確かなもの

「おや? そういえば、膝の上が空だ」


 ゆっくりと両手を動かし続けていたマイナムが、急にのけぞった。


「先ほどまでと何ら変わらんというのに、喪失感があるとは…どういうことだ?」


「あるのにない。ないのにある」[こういうのがメドウ問答なんじゃね?]

 小鼻を膨らませて、メドウがふんぞり返った。


「ん?」

「てへ」[いやあ、お坊さん目の前にして言うことじゃないけど]

「…その問答とは、寺に関わるものなのか?」

「うん、まあね」

「それはさておき…、師匠」


 マイナムに話を逸らされてがっかりするメドウであるが、誰も目を向けてくれなかった。


『あん?』

「タロウとはいかなるものか、われにはよく解りませんが、メドウに託してどうなさるのですか?」

みてもまだ、解らんのか?』

「はい?」

『幸せだ。人は幸せだと骨抜きになるであろう?』


 みいちゃんは自信たっぷりに断言したが、マイナムはわずかに眉をひそめた。


「そういうことも、まあ、ありますが」

『猫と幸せは分かちがたいものだと知らしめるのよ。猫は幸せを与える存在だということをな』


 マイナムは、控えめながら首を横に振った。


「いや、お言葉ですが。タロウは確かに猫と言えまするか?」

『おっ、否定するか? われの息子を?』


 みいちゃんがかっと目を見開く。

 マイナムは口元を引き締めて応じる。


「もちろん、異界では存在しているのでしょうが、この世においては霊と同じでは?」


「あー、れいっているんだ…みとめた…」


 呟いたメドウの頭にそっと手を置いて、ジロウは首を横に振ってみせた。


「そのタロウをして、これが人を喰らわぬ猫だと納得させられますか?」

『ん? そんな必要はないが』

「え?」


 緊張していたマイナムの表情が、ふっと緩んだ。


『タロウはタロウだ。言うなれば、預かる身のメドウだけが、タロウとはいかなるものかを知っておれば良いだろう』

「…申し訳ございません。われには、師匠の考えておられることが解りません」


 マイナムの顔の強張りがほどけ、さらに崩れて自嘲の表情になる。


『仕方がないな。幼子と赤子が相手なら、噛んで含めて伝えねばならんか』

[いやー。嚙んで含めるって言葉が、がしがし噛んでる的に聞こえるの、いやだわ]


 心の声が漏れたところをぎろりと睨めつけられて、思わずジロウにすがりつくメドウである。


『幼子と赤子よ、よく聞け』


 取り残されて寂しそうなジロウは相手にせず、みいちゃんは頭を低くして目を閉じた。


『北方との戦の元が何なのか、われは知らん。戦況についても全く知らん。ただ、猫を使って楽に勝とうと考えた愚か者がいることと、魔石に侵された猫がいること、もちろんそうではない猫もいることは知っておる。悪の根源たる人間を突き止めて、その行為を止めさせられれば、魔石持ちの猫はやがていなくなるだろう。しかし、野に放たれてしまった猫たちが、人間どもに恐れられ、忌避されることも、何とかせねばならんのだ。すでに猫という猫はすべて、人を見れば襲い、その肉を喰らうと信じられているのではないかな、どうだ?』

「はい、そうなっていると思います」


 マイナムは、気合いを入れ直した表情で応じる。


『だからこそ敵陣は、何度でも蘇り、人と深く関わり、意思の疎通ができるわれを、異界へと飛ばしたのだ。まあ、異界であれば二度と再び戻って来られぬと思ったのが、浅はかなところだがな。ジロウの暮らす世に飛ばしてくれたのは、神の深遠なるお導きによるものか、さてさて』

「…師匠は敵の見当がついておいでなのですか?」

『さあな。およそ、タイライの王宮内部の輩であろう。タイライは好戦的な国だ。領土を増やすことに夢中になるたちだ。自らの足で行けぬほど遠い土地を手に入れたがるとは、馬鹿な奴らではないか』

「確かに、そうです」

『それにしても、ジロウとの出会いが偶然ではなく導きだったのならば、われもこれからは神を拝まねばならんかの』


「ねこをふんづけるやつじゃないのを、な」


 父の腕にしがみついて、メドウがささっと口を挟んだ。


『もちろんだ。それにしても、あちらの世を知ることができたのは、実に良かったぞ。われを飛ばしたものも、それを知ればさぞや悔やむであろう。猫による大変革の真っ只中だったのだから』


「「えっ?!」」


 父と子は、目を見交わして首をひねった。

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