯が時間帯なだけに、すれ違う馬車は少ないが皆無でもない。

 時折現れる馬車を的確に捉え、大回りに回避して進んで行く。



 ――ねえクロイツ。


「何だ?」



 頭の中で聞こえるアルシェの声に呟くように答える。

 今は自分の体ではあるが、普段の彼女ならきっと少し目を伏せた真面目な顔をしてる時の声だろうか。


 本当はこんな事に巻き込まず、平和に暮らさせるつもりだったのが予期せず長い付き合いになってしまった。

 もっとも、森番であったアルシェには、せめて弓を使う生活の方が幸せなのかもしれないが。



 ――ルクスがクリスベリルの事をティアって呼んでたけど、あれはどういう事?


「ああ、アレか」



 前方への注意は怠らず、クロイツはアルシェにクリスベリルの生い立ちを話す。

 かつて彼女の名前はクリスティアであった事。


 心無い人々によって悪魔の名前で呼ばれた事。

 唯一味方であった両親を失い、自ら悪魔を名乗るようになった事。

 話している最中のアルシェはとても静かだった。



 ――酷い話ね……報われなさすぎるわ。


「人間は愚かな生き物だからな。同じ種だと言うのに、僅かな差異も認められずに潰し合う。あいつはまさに、その被害者だ」


 ――ルクスはそれを知ってて、昔の名前で呼んでるのね。


「あいつは優しいからな。今のクリスベリルがああして穏やかなのは、きっとあいつの影響も大きいんだろうな」


 ――じゃあ、アンタは?



 ルクスはクリスベリルの生い立ちを知り、人であった……人として呼ばれていた名前で彼女を呼ぶ。


 ではクロイツはどうか?


 長く体を借りるクロイツも、クリスベリルの生い立ちはこうして知っている。

 にも関わらず、彼は彼女を悪魔の名前で呼んでいる。



「…………」


 ――答えてクロイツ。アンタは、あの人……クリスティアを化け物だと思っているの?


「ああ……俺は、そう思っている」


 ――ふふ、アンタって口下手よね。嫌われそうな事平気で言って、肝心な部分は恥ずかしがって言わないんだから。


 どうやらアルシェはお見通しらしい。



「……敵わないな。俺も化け物だからだよ。あいつが人に戻れるまで、一人にしないでやろうって思ってたんだ」



 クリスベリルを化け物だと思っている事は間違いなく事実だ。

 ただ、それは不器用なクロイツなりの気遣いだった。


 ルクスがどんなに彼女を人として扱おうと、クリスティアの名前で呼ぼうとも彼女自身はまだ自分をクリスベリルだと思っている。


 自分で自分を悪魔だと……化け物だと名乗るのならば、きっとそれは人に戻りきれていないのだろう。

 ならば、同じ化け物である自分がせめて一緒にいてやる。


 自分の正体も本当の名前も思い出せない不器用なお人好しが、名前も正体も捨てた化け物に寄り添うために取った手段だった。

 アルシェはそれ以降は何も言わなかった。


 目的地の王都も近付き、いよいよ軽口も叩いていられなくなってきたと言う所か。

 ただ、誰も居ないはずの背中には、優しい顔で目を瞑る銀のエルフが背を預けているような、そんな感覚だけがいつまでもあるのだった。



         ◆



 苦もなく鉄格子をひしゃげ、クリスベリルは悠々と独房を出る。

 机の上に置いてある黒い籠手を左に装着し、愛しそうにそれを撫でる。

 クロイツではないが、やはりこの左手は黒い方が落ち着く。


 辺りを見回し、武器になりそうな物が無いかを探したが流石に見当たらない。

 人員を減らしたのには、彼女にそういったものが渡らないようにする意図もあったのかもしれない。



「まあ良いですわ。早々にこの息苦しい場所から出ると致しましょう」



 鉄扉をノブから引き千切るように抉じ開け、廊下に出る。

 日が出始めた時間帯だけに格子窓から射し込む光で幾分は明るい。


 急ぐでもなく、そして足音を殺すでもなく、まるでドレスの披露をするような悠々とした歩調で廊下を進む。

 もっとも、今の服装はドレスとは程遠い、いつものヘソ出しと長ズボンのいで立ちだが。



「静かですわね」



 靴が床を叩く音が石の廊下に響いている。

 気配で予測こそしていたが、本当に物音一つしない。

 一体ここは何処なのか。


 まともに運営されている牢ではない事だけは確かだ。

 まさか、自分の為にこんな場所まで用意していたとは。

 感心を通り越して呆れてしまう。



「あら……エメリスが待っているかと思ったのに」



 廊下の先に赤い鎧の女が腕を組んで佇んでいるのが見えた。

 グラースからクリスベリルを連行した時の女騎士だ。


 彼女が知る限り、騎士団の中でクリスベリルの相手ができそうな者は団長のエメリスくらいだったはずだが。

 となれば、あの女騎士は彼女の追放後に入団したということか。



「無駄だとは思いますが警告します。大人しく引き返してください」


「お生憎、申されました通りわたくし、待合せがありますの」


「では予定通り強行手段を行使させてもらいます」



 廊下の先に居たから気付かなかったが、女騎士の左右には目を疑うサイズの大剣が二振り突き刺さっていた。


 それぞれが片刃の剣であり、彼女はそれを合わせて一本の巨大剣を作り上げる。

 刀身だけで使い手自身の身の丈程もあるような巨大な鉄の塊に、柄だけを申し訳程度に取り付けた物を剣と呼ぶのには些か抵抗があるが。


 クリスベリルの顔にも思わず苦笑いが浮かぶ。

 なるほど、この無人の牢獄を用意していたのは自分の為ではなくこの女の為だったのかと理解した。



「ネレグレス王国騎士団副団長、赤騎士カルメリア。参ります」



 巨大な鉄塊のような剣を、をまるで棒切れでも持つかのようにあっさりと持ち上げてカルメリアと名乗った赤い騎士が駆ける。

 この狭所で振るうにはあまりに巨大なそれは、まともに考えるのならば壁や天井に阻まれて扱えないはずだ。


 が、カルメリアは違う。


 まるで紙でも裂くかのように天井をぶち破りながら、ソレを縦に降り下ろしたのだ。

 クリスベリルは慌てる様子もなく、後方へ跳んで回避した。

 土煙なのか埃なのか、白い靄の中には既に二撃目を放たんと振りかぶる影が見える。



「これは……ちょっと楽しくなってきてしまいましたわ!」



 二度目の縦振りをバック転のようにかわすと、そのまま逆立ちの姿勢で腕の力だけで前方の宙へ跳ぶ。


 本来なら天井が邪魔をするが、たった今の二連撃で破壊されている。

 クリスベリルは空中で体を捻り正面へ向き直る。



「逃がしません」


「!?」



 静かに、しかしよく通る美しい声が耳元で聞こえた。

 カルメリアの整った顔がクリスベリルの目の前に現れる。

 どうやら振り下ろした際の反動を利用して彼女も宙へ跳んでいたらしい。



「綺麗な顔してますわね。好みですわよ?」


「ありがとうございます」



 淡々と受け答えながら、逃げ場のない空中で巨大剣をクリスベリルに叩き付ける。

 両手をクロスして防御したものの、凄まじい衝撃と共に床を3枚ほど突き抜けて階下へ叩き落とされた。


 倒れることこそしなかったが、地面にクレーターを作り衝撃が分散されて尚も足と腕が痺れる。



「まともな人間なら死んでますわよ」


「まともな人間では無さそうなのでまだ行きますよ」



 頭上、剣の切っ先を向けたカルメリアが降ってきた。

 対しクリスベリルは頭上に弧を描くように回し蹴りを放ち、剣の峰を勢いよく叩く。


 重厚な鉄の塊でできた剣の表面が軽く凹むほどの強烈な一撃は、切っ先をクリスベリルからずらすには十分な威力だった。

 クリスベリルの真横、カルメリアが地面に突き刺さった剣をゆっくりと引抜く。



「これがエメリス団長の言っていた本物ですか」


「うっふふ……」



 艶かしく唇を舐める。

 体が熱くてならない。

 楽しい。


 クロイツやエメリスの他にここまで楽しめる相手に出会えたのが嬉しくてならないのだ。

 疲労からではない悩ましげな吐息が漏れる。


 ああ、熱い。

 熱い。



「申し訳ありませんクロイツ様……少々合流が遅れてしまいそうですわ」



 後ろ髪を両手で掻き上げると、そのまま両手を地面に向けるように垂らす。

 それぞれの手は何かを握るように柔らかく拳が作られ、その足は踵を土踏まずに合わせるように揃えられている。


 クリスベリルの量肘から黄金の稲妻が迸り始め、それが両手に伝播すると地面へ向けて雷の剣が形成された。



「参ります」



 地面を蹴り、黄金の光が残線となるような速度でカルメリアへと近付く。

 カルメリアは剣を二つに分け、右の剣を振り抜いた。

 クリスベリルは横へ跳躍し、壁を蹴って横凪ぎの剣の上を飛び越える。


 宙にいるクリスベリルへ向かって、カルメリアは左の剣を無理矢理上体を捻って縦に振り下ろした。

 だが、先に振った剣の先を小さく蹴り、クリスベリルは二撃目をも回避する。


 両手の雷剣をカルメリアへと振り抜くが、彼女は右の剣を逆手に握り直し、力任せに叩き付けた。



「がっ!」


「手応えあり……です!」



 鉄塊によって地面に叩き付けられたクリスベリルに、カルメリアはもう一方の剣も振り下ろす。

 地響きを伴う打撃音が連続で響く。

 カルメリア自身も巻き上がる砂煙によってクリスベリルが見えないが、不乱に両手の鉄塊を振り下ろし続ける。



「!?」



 突如下ろした剣が上げられなくなり、カルメリアの顔に驚愕の表情が浮かぶ。

 何撃入れたのか。


 人間ならば死んでいるどころか、まともな生物であれば挽き肉となっているような重量剣による攻撃の応酬の中、クリスベリルは事も無げに立ち上がってきたのだ。


 額からは血を流しているが、それ以外に傷らしい傷が見えない。

 彼女は口元を心底楽しそうに歪めながら、しかし呆れたような目でカルメリアを見る。



「まったく、常識の範囲で動いてくださる?」

「常識の範囲で生きてください」



 剣を掴み止めたクリスベリルを確認したカルメリアは、両の剣を大きく振って彼女を投げ飛ばす。

 再び剣を合わせ、巨大な剣を作ったカルメリアは大きく踏み込みながら縦に振り下ろした。


 逐一大振りな攻撃なのに、それを思わせない程に軽々と武器を振るうせいで全く隙らしい隙が見られない。

 超重量の巨大剣の一撃は、華奢なカルメリアでは自身も振り回される。

 しかし、宙に投げ出された彼女はその動作のまま腕力で剣を地面から抜き、次の攻撃に繋げる。


 一撃目を起点に二撃目を。二撃目を起点に三撃目。

 重量に振り回される体を次撃への布石にする。

 武器の大きさに似合わぬ連撃の応酬を、しかしクリスベリルは細かな足捌きで細かく避けていく。



「そぅら!」



 横振りの一撃を踵落としで地面に伏せ、雷剣を投擲する。

 黄金の光は線を描き、まっすぐにカルメリアの肩を貫いた。



「ぐぅ……あああああ!!」



 カルメリアの悲鳴が上がるが、即座に剣を握って電気の逃げ道を作る。

 彼女は倒れない。

 左の肩から煙が上がるが、カルメリアはそれでも両手で剣を振るおうと鉄塊を分けて握る。



「まだ……まだ負けはしません!」


「うふふ……良いですわねカルメリアさん。わたくし、貴女を好きになれそうですわ」


「ゾッとしませんね」



 まるで廃墟のようになった石造りの部屋の中、赤い騎士と黄金の悪魔は睨み合う。

 二人が同時に地面を蹴り、幾度目かの衝突が起きる。

 静寂など既に無い。

 暴風の如き二人はただ力を振るうのみだ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る