植木屋の矜持

 しゃがみこんで蛾の小さな体をじっと見つめたジロウは、そこにはもう命が宿っていないことを察した。


「カンユウ殿、ありがとうございました」


 両手を合わせて頭を垂れたジロウは、長い祈りの後に立ち上がった。


真名まなを呼んだ、か。名前にはそこまでの力があるんか。ということは…]


 彼は木の幹に手を当てた。


[みいちゃんの真名か? けど、どうやってそれを知る? 俺を連れてきてくれた猫らぁは、どこにおるんや?]


 そのままの姿勢で振り返ってみる。しばらくはそうしていたが、木から離した手を胸に当てた。


[俺にも今はメドウがおんねんな。仕組みはようわからんけど…魂みたいなもん? そもそも、ここには生きた人がおらん。ほんなら、ここにおる俺はなんや? 木に閉じ込められとぉみいちゃんはなんや? ん?]「あっ!!」


 ジロウは突然思い出して叫んだ。


[そもそも、みいちゃんは体を持っとらんがな! 体は俺の世界にあるんや。あっちや、俺があっちに戻る方法はないんか? 道士が…完全におらんようなって、召喚の術は解けんようんなった。うん、それはええ。俺はここでリヤンと生きてったらええ。それはそれとして、俺はみいちゃんの逆はでけへんのかい?]


 ジロウはぐるぐると歩き回りながら考えた。


[こっちに来るとき、みいちゃんは猫じゃらしを離さへんかった。せやから、俺の手の先はあっちに残ってもうた。なんでや? なんでやなんでやなんでや?]


 喉の奥で唸りながら、ジロウは地面を強く蹴りつけた。そうした右足の痛みに彼は更に唸った。


ったあー! 痛いんかい! 幻の世界は痛まんのんちゃうんかい! ここにおる俺はなんど!」


 半ばヤケを起こしたジロウの目が、木にできた糞塊の一つ、根元近くにある大きなものを偶然とらえた。樹皮がはがれかけ、相当傷んでいる。


[カンユウさんは、この木から魔石が取れたようなこと、言うとった]


 ジロウは木に近寄って、その糞塊に手をかけてみた。思ったより簡単に、樹皮ごとそれは崩れた。そしてその下から、もうすっかり見慣れた魔石が一つ、転がり出るのを見た。


[この魔石で猫を魔物化しとるんか。カンユウさんは魔石の出どころをずっと探っとったんやな。それに気づいた柳、そう、この柳の精霊か、精霊の取り憑いた女の霊かがカンユウさんを潰した。けど、糞塊が出来とるっちゅうことは、柳の木そのものが攻撃を受けとおっちゅうことや。蛾が巣食っとるんやもんな。蛾は柳に攻撃された人間の成れの果てか? 仕返しによって、更に悪行を重ねとんのか? そんなん極悪やん。そんなん、木ぃ倒れてまうだけやがな。こんな立派なお屋敷の庭木が枯れるん、見とぉないわ]


 ジロウは手に取った魔石に思わず涙をこぼした。


[あれ? あれ? 俺、なんで泣いてんねん。…カンリョウさんは泣いとったなあ。当たり前や。タマが…せやから他の世界に生まれ変わったんやがな。カンリョウさんの御大切には、何が入っとったんやろ? タマはあの人を恨んでへんかったな。あの人がタマのために泣いたん、わかっとったからやな]


 ぐしぐしと泣いて、魔石を握りしめた手で乱暴に顔を拭ったジロウは、頰にぽつんと水滴が触れたのを感じた。


[ん? 雨?]


 それはほんのおしるし程度だった。ジロウにも柳の木にも、蛾の体にも、わずかな雨粒の跡がついた。

 そして、落ち葉のような蛾は、ふわっと鱗粉のようなものを散らして消えた。


[ちょっとの雨で砕かれるって、どんだけぼろぼろやってん]


 もう一度手を合わせて拝んだジロウは、その粉状のものが空中に留まっているのを見て、思わず魔石を持たない方の手を伸ばした。

 次の瞬間、彼はあの墓地にいた。というか、紗を通しているかのような景色を見ていた。


[これは、あれやな。俺の方が半透明になっとんのやな]


 ジロウは飛ぶかのようにふわふわと、いつもの場所を目指した。数カ所ある寝ぐらの一つ、みいちゃんが居着いている場所へ。


「みいちゃん、みいちゃん、おるか?」


 墓石の間を探して歩くと、大きなキジトラの背中が見えた。


「みいちゃん」


 ジロウは小声になり、足音を立たない自分のことも忘れて、氷に乗っているかのようにそろそろと近づいた。


「みいちゃん、どうや? 準備できたか?」


 大きなキジトラは、ゆっくりと振り返った。しかし、その目はジロウを見てはいない。

〈にゃあおぅ〉と一声鳴いたみいちゃんは、ジロウの体をすり抜けてしまった。

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