エア猫タロウ

杜村

猫とは怖いもの

 白髪混じりの執事然とした男が、女主人おんなあるじの前に進み出た。立て襟の紺の長衣と白い下袴という服装には一部の隙もないが、顔色は青く、頰がひくひくと震えている。


「お嬢さま。つい今しがた、領内で、ね、猫を見かけた者がおるとの、知らせが参りました」

「ねーこ?」


 漆黒の髪を無造作に結い上げた主人が振り返った。

 艶やかな小麦色の肌に、丸く大きな瞳。歳の頃は16、7か。地紋織りの赤い袖無しの長衣と白い下袴に包まれているのはふくよかな体だが、めりはりが効いているために、だらしなくは見えない。むしろ、地母神のような安心感、豊かさを感じさせる。


「お屋敷からも、男手を出して欲しいとのことでざいまして、かと言って、こちらのま、守りが薄くなっては、その」

「猫は何匹?」


 言いよどむ男をじっと見つめて、主人は淡々と尋ねた。


「一匹でござ、い、ましょう」

「襲われたのは何人?」

「そ、それは、まだ、しかとはわかりませんが」


 やり取りの間に、外からがんがんと金属を叩くような音が聞こえてきた。

 主人が耳を澄ませる仕草を見せたので、男も口をつぐむ。


〈藁束を持ってこーい!〉

〈水だ、水! 桶をありったけ出すんだ!〉


「まっ、まさか! お屋敷に!」


 男が口にするより早く、主人が窓から身を乗り出した。ここは三階建の最上階である。


「お嬢さまっ、危のうございます!」

「案ずるな。飛び降りたりはせん」


 主従が並んで見下ろすと、植物が生い茂る広い庭の数カ所から、一つの方向に走ってゆく姿が垣間見えた。


「おうっ、わしが戻るまで動くなと言うたのに!」

「これ、じいや、忘れたのか。屋敷にも塀にも、マイナムさまの護符が塗り込めてあるのだぞ」


 慌てるを主人は呆れた口調でたしなめた。


「そ、そうでございましたな」


 肩口で顔の汗を拭うじいやから視線を外し、主人はふうっと息を吐いた。


「あの護符は、人を喰らう猫を封じるという。なら、もしも屋敷内に入り込む猫がいれば、それは人を喰らわぬ猫ということにならんか? それが幼い子猫であれば、飼って手なずけてしまえば…」

「おっ、お気は確かですかっ?!」


 文字通り血相を変えて、じいやは金切り声をあげた。

 ぱっと両手で両耳をふさいだ主人は、ふるふると首を振った。

 遠くからは「いかがなさいましたか?!」という叫び声と、複数の足音が押し寄せてくる。


「とんでもない声を出すな、じいや。屋敷中に響いたぞ」

「とんでもないのはお嬢さまでございましょう!」


 二人が言い争っているところへ扉が打ち鳴らされ、数人がなだれ込んできた。


「猫が、まさか?!」「ご無事ですか、お嬢さま?!」


「あー、なんでもない」

「なんでもなくはございません! お嬢さまが猫を飼うなどとおっしゃって!」

「「猫っ!!」」


 駆けつけたのは皆女だったが、最も年長と見える一人がまろび出た。


「お嬢さま、お気は確かですか?」


 じいやと同じことを口にして、彼女は主人の手を取った。


「猫ですよ? たとえ生まれたばっかりだって、気を許してはなりません! きっとお屋敷中の者が食べられてしまいます!」


 彼女の言葉に、恐怖のざわめきが走る。

 うんざりしたように片手を上げてそれを制しかけた主人だったが、それより先に、甲高い赤子の泣き声が全てを打ち破った。


「あ、あら、坊っちゃまが」

「さあさあ、皆下がれ。じいやもだ。外の騒ぎも収まったようだ」

 

 わずかにほっとした表情を浮かべ、主人は使用人たちを部屋から追い出した。


「ほれ見よ。わらわは気が触れたと思われたであろうよ」


 主人はほろ苦く笑いながら、寝台の赤子を抱き上げた。白い絹の衣に包まれたその子は、一歳ほどであろうか。先ほどからこの部屋に集まった誰よりも肌の色が薄い。ほわほわの頭髪も、黒ではなく淡い茶色だ。そして、眉毛が無いかのごとく薄い。


「坊の言い方があまりに上手かったせいで、つい口車に乗せられてしまったではないか」


 ぎゃんぎゃん泣き喚いていた赤子は、すっと表情を戻して口を尖らせた。小さな手でぺちぺちと、眼前の乳房を叩く。


「ひょでえー」

「酷いことはなかろう。皆、怖気をふるったに違いない。猫は音もなく近づき、一撃で喉を切り裂いて、人を喰らうという。この世で最も忌むべき生き物なのだから」


 自らに言い聞かせるように遠くを見るの胸元で身をよじり、赤子はなんとか床に降り立った。


 屋敷は赤れんが造りだが、室内は壁も床も紫檀材で覆われており、箪笥や寝台といった家具にも繊細な装飾が施されている。

 そんな部屋の真ん中で、赤子は短い両足を踏ん張ってまくしたてた。


「にぇお、おんなぁなっ! おえ、あしぇえお、あまにぇっ! ちゃあうやっ!」

「そんなのではないと言っても、そなたの知る世界とは比べようもないではないか。野生のヤマネコ? 山の猫か? それならば人を喰らうと認めているのか?」

「あうっ」


 はっと気づいた顔をして、赤子はすとんと尻餅をついた。毒気を抜かれたような表情が、みるみるゆがむ。


「ああ、泣くでない。そなたがかつて、猫を愛でていたことは確かなのだろう。いつ、どこでの話かは、妾も知ることは叶わぬが」


 赤子の傍に膝をついて、母は小さな頭を撫でた。


「ふわふわで、とろけそうで、温かで、この上なく高貴なのだと言っておったな? 確かに、人はそういうものを愛でずにはいられないだろう」


 赤子は目を丸くして、母の顔をじっと見上げた。


「かといって、そなたが恐ろしい猫どもに、その身を差し出すことはない。よいか? 人は猫に喰われるべきではないのだ。人と猫の間には、互いに乗り越えてはならんという壁が」

「あぁだ! おんなあずゅなっ! いんな、しゃなにゃあだえ!」


 かけられた言葉を激しくさえぎった赤子だが、母の穏やかな表情は崩れなかった。


 そのとき、部屋の扉が叩かれた。


「入れ」

「失礼いたします」


 すっかり落ち着きを取り戻したじいやが、頭を下げた。


「猫は、寺へ送られたとのことでございます」

「そうか。屋敷の者たちも、皆戻ったか」

「はい。村にも、命に関わるような傷を負った者はいないそうにございます」

「それは何よりだった」

「はい。お屋敷から、何匹か犬を連れて出たそうにございますが、それらが見事追い立てたとのことで」

「そうか」


 母は、ぱあっと花が開くように笑った。


「ならば、犬舎に行って、労をねぎらってくるとしよう! マアル!」

「はい、リヤンさま」


 よく通る呼び声に応じて、年若い女性が入ってきた。


「坊を頼む。妾は犬舎に行ってくるからな」

「かしこまりました」


 じいやと共にいそいそと出てゆく背中を見やって、赤子はむっと薄い眉根を寄せた。


「あらあら、そんなに睨まないでくださいましね」


 にっこりして抱き上げようとしたマアルの手をぺちぺちと叩き、憤懣やるかたないといった赤子であった。

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