もふもふもふ

 それは、現実の三毛猫だった。

 すっかり明けた空の下で見ると、鼻先や足先が桃色なのがよくわかる。

 三毛の子猫は、もう一度みゃあと鳴いた。


[うっ、うわあ…かわいい…破壊力抜群や…。あかん…。これはあかんやろ。現実の、ちゃんと体のある、猫や。子猫や!]


 ジロウはふらふらと二、三歩前に出た。


「待たせて悪かった」

「なっ?!」


 いきなり声がして、ジロウは大慌てで周囲を見回した。若々しい男の声だ。


『オオミカミさま。お目にかかれて恐悦至極にございます。早速ではございますが、かのもののところまで【猫つなぎ】をいたしたく。おっ?』


 足下から天鬼の声がして、何に驚いたのかと考えたジロウは、ぎゃっと叫んで飛び上がることになった。


「てっ、天鬼か?」


 そこには、一匹の獣がいた。まさに獣としか言いようがない。犬のように伏せった姿は、体長一メートルにはなるだろう。ふさふさと長い毛を持ち、うっすらと縞模様の入った金茶色。ぴんと立った耳が大きい。


『おお、人の目にも見えたようです。オオミカミさまのお力、溢れ出しているのですな』


 それに引き換え、井戸の上の子猫はジロウのてのひらほどの大きさ。それが、よたよたと立ち上がった。


「うん。もう力をふるえるようだ。どうだ、そこの人の子よ。覚悟はできているか?」

「えー、まさかとは思いますが、あなたさまがみいちゃんの言う老師で…?」[いや、おかしいやろ。俺、頭おかしなってんで!]


 ジロウは腰を屈めたまま、いっそ卑屈に手を擦り合わせた。


「いやあ、あやつも思ってもみなかったのだろうが、われにも色々と事情があってな。どうしても肉を脱ぎ捨てねばならず、このような姿に相成った。目が開くまでは身動きがとれず、待たせてしまったのだ」

『オオミカミさま! 人を待たせることなど砂粒にも及びません。ささ、ともかく参りましょ、いや!』


 立ち上がりかけた大猫は、しまったと言わんばかりの唸り声を発した。


『【猫つなぎ】には、あと一匹分足りません!』

「ああ、あやつの分か」

[あー、メドウがおったら、アニメの主人公声やって言うたやろなあ…]


 かなり切羽詰まった大猫の声は聞き流して、ジロウはぼんやりとそんなことを考えた。


「うん。今ならばもう一匹呼べそうだ」

『オオミカミさまのお知り合いを、呼んでくださるのですか?』

「やってみよう」


 子猫は四肢を踏ん張って、よろよろと震えた。ジロウは宙に両手を差し伸べて悶絶した。


[破壊力ぅー! ああっ、雄? 雄の三毛猫? うわぁ、えらいもんやあ!]


 そのとき、井戸の脇、子猫の目線の下の地面がぽうっと光り始めた。


[来たで来たで、また来たで!]

『お前、うるさい』


 大猫がぎろりと見上げてきたが、ジロウはそれに気付けなかった。光の中に闇が凝って見えたのに、すっかり目を奪われていたのだ。

 闇は、一匹の黒猫の姿を結んだ。


「あら、オオミカミ? ずいぶんとちっちゃくなったものね」


 黒猫は妙齢の女の声を発した。


[美男美女の声の取り合わせや…]

「良かった。呼べた」

「あなたの呼び出しなら、ちゃんと届くわよ」


 すらりとした黒猫は子猫を見上げる位置に座っていたので、ジロウはその後ろ姿を見つめた。


[ああ、なんちゅう綺麗な肩甲骨やぁ。輝くような毛艶、ほんまに綺麗な黒猫さんや]


 感情垂れ流しのジロウは、ゆっくりと振り返った黒猫の金色の瞳に物理的な攻撃を受けたかのように、胸を押さえた。


『こやつはうるそうございますが、あなたさまがお美しいことには、間違いございません』


 大猫が改めて平伏した。


「あらま、うふふ。で、この場に人間がいるということは、わたしたちでを使役するというわけね?」


 黒猫は、笑いを含んだ声で何やら騒動なことを言った。


「そうだ。われの弟子が敵方に捕らえられたのだ。とは言え、弟子もまた敵を追い詰めている。この世の猫たちに極悪非道の扱いをしている悪鬼を、この人の子に刈り取らせようぞ」

「はあっ?!」


 三匹の猫の視線を受けて、ジロウは間抜けな声を上げた。


「すみません。話が見えぬのですが」


 三匹が呆れたように首を振る。

 ジロウがまた胸を押さえたとき、目の前に風が吹いた。


『ジロウ、急ぎ知らせに来たぞ。メドウが暴れてかなわんので、盾と棍棒がやつを連れてここに来る』

「あっ、オカイコサンか」

「あら、ここでは盾やら棍棒やらが出歩けるの?」


 黒猫が、心底不思議そうに首を傾げた。途端にオカイコサンは上ずった声を発した。


『天鬼を超えるお方とお見受けいたします!』

「ええ、うん、そう。あなた、この人間の主人あるじ?」

『いいえ、違います。ちなみに、盾と棍棒は、人の名であります。ああっ、老師! ご挨拶が遅れまして申し訳ございません!』


 オカイコサンの慌て振りを気の毒に思っていたジロウは、そんなことをしている場合ではないのを思い出した。


「ジロウ殿、ご無事ですか?」


 盾の声がすぐ近くに聞こえ、彼は慌てふためいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る