用心、用心
メドウは、母親であるところのリヤンのことを、まだよく知らない。
つい先ごろまで、ただひたすらに眠く、腹が減り、不愉快で、薄ぼんやりしていた。
感情も、頭の中でさえ言葉にするのが難しかった。
何かが足りない。何かが足りない。
怒涛のように押し寄せて来た【
何かを掴みたい。掴みたい。
現実の小さな手が握っていたのは、先ごろ世話係に決まったフェイの指だった。
「おや、坊っちゃま」
目覚めたては特に、南国のむっとした空気に包まれていることを感じる。
屋敷は風が通るように工夫されているし、日陰にもなっていて外よりもうんと快適なのだが。
メドウは、自分が握っていたフェイの指を口に入れ、あまつさえ、ちゅぱちゅぱしていることに気づいて、慌てて離した。
「おっぱいが欲しかったのでしょうかねえ。私の指で申し訳ありませんねえ」
そう言いながら抱き上げてくれた彼女は、リヤンが幼いころの世話係だったそうだ。
屋敷を下がって久しいが、リヤンのたっての頼みで田舎から出て来てくれたらしい。
そう聞くと年寄りのようだが、見た目はまだ十分に若い。メドウの感じからすると、四十代になるかならないかだろうか。
フェイが来てからは、リヤンは朝から日暮れまで、ことによると誰かと夕食も共にするため、遅くまで自室に帰らない日も多くなった。
行き先は執務室だったり屋敷の外だったりするようだから、仕事が忙しいのだろう。
しかし、メドウが仕事の内容を聞きたがっても、まだ早いと言って教えてはくれないのだ。
「あっち、あっち」
「ああ、おまるですね」
寝台から指をさすと、フェイが抱き上げて連れて行ってくれた。
香りの良い木屑を敷いた、専用のおまるである。
「お嬢さまの工夫は大したものですわ。木屑が飛び散りと臭いを防ぐとは。しかも、これを広めようとなさっているのですからね」
少し離れて見守っているフェイは、感心しきりのようだ。
「早く大きくなって、お母さまを手助けして差し上げなさいませね。わたくし、まだお嬢さまの旦那さまにもお目にかかっていないのですよ。大切なお仕事で遠くに行かれたとのことですが、何なのでしょうねえ」
「あった、ぶ、ぶー」
相槌を打ちかけて、メドウは慌ててごまかした。
リヤンと喋っているせいか、舌の動きも滑らかになりつつある。歯が生えそろうまでは大丈夫だろうと言われているが、うかつなことをしないよう、気をつけなければならない。
「終わりましたか。あらあら、ご自分で戻られますか」
ひんやりした床を裸足でぺちぺちと歩いていると、マアルが入って来た。
「フェイさん、リヤンさまは今夜も遅くなられるようです」
「ああそう。お知らせありがとう」
フェイとマアルは礼儀正しく接しているが、メドウは落ち着かなげにふるふるした。
「…まったく」
マアルが出て行ってしばらくして、フェイはぼそりと言った。
「お嬢さまはなぜ、あんな小娘を重用なさるのかしら」
あ、やっぱりという顔をして、メドウは彼女を振り仰いだ。
「ねえ、そうでございましょう。坊っちゃまも、そうお思いですよね」
メドウは小難しげに薄い眉を寄せたのだが、フェイは我が意を得たりと頷いている。
「わたくしがお屋敷を離れている間に、何があったんでしょう」
「しょえあ」
「旦那さまと奥さままで長旅に出られたなんて、なんとしたことでしょう。お嬢さまはご領地を立派に治めてらっしゃいますけど、たぶん。だからと言って、何もかも任されて良いお年でもございませんでしょう。ねえ? 坊っちゃまだって、まだまだ母上とご一緒がいいですよねえ?」
「いやあ」
「ねえ。お留守番は嫌ですよねえ」
フェイは犬にでも話しかけるように喋っている。
あえて彼女を見ないようにして、転がしてあった鞠を抱え込んだメドウは、全身を耳にしていた。
「だいたい、…あら? あの小娘、忘れたことでもあったのかしら?」
フェイと共に、メドウも首を傾げた。
どどどと荒々しい足音が近づいてくる。
「まったく、品のない。お屋敷の廊下を走るなんて、あ、あ、あらっ? お嬢さま?!」
ばあんと扉が開いて、飛び込んで来たのはリヤンだった。
「すぐにニャムナット寺に行くぞ、
息を切らしながらも、彼女は叫んだ。
「お嬢さま、いかがなさいましたか?!」
「なぁーん?!」
「旦那さまが寺に到着なされた!」
「まあ、旦那さまが! 奥さまは?」
「ちーぃうぇー?!」
「フェイ、父上ではない。わらわの旦那さまだ。さ、行くぞ。車を出させておるからな」
「お。お待ちを、お嬢さま!」
「くぅうま!」
踵を返したリヤンを追って、メドウを抱き上げたフェイも部屋を飛び出した。
とはいえ、一人で走っていったリヤンにはかなわない。
二人が玄関を出たときには、リヤンはすでに車に乗り込んでいらいらと待っていた。
角の大きな黒水牛につながれた牛車で。
「…くぅうま、おえぇ?」
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