第27話

 少し歩きたいという福岡さんを自宅近くまで送ってから降ろすと、正しき道を諭すという思いを込めて、意識して広い道路を選んで長崎さんの住むアパートに向かった。

 部屋に明かりがあった。夕暮れにはまだ間がある。下腹に力を入れ、ゆっくりとノックした。呼び鈴は使いたくなかった。生身の自分として、長崎さんと対峙したいという思いが強かった。

 はい、と応えがあり、ドアが開かれた。

「なんだ。和瀬君かぁ。どうしたの。遊びにきてくれたのかな、かなぁ」

 長崎さんの顔がたちまち笑みの表情になった。それを目にすると、それでなくとも重い私の心に、さらに重たいものが重なっていくように感じた。

「真面目な話があって参りました」

「ほよっよ。そんな厳しい顔しないでよ。怖いじゃない、それ。まぁなんにしてもよく来てくれたよ。あがってよ」

 私は小さく頭を下げると部屋にあがった。窓際においてある机の上には原稿用紙がひろげられていた。長崎さんご愛用の、いつもの4Bの鉛筆がその上に転がっている。机上専用のランプが点いていた。今まで原稿を書いていたのだろう。

 勧められた座布団を使わず脇にずらすと、畳にじかに座った。

「なんだよう。何、怒ってるのさ。怖くて、あちき困っちゃうぅ」

 道化る長崎さんの目をみつめて、

「小倉さんの原稿を読まれましたよね。そして、福岡さんになさったことを、またなさいましたよね」

「なに、なに、それ。尋問? 君は警察で、あちきは悪党ですかぁ」

「誤魔化さないでください。誰もがあなたを信頼していたというのに、どうしてあんな裏切るようなひどいことができるんですか」

 長崎さんの顔からたちまち表情が消えた。寒気を覚える暗い色の瞳で私をみつめてくる。

「信頼していたって。誰が、誰を」

 長崎さんが出したとは思えない、吐き気を覚えるほど気味の悪い声が響いた。

「小倉さんが、福岡さんが、岡山さんが、宮崎さんが、もっとたくさんきっとおられるのだと思います。たくさんの方たちが、あなたを信頼していたはずです。そんなことは、ちゃんとご自分でもわかっておいででしょ」

 長崎さんは喉を詰まらせたように、くつくつとくぐもった声を出して笑った。

「いつまでも甘ちゃんだよなぁ、和瀬くんは。金メダルあげちゃう。こんな簡単なことさえわからないなんて。君、いっそ書きものなんかやめて、何かはっきりとした人助けのボランティアでも始めたほうがいいんじゃないの」

 傷つけることが目的だとはっきりわかる口調で長崎さんは言った。私の反応を確かめるつもりか、しばらく間をおいてから、

「まぁ、いい。知らぬ存ぜぬで通せば、何も分からないと思うけれど、わざわざのプリンス和瀬君のご訪問だ。いい機会だから教えてあげるよ。甘い甘いおぼっちゃまもの書き志望さんにね」

 私は奥歯を噛み締め、長崎さんの目をにらみつけるようにみつめた。

「それにしても、あの小倉さんが、手書き原稿を君に預けたなんてね。驚いたね。嫉妬しちゃうな、妬むよね、それは。僕なんか、小倉さんの自宅で読まされただけなのにさ」

 長崎さんは憎々しげに目を細めて睨み返してきた。

「誰が誰を信頼しているって。信頼されているのが僕だって。何寝ぼけたこと言ってるのさ。僕なんかただのコンセントだよ。みんな自分勝手にヘアードライヤーだとかシェーバーだとかを、新作だ、傑作だ、なんて言って持ってきて、当たり前の面してプラグを突っ込むだけだろ。こっちにだって都合っていうものがあるさ。もうほんとに便利な読書マシンくらいにしか思っちゃいない。読んで欲しいときだけ呼び出しやがって。それで自分が期待してないこと言われたら、腹を立てても当たり前だって顔でさ。バッカじゃねぇの。どいつもこいつも、みんなぶん殴ってやりてぇよ。まったく、ふざけんじゃねぇよ」

 押し留めていた感情があふれ出し、しだいに激昂していく。

「小倉さんの原稿から、重要な部分を五枚ほど抜かれましたよね」

 私は努めて静かな口調で訊いた。

「ああ、そうだよ。僕が抜いた。抜いてやったさ。小倉のあせる顔がみたかったからね。なぜこんな、人として劣る男にこんな素晴らしい作品が書けるんだと、むかっ腹が立ったからね。あいつの自宅で、あいつに追従笑いして、あいつが読んで欲しいと差し出した原稿を黙って読みながら、僕が何を考えていたかなんて、君には一生わからないだろうね。殺してやりたいほど憎かったよ。だというのに、小倉のやつは僕へのサービスのつもりかコーヒーを入れ替えにキッチンに立ったりしてさ。ああ、確かに僕が読んだ。いや、読まされた。けれども君と違って、その原稿を持って帰るなんて許されなかった。その場で読んでくれと念を押されていたしね。まったくクソだ。戻ってきた小倉に、もう読んだし、大事な原稿だから早く大切に保管しろよと言ったら、なんの疑いもなく、あいつはそれを封筒に入れて仕舞ったね。君に渡す前に確かめたかどうかなんて知らない。けれども話を聞くと、どうやら確認もしなかったようだね。どこまで僕をバカにしていたのかと腹の中が煮えくりかえる思いだ」

 急に闇が訪れたように思った。窓の外が薄暗くなっていた。机の上にだけ点いたランプの明かりが目に痛い。その明かりが照らしているものはなんなのであろうか。けして、原稿用紙などというものではないだろう。そして、その明かりの届かないところにうずくまって長崎さんは手を伸ばしている。何に向かって。何のために。その暗闇に沈む心は何を求めている。

「和瀬。君はなぜ小倉に認められていると思っている」

 長崎さんが話題を変えてきた。激昂した口調は治まっていた。けれども怒りからか顔は赤黒く変色している。

「認められているですって。嫌われてはいますが」

「本物のアホだな君は。小倉が同人内で本名で呼ぶのは君だけだろうが。それが君を認めている証拠じゃないか」

「他にも本名で呼ばれている同人や会員さんはたくさんいらっしゃるじゃないですか」

「同人誌には本名で作品を発表している人が多いけれど、それでも筆名を使う人も少なからずいる。君もそのひとりだ。そしてそんな筆名を使う書き手の中で、小倉がその相手を筆名ではなく本名で呼ぶのは君だけだ。小倉にしてみれば君は、仕事も含め、色んな苦難に立ち向かって作品を書いている同志という気持ちがあるのだろう。まったく糞の理論だがね」


 小倉さんが高校二年の時に父親が亡くなった。過労死だった。父親は経済的理由で進学ができず、高校を卒業してすぐ職についていた。一生懸命がんばっても、大学卒の後輩が楽々と抜いていく。その格差を埋めようとそれこそ必死に働いた。そのご褒美が過労死とは神も仏もない。

 勉強のできた小倉さんは進学したいと思った。けれども学費だけでなく、家族の生活費の問題もある。父親が亡くなったことで付与された社会保障だけで生活するのは厳しかった。できるだけ早く職について家族の生活を支えなければならない。そのような事情があっても進学はあきらめられなかった。父親の無念を晴らすには大卒の肩書きがどうしても欲しかった。進学できるとすれば費用の関係から地元の国立大学しかない。それも失敗は許されない。浪人してのチャレンジは望めないことであった。

 アルバイトをして家計を助け、寝る間を惜しんで勉強をした。

「小倉の左足の腿を見せてもらったことがある。ある部分が真っ黒に変色していた。アルバイトで疲れ切ってしまい、深夜の勉強に眠くなると、そこに千枚通しを突きつけて眠気を覚まして勉強したそうだ。左手で千枚通しを腿に突き刺し、その間に、残った右手でノートを取る。化け物だな、そんなの」

 見事大学に合格すると、勉学に励むと同時にアルバイトも増やし、家計を助けた。そして卒業と同時に地元の大手の化学工場に就職した。小倉さんが配属になった部署は、高卒でコネもなかった小倉さんの父親では望むべくもない部署であった。小倉さんもその企業のその部署に配属が決まったとき、父親の無念を晴らしたと思ったらしい。

 職についた小倉さんは父親代わりとして家族を支え、ふたりの弟を大学まで進学させ、父親が早くに亡くなったことで無理をしたために、歳若く病に伏した母親の世話をして、その最後を看取った。

 母親の希望もあり、生活に一区切りついたところで結婚をしていた。そして授かった三人の子供をみんな大学に進学させた。その上で二代にわたる夢であったマイホームを、マンションの購入という形で叶えた。

「生活が楽になっていくのに反比例して、心の中にむなしさが募ってきたらしい。ここまでがんばっても、自分は何者でもないということが許せなかった、と。父親の無念は、まったく晴らしてなどいなかったのだ、と。だからまたまた千枚通しのご登場だ。仕事で疲れ果てた自分に鞭打って小説を書き始めた。小説で認められれば何かが変わるかもしれないという思いもあっただろう。けれども、けしてそれだけに走ったわけじゃない。彼の生き様を知れば、書かずにはいられなかったことは自明のことだ。あれだけ苦労したのに、まだ苦労する気なんだ。バカだよ。まったく」

 長崎さんの長い話が終わった。

「それほどのバックグラウンドを知っているにもかかわらず、どうして信頼して頼ってきた小倉さんを裏切ったのですか。私にはとても理解できません」

「だから君はおぼっちゃまだと言うんだ。仕事をしていることがそれほど偉いのか。苦労しながら小説を書いていることがそれほど立派なことなのか。そんなものに特別の意味を見い出す、その思いの底辺に流れているものが僕には許せない。仕事もせずに原稿だけ書いている僕を蔑んでいただろうしね」

 長崎さんの置かれた境遇に思考が向かった。けれども私がそこから何かを見つけ出すよりも早く長崎さんは、

「僕はこのことを他のやつにはしゃべらんよ。だから君が、今、僕がしゃべったことを誰かに伝えても、何の意味もない。それとも僕を法廷にでも引っ張り出して証人にしたてあげてみるかね。そうしてくれるなら、ある意味僕も救われるかもしれないな」

「いえ。お話しいただいただけでありがたいと思います。ありがとうございました」

 私は頭を下げた。

「格好をつけるな」

 長崎さんがすさまじい怒声をあげた。

「君のそういうところに虫唾が走る。自分はまるで聖人君主だ、みたいな態度が鼻持ちならん。我慢ならん。そうやっていつも、自分だけは醜いものとは別だとでもいう態度が、どれほど人をバカにしていることか。君は、そんなことなど、今まで一度も考えたことなどないだろうが」

 その怒りはわかった。けれども、こんな風にそれが分かると思ってしまう私をこそ、長崎さんは憎んでいる。返す言葉もなかった。けれども自分を偽る気にもならなかった。その自分をどれだけ憎み、嫌っていようとも、それでも自分であることをやめるよりは、その大嫌いな自分でいることのほうが間違いなくマシだ。

 長崎さんは、力の抜けたのろのろとした動きで立ち上がると、大海原に唯一あるブイにでもつかまるかのように、机の前の椅子に崩れるように座った。日もすっかり沈み、薄闇に包まれた部屋の中で、机上のランプの明かりに照らされた長崎さんの左側の顔が、やけにくっきりと、そこが燃えてでもいるかのように見えた。

 しばらくの沈黙の後で、長崎さんは、

「いつもむかむかしていた。軽々と書きやがって、と。そのくせ、すぐにその作品は駄目だとわかってやめるんだ、と。甘えてる。なんでそんなことができるのが僕じゃない別のやつじゃなきゃいけないんだ。僕でいいじゃないか。これだけ一生懸命に、このことだけに人生を賭けて書いているのに、なんで僕じゃないんだ。僕の方が何倍も、何十倍もふさわしいじゃないか」

 私は肩を落とした長崎さんに視線を向け続けた。しばらく待っても後に続く言葉がないとわかると「帰ります」と言葉をかけて立ち上がった。ドアを開けてから、一度振り返ってみた。長崎さんは机の前で、固まったかのように、体を傾げて座ったままであった。

 私は小さく頭を下げてから、その部屋を後にした。

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