例のやつ
[ともかく! いぇーい! 猫が来た!]
「何を喜んでおるっ」
ぱあっと顔を輝かせたメドウを一喝して、マイナムは立ち上がった。
「そなたは、ここにじっとしていろ。猫は、扉を蹴破ることはできん」
部屋の扉は、リヤンの屋敷ほどの重厚なものではないが、それなりにしっかりとした木製だ。それに、外から引かなければ開かない。
「よいか。絶対に開けるなよ!」
マイナムはそう言って、慌ただしく飛び出して行った。
[取手に届かないっつーの]
一人取り残されたメドウは、部屋の中を見回した。
最初、布団の他には何もないと思われた。
しかし、乱雑にめくられた掛布の下に、何やらある。
猫の襲来についての情報がまったくないまま、気が揉めていたメドウは、とりあえず何かしていたかった。
そこで、掛布をめくってみると、薄汚れた風呂敷包があった。
いや、おそらく風呂敷とは呼ばれていないだろうが。
緩んだ結び目を引っ張ると、赤子の力でも解くことができた。
中には衣服や手拭いらしきもの。
「おおっと」
そして、その下に隠されていたのは鞘に収められた小刀。
[まさかなあ、これで眉は剃れないよな?]
重ねられた布類の端をめくりながら、続けて中身を改めていたメドウは「ん?」と声が出た。そして、迷わず引っ張り出した。
ピンク色の羽のついた猫じゃらしが、その手に握られていた。
父が召喚されたとき、手にあって消えたものとは、まず間違いなく猫じゃらしだろう。
彼にとって、猫じゃらしはとても大切なもので、だから作り直したのだろうか。
これは本人に尋ねてみるしかないと考えていたメドウの耳に、上の方でがたっと木の鳴る音が届いた。
「はあん?」
この世界にガラスはない。
窓というのは、いわば壁に開けられた四角い穴であって、この部屋のそれには押し上げ戸がついている。
壁の高い位置に開かれた窓から、ひらりと飛び込んで来たものがあった。
「ネッコ!」
メドウの口から、弾んだ声が自然とこぼれ出た。ただし、驚かさないように、音量を抑えることだけは忘れない。
「ネッコォ!」
鋭い牙を剥き出した口から、フーッ、シャァーッと鋭い声が響いた。
長い尻尾が、バタッバタッと音を立てて床を叩く。
普通サイズの家猫だ。
威嚇しながらも低い姿勢をとって、いつでも飛び掛かれるように構えているのは茶トラの成猫。
メドウは、自分が赤子の姿であることを忘れてしまっていた。
[くっそ、たまらーん!]
お日様のような匂い。
どこもかしこも、ふわふわ、ふにふにした柔らかな手触り。
みゃーあ、みぅーという天上の響き。
ぐるぐるという、幽けき癒しの音色。
奥ゆかしくざりっと舐める、濡れた舌。
ぴくぴく動く小さな鼻。
ぷるっと震える耳の複雑な迷宮。
それから、それから。
頭の中でなぞるだけで、メドウは胸が膨らんで、自分の体が浮き上がってしまうのではないかと思った。
ただし。
目の前の猫は、個々のパーツはメドウが賛美する通りなのに、神々しい要素を打ち消すものを持っていた。
その瞳。
[いやあ。人の二、三人も殺してラッシャイマスネ]
それでも、ふらふらと引き込まれるように近づきかけたら、手にしたままの猫じゃらしが動きにつれて揺れた。
猫の視線が動いて、メドウはそれを持っていたことを思い出した。
[ほーら、ほら]
思わずふりふりすると、猫の首が合わせて動いた。
[ん? ほら、ほら]
その瞳から殺気が削がれてゆく。
ぴたりと猫じゃらしに視線を合わせ、飛びつくタイミングを計っているようだが、困惑から興味へ、そして愉しそうな輝きまでもが加えられてゆく。
そのとき。
猫じゃらしの先から、光の粒子のような、煙のようなものが出た。
「あえ?」
それは、見る間に猫の形をとった。
目の前の茶トラと同じくらいの大きさだ。
びくっと震えて警戒していた茶トラの目つきが、蕩けた。ぐんにゃりとした背中を床に擦り付ける。
[おいおい。この
その時、マイナムが勢いよく飛び込んできた。
「あ」
「手を止めるな!」
彼を振り返って手の動きが止まりかけたメドウは、はっとした。
マイナムは両手を顔の前に掲げて、素早く印を結んだ。
猫がきょとんとした表情に変わり、針のようになっていた瞳孔がまん丸に開いてゆく。
「あっ、ああっ」
メドウは手を伸ばし、猫じゃらしを取り落とした。
殺人猫の顔が、愛らしい、全てを魅了する、癒しの、猫本来の顔に変化した。
そして、すっと消えると同時に、ことんとかすかな音がした。
猫がいたはずのところに、小さな石が落ちていた。
「魔石だ」
荒い息を吐きながら、マイナムが言う。
「それにしても、よくもまあ、ああまで賛美し続けられたものよ」
メドウは呆れる言葉を聞き流し、魔石を拾い上げた。
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