名付けは守るもの

 犬舎から戻って昼餉を済ませた後、執務室にこもっていたリヤンは、陽が傾いたころに自室に戻った。

結い上げた髪を解いて、ふうっとため息をつく。


「おいあえー」


 てちてちと寄ってきた赤子が、椅子にどさりと座った彼女の膝に、ぷっくりとした手を置いた。


「ねぎらってくれるのか。かわいい奴よ」


 リヤンは、よしよしとその手を撫でた。


「いおいーあーあゆお」

「騒動なことを言う」


 リヤンはくすくす笑いながら、赤子の頬を軽くつまんだ。


「おいしそうだな」

「あうっ! あええー」


 そのとき部屋の外から声がかかって、マアルが茶を持って入って来た。


「うーぶ、いーおーい」

「そなたのではないぞ。茶請けにこの頰を食べてやろうか」

「あーおーばぁ!」



「坊ちゃまは、よくお話ができますねえ。まるで通じているようですよ」


 マアルは、テーブルに茶器などを並べながらにこにこしている。


「そうか? 話しかけていれば、早くしゃべれるようになるかと思ってな」


 リヤンは真顔で応じ、赤子を膝に抱き上げた。


 マアルが部屋を出て行ってから、赤子はふんふんと鼻息を荒くした。


「なんだ、どうした?」

「あーゆい、ああえば?」

「そなたのことか? いや、ならぬ」


 リヤンはきっぱりと否定して、香り高い茶を口にした。


「あーゆ、いーあぅあお」

「それはそうだ。それでも、そなたのことだけは、別だ。守り通さねばならぬ。一つを許せば、ほころびが出る」


 噛みしめるように言ったリヤンは、小皿に盛り合わせてあるものの中から、干しあんずをつまみ上げた。

 赤子は興味深そうに、小皿に手を伸ばした。


「あ、これ。そなたには食べられぬぞ。毒になる」


 リヤンは慌てて小さな手を押さえた。


「いってゆ。じぃーあん。あーちゃーうぃあっあ」

「そうか。にもあったのか」


 リヤンは、食い入るように銀杏を見つめている赤子から、ついっと目を逸らした。頭を撫でてやりながら、こほんと咳払いをして声音を改める。


「この銀杏はな、ニャムナット寺からの頂き物だ。ご神木の夫婦銀杏めおといちょうからの授かり物で、有り難いものなのだぞ」


「めおーやなーお?」


 赤子は首をかしげる。


「あー、めおーあなあ、おいんぼぅあーゆ。ああ、あいあぁあ? あえ?」


「ん? 一人で何を騒いでおる。神様がどうした?」

「えぁいまうあえぇーにょあ?」

「神様であろう?」

「あー」

「難しい話は、舌がよく回るようになってからにせよ。では疲れる」


 リヤンは眉根を寄せた。


「それにしても、不思議なことよな。この世にありえない物事については全部、互いにメドウと聞こえるのは」

「うう」


 赤子は何らかの格好をつけた表情を作ろうとし、残念ながら失敗したらしい。妙にがっくりしているところへ、リヤンが明るく言った。


「そうだ。まだまだ先の話だが、そなたの名はメドウにしようか」


「あ? まぁあぁった?」

「いや、あるではないか、悪食あくじきよ」

「あい?」

「いや、だから。今はそれが、そなたの名であろうに」

「え?」

「何だ、気づいていなかったのか?」


 リヤンは驚いたように目を見開いた。


「まあ、面と向かっては皆、坊っちゃまと呼んでおるからな。だが、七つの祝いが済むまでは、幼子はなるべく悪い名で呼ぶのがしきたりだ」


 母に教えられて、悪食という名の赤子は嫌そうな顔をした。


「その名であれば、まずそうだと思ってもらえるであろうよ」

「あえん?」

「魔物どもに決まっておろう」

「まおー? おんおーにぃゆ?」

「本当だ。この屋敷にも…」


 何か言いかけたリヤンは、ぶるぶると振り払うように首を振った。


「そうそう。ニャムナット寺の銀杏は、霊木だと言うたであろう。子授けで名高いのだぞ。乳の出が良くなるようにという、願掛けも盛んでな。どうだ、霊験あらたかであろうが」


 赤子もリヤンの表情を読んだらしく、それなりに、おどけた声を出した。


「おっ、あーうーあえぇえいあ?」

「は?」

「おえ。おぉーあいえぇ」

「馬鹿を申すな。いくら霊木でも、そのようなことができるか」


 リヤンは、さあっと顔中を朱に染めた。


「あーらあ、ちーうぇーあ? おお?」

「いや、召喚の術が不十分だったらしくてな」

「うぇえ?」


 赤子は更に聞きたそうにしていたが、リヤンはこほんと咳払いをして、鈴を鳴らした。


「あっ、ううぇえ!」

「そなたも、しゃべり疲れたであろうよ」


「お呼びでしょうか、リヤンさま」


 マアルは、いつでもすぐにやってくる。


「坊に湯浴みをさせておくれ」

「かしこまりました」


「ちゃーちゅ、しぇーみぇーしぇー!」

「はいはい、おしゃべり、お上手ですよ」


 赤子は不満そうに叫んでばたばた暴れていたが、あっさりと連れて行かれてしまったのだった。






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