第28話
車に乗り込むと、本体データの電話帳から選択して、電話をかけた。
「おう。どうだった。待っていたぞ」
電話の相手は福岡さんである。
長崎さんとのやりとりの、おおまかなところを告げた。
「そうか。長崎は話したんだな。それはよかった。それならば、あいつは立ち直れる。間違いない。立ち直れるさ。よかったよ」
私は賛同の言葉を伝えた。
「頃合を見て、飲みにでも誘ってやろう」
「私がそれに参加したら、やはり長崎さんは嫌がりますかね」
「和瀬君が、か。それは訊いてみるが。君は酒は、やらないのじゃなかったのかな」
「飲むときは飲みます」
「そうか。飲むときは飲むんだ。わかった。調整してみる。その時はぜひ参加してくれ」
私は礼を述べ、これから小倉さんのところを訪ねてみると告げてから電話を切った。
帆波の住む町で蝕蛾が起きていらい、新たな蝕蛾のニュースはなかった。
はっきりと季節が変わったように、空からは何も降ってこない。
真亜瑠さんに会うために、真亜瑠さんが働いているショットバーに向かった。
店に着くまでは、真亜瑠さんと話さなければならないことが山ほどあるように思っていたけれど、真亜瑠の顔を見た瞬間に、そんなことはどうでもいいことだったのだと気付いた。わたしはただ、真亜瑠さんに会いたかっただけだ。
イエローストーンを飲みながらどうでもいい話をした。
わたしは、このクセの強いバーボンが五本の指に入るほど好きだ。何も刺激を与えてくれない口当たりのいい酒を飲むくらいなら、眉をしかめるほどクセのある酒を飲んだほうがよほどいい。
昔は読みたい本は全部買っていたが、今では経済的理由でそれもかなわなくなって、図書館を利用するという話になった。
「でもね。ある種の本については、今も買うんですよ」
わたしは言った。
「ある種ですか」
「そう。それは気にいった新人の作品です。まだ多くの人がその新人の才能に気づいてないけれど、きっといい作品を書く作家だと思えたときは、その新人作家の本は必ず買います。その作家を応援する意味もあるけれど、その作家の才能に気づいた私への投資だと思っています」
「自分への投資ですか」
「この前も話したけれど、私がプロの作家になれる可能性はほぼゼロでしょうが、これまで勉強したり修行したりしてきたことはまったく無意味だったとは思わないんです。それは思っちゃいけないことなんだとも思います。だからそんな時間をくぐりぬけてきた私が選んだ作品を、お金をだして買うということは、私のそれまでの生きざまをいくらかでも肯定してあげる行為なんだと思うんです。言葉にしたら堅苦しくなっちゃうけど、まぁ、自分へのご褒美ですね」
「ああ。なんだかそれ、わかる気がします。素敵ですね」
「単なる自己満足ですけどね」
「いいえ。素敵だと思います」
そう言うと、真亜瑠さんは下を向いて、なにやら考え込むような表情になった。
わたしは静かに待った。やがて真亜瑠さんは顔をあげ、
「今日、たまたま、私がリリースしたCDを持ってきてるんですけど、聴いていただけますか。あんまり売れなかったCDですけど」
「もちろんです。ぜひ聞きたいな」
真亜瑠さんはベストのポケットから手品のようにCDを取りだした。いつからそのCDは、そこ、に入っていたんだろうと思った。それが、たまたま、わたしが真亜瑠さんに出会った翌日からだったら、どんなに素敵だろうと思った。
「マスター。CDデッキお借りしますね」
真亜瑠さんは奥で酒のつまみを調理していたマスターに声をかけた。奥のキッチンからマスターが顔だけ出して、
「そのデッキ、鳴らないよ」
「えっ、壊れてましたっけ」
「そうじゃなくて、そこのコンセントの調子が悪くてさ。明日には直すけど、今は無理。デッキ繋ぐなら奥のボックス席のコンセント使って」
「でもそれじゃお仕事ができませんけど」
「少しくらいなら大丈夫。気にしなくていいよ」
「それじゃ、お言葉に甘えます」
真亜瑠さんがデッキをコンセントから外すためにしゃがんだのを見て、マスターはわたしにだけわかるようにウィンクした。気を利かして嘘をついたということなのだろうか。おっさんからのウィンク自体は気持ち悪かったけれど、そういうコンセントの都合ならば、それはそれで悪くないなと思った。
デッキをコンセントから外して抱え、カウンターから表に出てきた真亜瑠さんから、デッキを持つのをわたしが代わり、ふたりで奥のボックス席に向かった。完全な個室ではないけれど、この店の中では唯一、他からの干渉を受けないで済むスペースだった。
デッキを、新しいコンセントに差し、CDをセットすると、真亜瑠さんはひとつ大きく深呼吸をした。そして、そうしないと何かが逃げてしまうとでも言いたそうに慎重に再生ボタンを押した。
ピアノを主体としたジャズっぽいアレンジの心地よいイントロに続いて、それは飛び出してきた。そして瞬く間にわたしを包みこんだ。
心地よかった。ハスキーなのにハイトーンなボーカルは、わたしの心の奥深くを刺激した。その刺激を受けた場所に歌詞が突き刺さる。伝えたいことが真っ直ぐに届いてくる。もちろんその声は、真亜瑠さんのものだった。
すっかり聞き入っていたけれど、真亜瑠さんがわたしの顔を食い入るように見つめていることに、やがて気がついた。わたしは自然と涙を流して聞いていた。真亜瑠さんの瞳に視線を合わせ、ゆっくりと頷いて見せた。
真亜瑠さんはわたしに背を向け、細かく肩を震わせ始めた。泣いているのは間違いなかった。でもそれはけして痛みを伴う涙ではないはずだと思えた。
小倉さんに電話をかけた。今回も確実に捕まえるために、携帯電話にした。すでに私の携帯電話の番号を登録してでもいたものか、三回の呼び出し音でそれはつながった。
私は突然の電話を詫びてから、
「原稿を失くした件について、改めてお詫びに伺いたいのですが」
と切り出した。
「ほう。原稿が見つかったのか、それとも私の申し出を受け入れる気になったのか、どちらだね」
「そのどちらでもありませんが、改めてお詫びしなくてはならないことになりました。私の責任において」
「君の責任などどうでもいい。詫びるなら私の申し出に応えてくれ」
「申し訳ありませんが、それには応えられません」
「私の申し出には応えられないが詫びはしたい。つまりそういうことかね」
「そうです」
何かを考えているのか長めの沈黙があった。
「よかろう。ただし会うにはひとつ条件がある。それを飲むなら応じよう。飲むかね」
「内容次第です」
「そんな答えは受け付けられない。条件を聞いてから判断することも許さない。その条件を飲まないときは、最終選考作として私の作品を選ぶ。それしか道はない」
「つまり、条件とは、小倉さんの作品を無条件で最終選考作に選ぶこととは別のことなのですね」
「それにも答えられない。そして、どうするのか、今すぐ、決めたまえ」
私は考えた。私が知り得たことを小倉さんに話す気はない。それを告げずに、この問題に幕引きをすることは難しい。けれども、たとえ告げたとしても、証拠も何もないそんな話は、ただの戯言でしかない。そして、そんな戯言でしかないことだとしても、それを小倉さんに告げる気が私には微塵もないのならば、ここは覚悟を決めるしかない。この問題を自力で解決するためには、相手の懐に飛び込むしかない。
「わかりました。条件を教えてください」
「聞いたなら、もう引き返せない。それでいいんだな」
「はい」
「私の作品は読んだな」
「読みました」
「では、原稿を紛失した部分を、君が書いてきてくれ。君ならばどのように書くのか、でかまわない。それが条件だ」
条件の意味がわからなかった。わからなくとも、それを受け入れるしかない。
「承知しました」
その原稿を持って、明日の夜、小倉さんの自宅を訪ねることになった。
私はその経緯を話すために、ふたたび福岡さんに電話をかけた。けれどもその電話は、数回の呼び出し音の後で、今は電話に出られないというアナウンスが流れた。嫌な予感がした。
四十分後くらいに福岡さんから電話があった。
「すまん。ちょっと取り込んでいた」
いつにない口調からは緊迫した気配が伝わってきた。
「何かあったのですか」
「長崎を病院に運んだ。電話に出ないのでおかしいと思って訪ねてみつけた」
「それって自殺しようとしたということですか。私が追いつめてしまったのですか」
「そうじゃない。腐っても長崎も、もの書きのはしくれだ。こんな流れで、そんな陳腐なことはしやしないさ。脳出血だ」
「容体は? 大丈夫なんですか」
「幸い発見が早かったので、なんとか手遅れにならずに済みそうだが、まだ予断は許さない。今、オペだ。けれども、もの書きである長崎が、これで死んじまったらお話にならないだろ。やつはきっと生き延びる」
「そんな小説みたいなことを言っている場合ですか。病院はどこなのですか。私も向かいます」
「今のタイミングで君は来ないほうがいい。長崎の変化に僕が気づいてやれたのは、やつがずっと小説を書き続けてきたからだ。形は違えども、これも小説の神様からのプレゼントさ。何かあったら必ず知らせるから、それを待て」
言いたいことはまだたくさんあったけれど、受け入れるしかなかった。
「わかりました」
その返事を待って、福岡さんの方から電話は切れた。
長崎さんのことも心配ではあったけれど、自宅に戻ると、小倉さんと約束をした原稿にさっそく取り掛かった。どれほど問題が山積していようが、一つずつ解決していくより他に方法はない。
しばらくは、どうしても湧きあがってくる雑念にとらわれていたけれど、それらを無理やり押し込むようにして作業を続けた。その甲斐あって、やがてその作業に没頭していった。
寝不足で疲れているという感じはしなかった。わずかずつでも前に進んでいるという思いが、私に力を与えているようであった。
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