名乗れぬ人
「ああ、坊っちゃま。掻いてはいけませんよ」
額をぽりぽりするメドウの手をそっと握り、トックは辺りを見回した。目指すものはすぐに見つかったらしく、さっと草を摘んで戻ってくる。
「ああっとぉ(ありがとう)」
メドウがお辞儀に見えなくもないぴょこたんとした動きを見せると、トックは喜ぶと共に恐れ入った顔つきになった。
「さすが、お嬢さまと旦那さまのお子だ。勇者さまを出すお家柄は有り難いもんだなぁ」
「ちょっと待ってくれ。勇者と言ったか?」
メドウがぱあっと顔を輝かせるのと同時に、ジロウは抱き上げるついでに口をふさいでやった。
[なんだよう]
[あかんて! おまえ、自分のことや思たろ!]
「もしや、旦那さま? 若さまの話を聞いてないんで?」
「若さま?」「あぁ、むおぅ」
口元の父の手を退けさせて、メドウはほうっと息をついた。幸い、トックは気づいていない。
「戦に出られたお兄さまのことです」
「何、リヤンに兄がいたのか?」
「ありゃ、そこのとこから聞いてないんで?」
あからさまに不審げな顔をしたトックは、しかし「異界のお方だもんなあ」と勝手に納得したらしかった。しかし、ジロウは難しい顔をしたままだ。
「一人娘だから、若い女の身で領地を預かっているのだと思っていたぞ。父上が、母上と共に長旅に出られているために」
「旦那さまと奥さまが旅に出られる前に、若さまは出征なさったんです。というか、若さまのための旅と聞いてます。いや、そこんとこはお嬢さまにきいてください」
口を開きかけたジロウを手で制して、トックは首を横に振った。一旦息を継いだジロウだったが、ややあって遠慮がちに尋ねた。
「その、もしや、兄上は戦で…?」
「いやいや、めっそうもない! 若さまはご無事に決まっってます! 勇者さまの話は今も伝わってきますんで!」
血相を変えて言い募るトックにジロウは、ははんと頷いた。
「勇者とは、兄上のことなのか」
「そうですとも! サーラム家からは、これまでに何人もの勇者さまが出てるんです! 何代かおきにお一人!」
[勇者の出現は被らないってことかよ。じゃ、俺は駄目じゃん]
メドウは人知れずがっかりした。
「ふむ。そんな兄上がおられるなら、戦もじきにかたがつくな。そうなればリヤンは分家でもするのだろうか」
「いや、たぶん、俺らにはわからないですが、リヤンさまがそのまま領地を治めるんじゃないですか?」
「え、なぜ?」
「才があるからです。みんなそう言ってます。だから、親戚連中が縁談にやっきになってたんです」
「そうなのか?」
「いけすかない親戚が、ろくでもない縁談を持ってくるたびに、お嬢さまがお気の毒で」
トックは思い出しても胸が痛むらしかったが、ぱあっと表情を明るくした。
「俺らはみんな、喜んでるんです。救世主さまがお嬢さまのみならず、皆を救ってくださるんなら」
「うん? ちょっと待て。救世主とは誰だ?」
「あの道士さまが、異界よりお招きしたのでしょう? 大丈夫です。お屋敷のもんは、口が裂けても喋りません」
「はあ? おい、まさか、われのことを言っているのではあるまいな?」
ジロウは、ただでさえ危なめな人相をより険しくして低い声を出したが、トックは全くもって動じなかった。
「今日も、道士さまはご機嫌でしたよ。まあ、ご機嫌だとかえって面倒臭い感じですね、あの方。だとしても、旦那さまが世の中を変えてくださるから、大船に乗ったつもりでいろって。ああ、いや、よその者には口が裂けても言いませんよ。旦那さまが異界からいらしたことも、お嬢さまと一緒になられたことも、坊っちゃまが生まれたことも、世の中をお救いになられることも! 絶対に言いませんとも!」
トックは小声でまくしたてたが、ジロウはがっくりと道端にしゃがみ込み、メドウはぽかんと口を開けていた。
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