第2話 穏やかな時と雷光
窓から見える星空が広い。
思えば、木の葉が映り込まない空をゆっくりと見るのは初めてではないだろうか。
かつての森番アルシェは、現在人間の経営する宿に泊まっている。
二段ベッドと簡素なテーブルがあるだけの小さな部屋。
備え付けの浴室やトイレなどはなく、それらは廊下の先にある共用の物を使わなくてはならない。
二段ベッドの上から窓を眺め、手を翳して目を細めた。
すでに丸一日経つと言うのにまだ引き金の感覚が残っている。
震える手をもう片方の震える手で押さえ込み、胸元へと抱え込む。
「カッコつけたのに……ダメね……」
銃という武器が怖い。
弓の弦と比べてあんなにも軽い引き金を引くだけで、簡単に命を奪えるあの武器が。
奪う力は容易に与えられるべきではない。
森番となるために弓を修行していた幼い頃、師にそう教えられた。
あの人は銃を知っていたのだろうか?
いや、そんなはずはない。
なにせこの世界に銃がもたらされたのは大戦の少し前。アルシェが森番となってしばらく経ってからのはずだ。
正確な資料があった訳ではないが、宿へ来るまでの道中で同行者とそんな話をした。
夢に囚われていたアルシェを無理矢理連れ出した銃使いの来訪者。名前はクロイツ。
当初男だと思っていたのに、その実は抜群のスタイルを誇る金髪の美女だったのには驚いた。
彼女の話では、銃という武器が仮に世界にもたらされたとしたならば、それが広がり戦争に使われるまで大した時間を要さない筈とのこと。
あれは素人でも殺しができる武器であり、製産する土台さえ出来上がってしまえば流行り病よりも早く広まる。
なにせ、扱う人間は素人でもいいのだから。
配備された戦場で一本でも持ち去られたのならば国を上げてその仕組みを研究するだろう。
二つ、あるいは三つ……いや、複数の国がそれの技術を持ったとしたら何が起こるか。
必然、火薬と鉱石資源を確保するための戦争だ。
他を出し抜くために多くの銃を作り、弾を作り、あらゆる人間が戦場で驚異となる国家を作ろうとするだろう。
侵略が目的でなくとも防衛の為に武器が要る。
素人同然の義勇兵も、これさえあれば戦力となる。
国の意思とは関係なく、泥沼化した戦火は世界全土へ広がり、やがて全てが疲弊するまでこれが繰り返された。
これが、クロイツが想像する大戦の全貌だという。
「なんでアイツ……そんな事平気で喋れるのよ……」
アルシェはその話を聞いている最中、不安と恐怖で押し潰されそうだった。
エルフは他種族との交流を可能な限り断ってきた種族だ。
不法な侵入者へ容赦はしないが争いは好まず、領土を広める事にも興味はなかった。
それ故に、大戦について詳しく考えることはせず、漠然とそれに巻き込まれてしまったのかもしれない。
人間は愚かだ。
平穏に、小さな幸福に甘んじる事では満足できない。
もし彼らにそれができていたのならばあるいは……。
無意味な想像ばかりが頭を過る。
そんな折、下の段から物音がした。
「クロイツ?」
身を乗り出して見てみればそこにクロイツの姿はなく、いつもの外套が畳んで置いてある。
そういえば目立つのを嫌っていた事を思い出す。とある場所では有名だとも。
ともなれば、人の多い時間帯を避けて入浴に行ったのかもしれない。
何というか、あいつの顔を見せたがらないのは徹底している。
森の外を知らないアルシェにこそ顔を見せてくれたが、もしかしたら凄い事だった気がしてきた。
とは言え、なにも裸の付き合いがしたいわけでもなし、追って浴場に行くのはやめて寝ることにしよう。
「あら?」
ふとあるものが目に留まる。
畳んだ外套の横、暗くて気付かなかったが黒い籠手が置いてあった。
軽快な身のこなしでベッドの上段から飛び降りたアルシェだが、着地した時に音は鳴らなかった。
「そういえばアイツ、いっつもこれ着けてる左手でスキルとか使ってたわね」
青白い光を手に集め、銃や弾を作り出すクロイツの姿を思い出す。
金の装飾が入った黒い外套から伸ばされるこの籠手は、端から見ればまるで銃口のようだった。
そこでアルシェは理解した。
初めて会ったとき、本能的にクロイツに苦手意識を抱いていた理由を。
「そっか……アイツ、銃そっくりだったものね」
銃を自在に扱うスキルを持った来訪者にして、その装いまで銃そっくりだった。
黒い外套から伸びるこれまた黒い腕、そして革のズボン。
まさに、あの森を終わらせる時に握ったリボルバー銃そのものだ。
「ふふっ、まさか私がそんなヤツと一緒に居るなんてね……自分に言っても信じられそうにないわ」
そんな事を呟きながら、徐に籠手を取る。
金属なのは間違いないはずだが、まるで重さを感じない不思議な手応えだ。
外したばかりなのか、ほんのりと熱を持っている。
尖った指先の加工は見事な仕上がりで猛禽類か、あるいは本で見たことがあるだけだがドラゴンのそれを思わせるような形状だ。
色もあって禍々しく、アルシェにとっては銃を彷彿とさせる物の筈なのに何故だ嫌悪を抱けない。
と言うか格好いい。
「…………ちょ、ちょっとくらい良いわよね……」
誰も居るはずもないと言うのに周囲を二三度見回して、アルシェは籠手にゆっくりと手を通した。
「え? あ……ぐっ……ぁ……!!」
刹那、強烈な頭痛に襲われて膝をつく。
助けを呼ぼうにも声が出ない。
籠手を着けたまま頭を押え、アルシェは倒れるように意識を手放すのだった。
◆
金髪の女性が廊下を歩く。
ほんのりと湿った頭には柔らかいタオルが被せられている。
ヘソの出る袖無しシャツと革のズボン、高い背丈もあって昼間の町を歩けば何人もの目を惹くほどには美人である。
頭から被ったタオルと廊下が暗いせいで顔はしっかりとは見えないが、その青い右目が時折隙間から覗いていた。
女性は宿泊している部屋の扉を開け、中に入る。
「……………………」
中に入れば、同室の少女がベッドに腰掛けて座っていた。
元森番のアルシェ。
長い耳から分かるように、エルフの生残りだ。
美しい銀の髪を持ち、喜怒哀楽を表情に出しやすい彼女だが、今は具合が悪そうに白い顔で頭を抱えている。
「…………ふふっ随分可愛らしい姿になられましたねクロイツ様」
女性がタオルを取ると、右目と同様に青く美しい瞳が現れる。
一方、クロイツと呼ばれたアルシェが不機嫌そうに顔を上げれば、その左目は緑色に変わり、十字の模様……クロスアイズが浮かび上がっていた。
「からかうなクリスベリル。このバカ、まさか俺を着けるなんて……」
アルシェ……もとい、クロイツが左手の黒い籠手をクリスベリルと呼ばれた金髪の女性に見せる。
クリスベリルは口元を指で隠しながらクスクスと笑い、クロイツの隣に腰を下ろす。
「外されてはいかがです?」
「ダメだ。アルシェの奴、とことん俺……というか、銃と相性が悪いみたいでな。拒絶反応で魂が昏倒しちまって、主導権を渡せないせいで離れられやしない」
左手の感覚を確かめるように、クロイツはそれを握っては開くのを繰り返している。
間違いなくアルシェの声なのに、普段の彼女とは声色が違いすぎて違和感を覚える。
それは、クロイツが普段使っている体のクリスベリルも同様か。
同じ体だというのに、クロイツが使っている時に比べてあまりにも淑やかで
、何処か艶っぽい。
初対面でアルシェはクロイツを男性だと判断していた。
それは間違いではない。
クロイツの本体はこの黒い籠手。
ある来訪者の人格と能力が封じ込められた……あるいは、来訪者が姿を変えてしまった物。
クロイツとしての人格は男性の物で間違いない。
それ故に、クリスベリルの体を使っている時も仕草は男性の物であり、彼女の長身と外套のせいで性別を看破するのは困難となっている。
「お前、大丈夫なのか?」
「わたくしの心配をしてくださるのですか?」
顔を向けず、視線だけはクリスベリルへと遣る。
物憂げな表情でクリスベリルは微笑んでいた。
「万全からはほど遠いですけれど、こうしているくらいでしたならば問題ございません。わたくしを一人で湯浴みさせているのですからご存知でしょう? それとも……」
服の擦れる音を鳴らし、クロイツの肩に手を這わせる。
ゆっくりと、それでいて滑らかに顔を耳元に寄せると、彼女は囁くように言う。
「貴方は早くわたくしと戦いたいのかしら?」
全身の毛が逆立つような錯覚。
色っぽい仕草や声にではなく、クリスベリルから発せられた殺気にだ。
宝玉のような青い瞳に銀のエルフとなったクロイツを捉え、我慢できないと言わんばかりに舌で唇を湿らす。
クロイツはそんなクリスベリルを放って立ち上り、そそくさとベッドの上段へ登ってしまう。
「ああ、無視しないでくださいませ」
「お前の戯れ言には無言が正解って身をもって学んだからな。アルシェが意識を取り戻すまで大人しくしていろよ」
そう言ってクロイツは毛布を被って横になる。
アルシェの魂が目覚めたとして、体が疲弊していては元も子もない。
任意の離脱すらできない状況は流石に初ではあるが、明日の日が暮れる頃には目が覚めるだろう。
「あのー……」
「何だ」
「添い寝とか……」
「近寄るな!」
◆
結果から言うのならば、一晩経ってもアルシェは目覚めていない。
顔を洗う時、鏡に写るのは見慣れぬ顔。
長い耳の他に、透き通るような白い肌も日差しを遮る木々が生い茂る森で暮らしてきたエルフらしい特徴だ。
美しい銀の髪と同じく銀の瞳を持つアルシェだが、その左側の瞳だけは十字の模様を刻まれた緑の光を湛えている。
クロイツが体の主導権を握っている証だ。
冷水で目を覚ました後、彼は宿の外へ出る。
扉の隣、壁に背を預けるように黒と金の外套を着た長身の女がクロイツを待っていた。
クリスベリル。
普段クロイツに身体を貸している人物だが、顔が知れている為にこうして外套とフードで正体を隠している。
物腰柔らかで、名家の出身を思わせるような言葉を使う女性だが、若干危ない発言をする節がある。
「殿方に待たされるのでしたら文句の一つも言いたいですけれど、美少女ならいくら待たされてもいいですわね」
ちなみに本人曰く三刀流とのこと。何についてかは聞かなかったが。
まあ、聞いてもないのに喋っていた気もするが、聞いてないから知らない。
「さて、では本日はどういたしますの?」
「朝食を何処かで済ませた後、アルシェ用の弓を調達する予定だった。手に馴染む物を選ばせるつもりだったが……」
「……それは無理ですわね」
クリスベリルが苦笑しているのが声音で分かった。
クロイツが体の主導権を握っている場合、身体能力は宿主に依存する事になるのだが、流石に戦闘技術までは引き出せない。
クロイツに備わっているスキルはあくまでも銃を扱う為の物であり、クロスアイズは多少応用できるかも知れないが基本的には弓とは無縁だ。
まして、アルシェは長年森番として弓を扱ってきたその道のプロ。細かな手の馴染みまで気にする可能性は多いにある。
「ではどうしますの?」
「本来なら複合弓を用意してやりたかったが、今回は単弓を買うことにする。大きさの割に射程も威力も劣るが、部品が少ない分だけ追加工が容易で後から調整もしやすいだろうからな」
「素人意見にしてはよく考えられているかと。わたくしも素人ですし、至る結論も大方同様。異論もありませんわ」
言葉選びにこそ刺はあるが、声から貶すような様子は窺えない。
変にぼかすのではなく純粋に評価した言葉と捉えてよさそうだ。
クリスベリルが背中を預けていた壁から離れる。
その様子を見てクロイツも街道に体を向けて歩き出す。
「なにはともあれ朝食ですわ。自分の体で味わうのも久方振りですもの」
「分かっているとは思うが、この件が済んだら体の主導権は渡して貰うぞ」
「ええ、構いませんわ。そういう契約ですもの」
笑っていたクリスベリルの目が僅かに開き、その視線がクロイツの本体、黒い籠手に向けられる。
それに気付き、足を止めて振り返る。
無言のまま不機嫌そうな半目を向ければ、彼女は苦笑いのまま両手を振る。
そんなこんなを繰り返し、小さな酒場へと足を踏み入れた。
煌々と火を湛える中央の暖炉が目を引く以外に特筆する物はなく、木の香りがなんとも居心地の良い店だ。
元の世界の知識を有するクロイツからすれば馴染みの無かった事だが、こちらの世界では水の代わりに酒を飲む。
全ての人間がという訳ではなく、主に当てはまるのは各地を渡る冒険者や行商人……言ってしまえば、1つの土地に留まらない者か。
酒の種類も様々だが、一番多いのは葡萄酒。
非常に安価で取引され、まさに水の代わりだ。
では何故水を飲まないのか。
答えは単純、生の水は体に合わないと体調を崩しやすいからだ。
その土地の井戸水を幼い頃から飲んでいたのならば、体は自然とそれに適応するが、離れた土地の物になるとそうもいかない。
身体には知らずの内に旅の疲れが溜まっている。環境の違う水を与えると存外にあっさりと体を壊す。
つまるところ、生の水でさえなければ良いのだが、果実を絞ったもの……所謂ジュースは腐りやすい。その反面、酒は劣化が遅く保存しやすい。
また、葡萄は自身で勝手に発酵するため、酒造にかかるコストも抑えられるのも利点の一つだろう。
こんな事情から各国で終戦後、真っ先に葡萄農園の整備が行われ、今尚広大な土地がこれにあてられている。
「パンとチーズに干し肉、それに蒸留した水で薄めた葡萄酒。ここの街では養鶏も行われているらしいから、目玉焼までセットなのは嬉しいな」
「黒麦の焼きパンを見る限り、卵以外は保存の効く物が主ですわね」
「ああ、俺の世界がこれくらいの時代の頃には香辛料や塩は目が飛び出るほど高価だった訳だが、こういう所は文化の違いが見れて面白いな」
臭み消しにスパイスを効かせた干し肉をかじる。
塩漬けにされていたらしく、味気ないパンや薄い酒と合わせて食べれば非常に美味い。
目玉焼はしっかり火を通してあり完熟。白身の底についた焦げ目の食感は主に柔らかい物ばかりの中には良いアクセントだ。
「こういう質素な朝食は旅先の醍醐味ですわ」
「俺が食ってるのだとやっぱり味気ないのか?」
「そんな事はありませんけども、やっぱり自分で体を動かしてと言うのは違いますわ」
小声でこそあるが、その声色はどこか嬉しそうだ。
黒い外套の周りに花が咲いているようにも見える。
改めて考えれば普段の自分とのギャップが酷く、つい笑みが漏れた。
「あら、クロイツ様。顔が真っ赤になってますわよ?」
「……あ?」
確かに、先程から顔が熱い。
思えば今はアルシェの身体だった。
いつもの……クリスベリルの身体と同じ感覚で飲んだのが……いや、それにしても弱すぎる。
薄めた葡萄酒をまだ一杯も飲んでいないのだが。
「嘘だろ」
「アルシェちゃん……そんなにお酒に弱いのね」
考えてみればエルフは森に定住する種族だ。
まして、森番だったアルシェならばそこの水以外を飲んだことがなくとも不思議ではない。
すっかり失念していた。
「これは一刻も早くギルドのある町まで送ってやらないといけないな」
「優しいのですね」
「……他人に寄生しないと動けない化け物でも、心だけは人間でいたいだけだ」
伏し目がちに小さく呟く。
聞こえたのか聞こえてないのか、クリスベリルはどこか楽しそうに見えた。
流石に相席していればローブの下の表情も見える。
常に口許が柔らかく微笑んでいて、その素性を知る者からすれば信じられない程の違和感を感じるはずだ。
雷光のクリスベリル。
大戦時代、各地の戦場に神出鬼没に現れては敵も味方もなく甚大な被害をもたらした戦闘狂だ。
美しい金の髪を靡かせながら、その体に返り血の1つも浴びずに剣を振るったとされる。
その逸話と、彼女が得意とするのが雷の魔法だった事から噂は一人歩きを始め、実体が無いから返り血も浴びない、クリスベリルは人の形をした雷、等という話が広まった。
当時兵士だった者の中には彼女の顔を知る者も多く、外套を外せない理由となっている。
さて、その噂の真偽はどうか?
結論から言えば実体が無いという点以外は殆どが真実だ。
クロイツが彼女と出会ったのも戦場のど真ん中だった。
来訪者はこの世界の常識を遥かに超える力を持つ。
クリスベリルの存在を危ぶんだ各国が、たった一人を討つためだけに来訪者と軍隊と派遣したのだ。
当時は別の男性の肉体を使っていたクロイツは、来訪者でもない女性に苦戦するなんて思ってもいなかった。
ほんの数刻でそんな考えは改められる事になったのだが。
「どうかいたしました? お皿が減ってませんわよ?」
クリスはこちらの視線に気付いたらしい。
「すまんがミルクをもらってきてくれないか。朝の内なら新鮮な物が置いてあるだろう」
「ああ、これは気が回りませんでしたわ。少々お待ちくださいませ」
口許を隠す為の布を上げ、ゆっくりとした足取りでカウンターへと向かう。
後ろ姿を見送るアルシェ……いや、クロイツは眠そうに目を細める。
考えてみれば昨晩アルシェがクロイツを身に付けた騒動も夜遅かった。
クリスベリルと違い、まともな身体能力の体ならば眠くなっても然るべきか。
まして、少量の酒ですらこの様相だ。
「お待たせいたしましたわ」
「助かる」
置かれた木製のジョッキを煽れば、体の熱が冷めるような感覚と共に喉が潤されてゆく。
喉を鳴らしながら、ほんのりと甘いミルクを一息に飲み干した。
「っはぁ……! アルシェには次からこれだな」
「夜はどうしますの?」
「酒飲ませてさっさと寝かす」
「清々しいほど投げ遣りで安心しますわね」
あくまでも長距離の移動が伴う場合の話だが。
ギルドにアルシェを預けたら、クロイツとの関係もそこで終わりだ。
あとは彼女がどうするか決めて行かねばならない。
クロイツ同様にギルド所属の冒険者として働くのか。あるいはギルドの庇護の下に職を見付けて平穏に暮らして行くのか。
エルフは元来争いを好まない種族だと聞く。ならば、きっと彼女は牧場でも営むのが似合うのだろう。奇しくもあの夜に提案しようとした物と同じイメージがクロイツの脳裏に過る。
戦争も終わり、各国が復興へと歩み始めている今だからこそ、アルシェも火薬とは無縁の人生を歩み直せるだろう。
どうあっても戦火の臭いが付きまとうクロイツとは無縁の人生だが、悪くないと思える。
「美味かった」
両の手を合わせる。
クリスベリルは既に食べ終わっていたらしく、クロイツの様子を見て立ち上がった。
お代の先払いはこういう時に楽で良い。
テーブルを立ったそのままの足で店を出れば、冷たい朝の空気が酒で火照った頬を冷ましてくれる。
欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをして、クロイツは街道を見遣る。
ふと、クロスアイズを向けた遠方の空に何かを見つけた。
「どうされました?」
「あれは……ドラゴン?」
魔物の中でも特に危険で稀少とされるドラゴン。
この世界でもお伽噺に登場するような存在であり、人間がそれを目にする事は非常に稀だ。
主な生息域は不明とされ、何処かに居着いたはぐれドラゴンは時折甚大な被害をもたらす災害のようにすら扱われる。
こうなった場合に限り討伐対象とされるのだが、連中はとにかく強い。
他の魔物が有象無象に思えるような、同じ括りに入っていることに疑念を抱くような存在だ。
「何か?」
そういえばそんな人間が居たなと思って隣を見たらクリスベリルに低い声を掛けられた。
たった一個体を討つのに国や軍が動くというのならば、この女と大差ない。
何か間違っているような気がするが、クリスベリルにはその実績があり、何よりクロイツもそれに動員された経験から何も間違いでない事を思い知っている。
ドラゴンは種として優れているから分かるが、本当にこの女はどうなっているのやら。
「ドラゴンとお前ならどっちが強いのか気になってな」
「うーん……そうですわね……」
そんな事を本気で悩まれるのも怖い。
とは言え、流石にクリスベリルも人間か。
わたくしです等と即答されなくて安心した。
「五匹くらいが相手ならば楽しめるかと思いますわ」
違う。
この女が悩んでいたのは、何匹相手なら対等以上かだ。
そもそも一匹では相手にならないらしい。
「あ、あの、冗談ですわよ!? わたくし、そこまで人間やめてませんわよ!?」
「お前のその手の話は冗談に聞こえないんだよ!?」
「わたくし、魂の八割を削り落とされてますのよ?」
そう、現在のクリスベリルはその力の大半を削られた状態だ。
魔法の適性は魂に左右される。
来訪者が魔法を扱えない理由であり、今のクリスベリルが自在に魔法を操ることができない理由でもある。
驚異的な回復力を始めとする身体能力は健在だが、雷光とまで呼ばれた魔法は鳴りを潜めている。……はず。
「まあ、わたくしがどんなに力を取り戻したといたしましても、クロイツ様が首輪となられている限りは大人しくしてますわ」
「自分で提案しておいてあれだが、何時になるかも分からない約束を守り続けるつもりなんて、律儀なもんだな」
「ええ、国ひとつ相手に喧嘩をするよりも楽しめそうなのですもの」
とある契約。
クリスベリルはクロイツの依り代として身体を明け渡す。
その代わりクロイツはバラバラになった自分の肉体を探し、元の力を取り戻した際に彼女と戦うというもの。
戦場で暴れまわっていたクリスベリルを相手にした際、このままでは被害ばかりが増えると判断したクロイツが彼女に提案した物だ。
何よりも力ある者との戦いを渇望していたクリスベリルはまさかの快諾。
その場でクロイツはクリスベリルの肉体を奪い、最小限の被害に抑え込んだ。
当時の国王はこの功績を大きく評価したが、クリスベリルという女を一つの国の下に従えるという事は強大な兵器を抱えるに等しい事だ。
いくらクロイツがその身体を縛っていたとしても、他国には攻め込む理由として都合が良い。
そこで、クロイツ……いや、彼を通してクリスベリルが提案したのだ。
――わたくしの事がそんなに心配でしたら、いっそ魂を砕いて野に捨ててはいかがですか?
国王、大臣、クロイツ、騎士団長……その場にいたあらゆる人物が絶句した。
魂に干渉する邪法は確かにある。
大罪人への罰として、力を削ぎ落として晒し者にする為に行使されるそれは闇の魔法とも呼ばれている。
才に恵まれた戦士ならば、自身の力を失うことを何よりも怖れる物だ。
だが、クリスベリルはあえてそれを自分にやれと提案したのだ。
彼女が出した条件はただの一つ。
クロイツを側に付けること。
実質的にクロイツも国の下を離れる事になる提案だった。
「わたくし、感謝していますのよ?」
「感謝?」
「ええ、クリスベリルを捕らえたともなれば世界で英雄とも称えられた筈の貴方が、わたくしの我が儘に付き合って地位も安寧も無くして……それなのに、わたくしとの約束をまだ果たそうとしてくださっている」
「……それは違う。違うんだクリスベリル」
「違う?」
遠く見えたドラゴンと思われる影はもう見えない。
山の向こうへ飛び去ったのだろう。
幸い、あれを見た山の付近に物資や商人の流通網は無かったはずだ。
あれの討伐依頼に駆り出されない事を願うばかりだ。
遠く、それを眺めながらクロイツは小さな口でポツリと呟いた。
「俺はただ……人間に戻りたいだけなんだ」
◆
武器屋に入ろうとしたまさにその時だった。
「あれ!?」
銀のエルフが目を見開いて辺りを見渡す。
「私何してたっけ!?」
「あら? どうかされました?」
「クロイツ……? あっはは! 何そのお嬢様みたいな喋り方!」
どうやらアルシェが目を覚ましたらしい。
クロスアイズの浮かぶ左側が、心底うんざりした様子で半目になっている。
「おい、俺はここだバカ……え? 何これ、口が勝手に動くんだけど!? ややこしいから話してる最中に……やだ! しかも口調がクロイツそっくりじゃん……」
「あ、あのー……」
「何よクロイツ! 何だクリスベリル」
「クロイツ様は暫く黙っていてくださいな? アルシェちゃん」
「な、何よ……」
言われた通りクロイツは暫く口を閉じることにした。
アルシェは目の前のクリスベリルをいまだクロイツだと思っているらしく、普段と口調の違う彼女に戸惑いを隠せていない。
「こうして直接お話するのは初めてですわね。わたくし、クリスベリルと申します」
「え? な、何言ってるのよ……アンタ、クロイツよね……?」
「いいえ」
周囲に誰も居ないことを確認すると、クリスベリルはフードを少しだけ脱いでその目をアルシェに見せた。
宝玉のような青い両目。
クロイツを象徴するクロスアイズはそこに無く、アルシェは目を丸くする。
「じゃあアイツは何処に」
そそくさとフードを被り直したクリスベリルが、アルシェの左手を指差す。
黒い籠手に覆われた手が、やれやれと言わんばかりに振られていた。
焦った様子のアルシェはすぐ近くにあった窓ガラスに顔を写し込む。
そこには、左目にクロスアイズが浮かび上がった自分の顔があった。
「何これ……」
「ショックなのは分かりますけども――」
「かっこいい……」
「……………………」
クリスベリルが笑顔のまま固まった。
アルシェは窓から離れ、黒い籠手でクロスアイズを少しだけ隠しながら腰を捻り、若干顔を上に上げるようなポーズを決める。
ああ、この方アホなんですのね……と言わんばかりの顔をしているクリスベリルだったが、このままでは本題を切り出せないと思ったのか、変な意味で気まずかった沈黙を破る。
「えっとですね……クロイツ様の本体はその籠手でして、アルシェちゃんがそれを勝手に身に付けたせいで今、彼はあなたの中にいますのよ」
「そういう事だ。うええええ!? さっきから口が勝手に動くのってクロイツのせいだったの!?」
表情と口調の変化が大きくて面白い。
いや、笑い事ではないのだが。
「目が覚めたならさっさと外してくれ! え? あ、うん」
言われるがままにクロイツを外すと、クリスベリルがそっと左手の甲を差し出す。
彼女の顔と手と交互に見て、どうすれば良いのか分からない様子のアルシェにクリスベリルは優しく笑みを溢した。
「エンゲージリングという訳ではありませんが、着けていただけません?」
「あの……いいの?」
「何がでしょうか?」
「薄々気付いていたけど、クロイツって男でしょ? ようやく自由になったのに、またあいつに身体を使われちゃうなんて」
躊躇うアルシェの額に、クリスベリルは優しく口付けした。
「わたくし、あの方にでしたらどんなに汚されようとも気に致しませんわ」
「よ、よよよ!? いや、そうじゃなくて……って、私の身体を使ってたって事は……!?」
「大丈夫ですわ。その方、今はもう人の身体に情欲を抱くことができないのですもの」
「それって……」
「後は彼の口からお聞きになってくださいませ?」
耳まで真っ赤にするアルシェに、再度クリスベリルは左手を差し出した。
小さく頷いてアルシェはその手にクロイツを嵌めた。
「また機会があったらゆっくりお話しましょう? わたくし、アルシェちゃんの事好きになれそうだわ」
青かった左目の虹彩が緑に代わり、瞳孔が十字に広がってゆく。
虹彩の端まで届いた十字の動向に、今度は二本ずつそれに交わる線が入る。
黒い籠手に覆われた左手で顔の半分を抑え、数刻の後に手を退けた。
そこに、柔和な表情で頬笑むクリスベリルは居なかった。
あの夜、銀のエルフを森から連れ出した男が佇むばかり。
「その……迷惑掛けたわね」
クロイツは、ばつが悪そうに言うアルシェの頭に軽く手を置く。
「久々にクリスベリルと会話ができた。それで相殺だ」
クリスベリルの時とは違う、慣れない笑みを口元にだけ浮かべ、クロイツは武器屋の中へと入っていく。
先程の感覚を確認するように何度か自分の頭を触った後、アルシェも彼の後に続いたのだった。
◆
無事にアルシェの手に馴染む弓を買うことができ、二人は一度宿へと戻った。
出発は翌朝、この町から出る馬車へと乗る予定だ。
馬車の御者の他に、魔物の襲撃に備えた傭兵が乗るために定員は少ない。
長距離の移動に使う物は変わらないが、こういった場面にも文化の違いが現れている。
「アンタ、思ったより紳士なのね」
「そうでもないさ。俺も初めてこの身体になったときは酷く持て余したとも」
アルシェは椅子に、クロイツはベッドに腰掛ける。
室内故に外套を脱いだクロイツは、その長い金髪を指で弄くり回している。
大きく脚を開いたまま前屈みになって頬杖をついている様子は、確かに女性らしくはない。
「ただどうしても満たされなくてな……で、気付いたよ。……人間が獣に欲情できないように――」
「できる人もいるらしいわよ」
「人間が獣に欲情できないように、獣も人間では満たされないんだってな」
「できる人もいるらしいわよ」
無言で立ち上がって頭に手刀を下ろす。
「男が女の子に手を上げた!」
「どう見たらわたくしが男に見えるのかしらー」
「うっわ……うっわ……痛い! や、やめなさい! 暴力反対!」
真顔のまま棒読みでおほほほほほと笑い、ほのおとを発する度に手を下ろしてゆく。
左手でやらないのだけは優しさ。
一通りの後、再びクロイツはベッドに腰を下ろした。
「バカになったらどうするのよ……」
そんな事を涙目で訴えるアルシェを無視して、クロイツは口を開く。
どのみち手遅れだ。
「クリスベリルはどうだった?」
「いいにおいがした」
「ああ、こいつはアホなんだな」
頭を抱える。
大きく嘆息し、目の前のアホを見る。
銀の髪と銀の瞳、キメの細かな白い肌をした美しいエルフの少女は表情豊かに騒いでいる。
思わず気が抜ける。
同時に確信した。
こいつは、これで良かったのだと。
失ったものしか見てなかったこいつが、今ある世界を見ているのだから。
あの日、夜空に消えていったエルフ達に胸を張れる。
最後のエルフは、もう大丈夫だと。
「悪かった悪かった。じゃあ夜は少し良いものでも食おうか」
「マジ!?」
「ああ、とびきり美味いものをな」
クロイツは意地の悪い笑みを浮かべる。
昼間の酒場、さてどんな美味い酒を馳走してやろうかと。
たった二人の晩餐に想いを馳せ、穏やかな時は流れて行くのだった。
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