第26話
「福岡さん、お邪魔します」
玄関先で大声を張り上げた。奥で物音がして、誰かが出てくる気配がした。ふすまを開けて出てきたのは、いつもの作務衣姿の福岡さんであった。
「おっ、どうした。そんな暇なときでもあるまい。なんだ、どうした。僕の原稿でも読みに来たか」
「ちょっと相談にのってもらいたいことができまして」
「なんだ、なんだ。相談。いい話か。なんだかうれしそうだな」
小倉さんの原稿紛失事件を相談しようと思っていた。気持ちとしては、どちらかというと下向きのはずだ。どこからうれしそうに見えるというのだろうか。不思議であった。
私からすれば、福岡さんの方こそ、うれしそうな顔をしている。
「そうですか。でも相談したいのは、いいことじゃありませんけど」
私は、やれやれという気持ちが伝わるように、首を左右に数回振って見せた。
「変なやつだな」福岡さんは身を乗り出して顔を寄せ、まじまじと私の顔をみつめてから「どうみてもうれしそうに見えるがなぁ。あまりにも問題が複雑過ぎて頭のヒューズが飛んじまったかぁ。まぁいい、あがれ。いつものごとく散らかしているが気にするな」
書斎に招き入れられた。床にはあいかわらず原稿が散らばっている。座り机の上には原稿用紙が広げられていた。キャップを開けた万年筆がその上にある。たった今まで書いていたことがうかがえた。
そんな私の視線に気づいたのか、
「丁度煮詰まっていたところだ。いっそ気分転換になる」
福岡さんは万年筆のキャップを締めると、にっと黄ばんだ歯を見せて笑ってみせた。髪の毛に指を突っ込み、ぼりぼりと掻き毟ってから、
「で、相談というのは何なのかな」
「実は同人誌の予備選考のことでトラブルが発生してしまいました」
小倉さんの原稿紛失事件について説明した。
「なるほど。それは困ったことが起きたものだな。よりによって小倉さんか。それで何枚くらいなかったの」
「五枚です。それも、もっとも大切だと思える部分なんです」
「五枚。それも大切な部分。ちょっとまて、その原稿って、確かに綴じられていたんだよな」
「はい。紐でしっかり綴じられていました」
「で、小倉さんはなんと」
今度は、小倉さんと対峙したときの状況を説明した。
「それならたぶん、小倉さんは本当に知らないんだな」
「勝手に消えるわけもありませんし、それならどうして」
福岡さんは眉間にしわを寄せ、
「俺に少し思い当たることがある。まさかとは思うが確かめてみよう。しばらく俺につきあえ」
と言うと、早くも服を着替え始めた。
福岡さんが電話を二箇所ほどかけ、誰かと会う約束を取り付けると、私の運転する車で『風花』に向かった。
待ち合わせた相手は、宮崎さんと岡山さんであった。
ふたりの今回の同人誌企画対象作品は、河西さんから渡されてすでに読んでいた。まとまった瑕の少ない作品であったが、だからこそというべきか、物足りなさを覚えるものでもあった。
福岡さんがうまくふたりに会話を振りながら、久しぶりに会う私が、ふたりの近況を聞きたがっているという風に場を進めていった。宮崎さんと岡山さんは、同人誌の企画がらみと思ったのか、なんの疑念もない様子で応じてくる。
「やっぱり作品を書き上げると、誰かに読んでもらったりするのか」
チノパンにポロシャツとカジュアルな服装に着替えた福岡さんが訊いた。
「私と宮崎はお互いに読みあいますけど、そこはやっぱり生原稿ですからね、その他の人間に読ませるとなるとちょっと。けれどもふたりの間だけで読んでいたのでは客観性が保てないこともあって、それで長崎さんにだけは時々お願いしています」
岡山さんが宮崎さんに視線を向けた。宮崎さんはうなずき返した。そうだという意味であろう。
「なるほど。長崎に読ませるんだ。それで何か変わったことはなかったかい」
「変わったことってどんなことですか」
岡山さんがいぶかしげに訊きかえした。
「いや、変な言い方しちまったね。すまん、すまん。なんせ長崎だって言うんで、あいつなら何かやらかしてるかなと思ってさ。で、原稿を読んでもらったときって、どんな話をするのかな」
「たいした話はしませんね。もちろんその原稿の話がメインですから、そこは真面目にやりますけど、それ以外では、書きたいと思っている新作の構想を話したりとか、話題の本の話とか、そんなところです。たいがい宮崎も同席してますよ。なぁ」
宮崎さんが大きくうなずいた。
「なるほど。なんだか楽しそうだな」
「まぁ、楽しい、っちゃ、楽しいですね。ご存知のとおり長崎さんはあんな人ですし。すぐ人を笑わそうとするから」
しばらく、その折にでもあった出来事なのだろう、岡山さんと宮崎さんは互いに一言二言、言い合っては笑いあっていたが、急に岡山さんが、
「そう言えば、いつかの作品のとき、プリンターの調子が悪かったのかな、何ページか飛んでいたことがありました。それなのに長崎さんったら、こいつはいい作品だなんて言って褒めるんですからね。まったくいいかげんなお調子ものですよ」
「ああ、そんなことなら私もあったな。そうだったのか、長崎さん適当に読んでたのか。ショックだなぁ」
宮崎さんは少しもショックのような顔をしていなかった。
「そのページがなかったのは間違いなく長崎が読んだときなんだね」
「先ほども言いましたけど、読ませるといってもやはり生原稿だし、誰でもいいというわけでもないですから。なんだかんだ言っても長崎さんはよく勉強していらっしゃるし。それで特別に読んでもらってるんです」
岡山さんはそう言うと宮崎さんを見た。宮崎さんは、
「そうなんです。批評が的確なんですよ。すごく参考になりますね」
「それに嫌な顔しないですぐに読んでくれるしね」
「そうそう。あの人、暇なのかなぁ。呼べばすぐ来てくれて、読んでくれるよね」
岡山さんと宮崎さんは、またふたりだけにしかわからない出来事を持ち出しては笑いあい始めた。
福岡さんはそんなふたりを笑顔でみつめている。けれども目は笑っていなかった。
「そう言えば和瀬君。僕たちの原稿読んだんだろ。どうだった?」
やっと自分たちの楽屋話にオチがついたのか、岡山さんが訊いてきた。
「おいおい。和瀬君を困らせるなよ。そんなことは話せないに決まってるじゃないか。なぁ、和瀬君」
福岡さんが上手に受け流してくれた。
もう少しふたりで話して帰るという岡山さんと宮崎さんを店に残して、私と福岡さんはふたたび車に乗り込んだ。
聞こえるはずもないのに『風花』の敷地を出て、店が見えなくなるのを待ってから福岡さんは、
「あのふたりの原稿を時々長崎が読んでやっているっていうのは知ってたんだ。長崎本人が僕にその話をしていたからね」
「長崎さんが今回のことに絡んでいるのですね」
それには答えず福岡さんは、
「君は原稿をなんで書くね」
当然知っていることをわざわざ訊いてきた。
「パソコンです」
「だよな。今はほとんどのやつがパソコンで書く。けれども、同人内でいまだに手書きの書き手を僕は三人ほど知っている」福岡さんは私にあらためて真っ直ぐ視線を向け、しっかりとみつめてから「小倉さん僕、そして長崎だ」
私はハンドルを握る手に力が入った。
「小倉さんは同人誌に投稿するときはパソコンで清書する。自分の原稿を読んでくれる人に失礼なことはできないとね。で、君に渡した原稿はどうだった」
私は車を路肩に寄せて停めた。話が刺激的過ぎて、これ以上運転しながら聞くのは危険だと判断したからだった。
「手書きでした」
福岡さんの顔をじっとみつめる。福岡さんの次の言葉が待ち遠しい。
「そうか。すると、ほんとにほんとの生原稿を君に託したわけだな。その原稿がなくなるなんて大変なことだ。なぜそんなものを渡したのかな」
福岡さんは感情を表情に表さず言った。
今回の原稿紛失事件に、長崎さんが関わっていそうだとはすでに推測できていたけれど、福岡さんの話は意外な方向に進んだ。
「下読みの役が私だったので、礼を尽くすこともないと思ってでしょうか。いや、最初から私と決まっていたわけでもないし、それも変だな。どうしてだろ。わかりません」
「和瀬君。君も手書き原稿だった時期があるだろ。その手書き原稿を見せるとして、どんな相手なら見せるね」
「それはやはり信頼がおける人にだけです」
「うん。そうだよな。そういうわけで僕は作業中の手書き原稿を読ませる相手は一人しかいない。その相手は長崎だ」福岡さんは私の反応を確かめるように一呼吸おいて「その原稿が三枚ほど消えたことがある」
「長崎さんがやったんですよね」
「そうとしか考えようがない。透明人間か妖怪でもいるのなら話は別だがね」
「そのこと、問い質されたんですか」
「いや。してない」
福岡さんは宙を睨んだ。
「その作品にはちょっと自信があった。やっと納得できるものが書けたような気がしていた。ただし、一箇所だけ自分で不安な部分があった。消えたのは、まさしくその部分だったよ」
何かが頭の中で絡まって、ちりちりと神経に障る。もう種明かしもされて、すっかり全容が見えているはずなのに、肝心なものがまだわからないという感じであった。
「僕はね、それを長崎の優しさだと受け取った。面と向かってその部分の瑕を指摘すれば、僕がどれだけ傷つくかを考えてのことだ、と。だから黙って教えるために、そんな方法を選んだのだ、と。そして、今に至っても、そうであったと信じている」
「けれども岡山さんも宮崎さんも、同じようなことがあったと言われていたじゃないですか。おふたりの時も同じ理由だと言われるのですか。そして、今回問題となっている小倉さんの原稿でも。小倉さんの場合は単なる私の憶測ですが」
「いや。たぶん小倉さんの原稿を抜いたのも長崎だろう。同人内で、小倉さんが原稿を読ませる人間がもしいるとしたら、信じられないだろうが、それは長崎以外考えられない」
福岡さんの表情がはじめてくもった。私を見る目が切ない。
初めて会ったとき、長崎さんは小倉さんのことをエイリアンとまで呼んで嫌っていたようであったのに、そんな長崎さんを小倉さんが選ぶということがにわかには信じられなかった。
「そしてそんな小倉さんの側から言えば、今回のようにその原稿を抜く相手が、もしいたとすれば、それは君、和瀬君しかいないと思うだろう。なにせ、手書きの生原稿だ。そんなものを渡すには、それだけの覚悟と思いがあったろうさ」
長い間を空けて福岡さんは、
「小倉さんの作品。すごい力作じゃなかったかい」
私はやっと合点がいった。小倉さんは清書をしたくなかったのだ。清書してしまうと、書き上げた瞬間の熱を失うと思ったのだ。私にも覚えがある。パソコンで書いているとついつい簡単に文章を直してしまう。データが飛ぶ時だってある。そしていつも、そんな場合、最初に書いた文章を失ってしまったことを後悔する。まったく同じ思いだったとは言わないけれど、かなり近い事情からのことだったのではないかと想像した。
けれどもそのような事情の手書き原稿を私の前に読んだ人物がいる。それこそが長崎さんだ。そこまで信頼されていたというのに、その思いを裏切ったことが許せなかった。強い怒りが込み上げてきた。
「行きます」
「どこに」
福岡さんは分かりきったことを訊いた。
「もちろん長崎さんのところです」
「行って、どうするね。白状しろと拷問でもかけるかね。証拠は何もない」
「証拠ならあります」
「どこに」
今度は本当に分からない様子であった。
「長崎さんの心の中です」
私は自分の左胸を拳で数回叩いた。
「そいつを、はい、そうですか、と出してくれるかな」
「出してもらわないと困ります。私も小倉さんも、そして福岡さんも」
福岡さんの瞳の輝きが揺らいだ。
「ついていこうか」
福岡さんは静かに言った。
「必要になったらお願いします」
「そうか必要になったら、僕をちゃんと呼んでくれるんだな」
「はい。必ず」
私は福岡さんの目をしっかりみつめ、そこに自分の思いを刻み込むようなつもりで言った。
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