第25話

 壁面すべてガラス張りのビルであった。色合いとしてはうすいブルーである。中に入ると空調が作動していた。上へと伸びている階段に一度は目をやったが、首を左右に数回振って、エレベーターの前に立った。ボタンを押すと、回数表示のランプが灯りながら降りてくる。ほとんど音らしい音もしない。

 市の箱物政策の産物のひとつであった。かなり激しい反対運動があったことから、このビルに入居できるのは公益性が認められる団体だけと規制されていた。

 降りてきたエレベーターに乗り込むと、三階のボタンを押した。乗り込んだのは私だけであった。このビルの三階に、高松さんが設立したNPO法人の事務所が入っていた。訪問したい旨の電話を入れ、きちんとアポイントを取ってから、訪ねてきている。

 エレベーターを降りると、目に入ってきた景色に驚きを覚えた。ビルは外壁がガラス張りであるばかりでなく、内部の各部屋も通路に面した側はガラス張りであった。

 高松さんの事務所はすぐにわかった。他の多くの部屋がブラインドをつけるなどして、通路側からの視界を意図して遮断しているのに対して、高松さんのオフィスはまったくその手のものは取り付けていなかった。

 ドアをノックすると、奥まった場所に設置してある黄色く塗られたデスクについて執務をしていた高松さん本人が気づいて、笑顔を向けながら近づいてきて、ドアを開けてくれた。

 オフィスでは、他には社員らしい女性がふたりデスクについてパソコンを操っていた。そのふたりは軽く私に会釈をしてから、ふたたび仕事に戻っていた。

「お久しぶりですね」

 私の記憶から呼び覚まされたものと現実の声色が重なって響いた。

「本当にお久しぶりです。お元気そうでなによりです」

「元気だけがとりえですもの。でも、仲間たちには内緒にしてるんですが、最近は歳のせいかなかなか疲れが取れなくなりました」いたずらっぽく小声で言ってから、明るくやわらかい笑顔を見せて「奥にどうぞ。一応個室と呼べるようなものもひとつだけありますので」

 誘われるまま、奥の部屋に入ると、やはり黄色に塗られた八人掛けほどの会議机が置かれてあった。どうやら応接も兼ね、表のオフィス以外の場所が必要なときは、いつもこの部屋を使っているようであった。一面は外壁になっているガラス部分ではあるけれど、外部からの目隠しのために、いくぶんスモークが入っているのか、外界からの光が弱められて差し込んでいる。それでも部屋の採光としては申し分ないものであった。

 向かい合って座ると高松さんが、

「大変な思いをさせてしまいましたわね」

「高松さんのせいというわけでもありませんので」

「それでも警察から何度も事情を聴かれたりしてご迷惑をおかけしました」

「しかし驚きました。高松さんが山瀬さんとのお付き合いがあったなんて。もともとそういうことには疎い方ですが、それでもまったく思ってもみないことでしたので」

「この手の交際とはそういうものでしょ」

 高松さんは笑顔を見せた。ごく自然な表情に見えた。

「出会った当初はお互い家庭を持つ者同士でしたので、淡い恋心は抱いても、何か行動に出るなんて考えもしませんでした。山瀬さんの小説のシーンのパンフレットを勝手に作ったりなんかして、まるで初恋をしている女学生みたいですわね」

 すでに五十歳には届いているはずだが、高松さんの笑顔は、先程よりもさらに若々しく輝いて見えた。

「同人誌を退会されたのは山瀬さんのことが原因ですか」

「いまさら嘘を言ってもしょうがないのでお話しますが、私の山瀬さんへの恋心が膨らみすぎてしまって、そのまま同人誌に居座って何か事件を起こす前にと、逃げ出したというところです」

「その後を山瀬さんが追いかけられたということなんでしょうか」

「いえ、そうではありません。山瀬さんとの交際が始まったのはほんの一年前からです」

「それまではまったくおつきあいはなかったのですか」

「そうですね。年賀状が届くくらいでした」

「立ち入ったことをお聞きしますが、十年以上もの時を隔てて、なぜ一年前に山瀬さんとの交際が始まったのですか」

「社会構造の崩壊ですよ」

「社会構造の崩壊?」

「そうです。私たちが最初に出会った二十年前ならば、三十年も勤めあげた会社を、何か悪いことでもしない限り、定年前に辞めなければならないなんてことはなかったでしょ。けれども今はそんなことなんか珍しくもなんともない。いっそ当たり前になっています。会社が生き延びるためには、その構成となっている旧くなった細胞を入れ変えなければならない。細胞とは、もちろん社員のことです。山瀬さんもその押し出された方の細胞でした。私がこんな風に産業コーディネーターのような仕事をしていたもので、山瀬さんの再就職を支援するコンサルタントから話が回ってきました。資料に書かれていた名前を見たとき息を呑みました。あの誰もがうらやむような会社にお勤めになっていた山瀬さんが、と」

「確かにこの国の社会構造は大きく変わりましたね」

「私たちの国だけでなく、世界の多くの国で百年以上も続いてきた社会構造が変わってしまったりしています。その影響は、一見して何の関係もなさそうな発展途上国にまで波及しています」

「確かにそうですね。国内でも、社会の底辺近くで、そのポジションを恨むでもなく、必死に働いて生活していた人たちにまでその影響はでていますからひどいものです。例えば畳屋さんとか、ガラス屋さんなんか、その顕著な例ですね。それでリストラの煽りを食った山瀬さんが心身に障害を負われるようなことになったのですね」

「いえ。それはちょっと違います。山瀬さんはお仕事が変わることにはそれほど悩んだりしておられませんでした。他の人たちに比べたら自分なんかまだ運がいい方だともおっしゃっていましたし。そんな前向きな思考が幸運を引き寄せたのでしょう。割合早く山瀬さんの再就職は決まりました」

「そうだったのですか。ならばなぜ」

「一言で言うと、山瀬の小説にかける思いが原因でした」

 山瀬さんの呼び方が変わった。

 高松さんは私の目を覗き込んできた。その視線が私には痛かった。高松さんの言葉から想起した私の生き様に、やはりいくらかの後ろめたさのようなものを覚えたからであった。その私の思いは、高松さんには読み取られたと感じた。

「自分は同人作家だと思い決めて、同人誌の活動に生きがいを感じて、山も谷もある人生の活力にして自分の道を進んでいらっしゃる方も大勢おられます。もちろん小説こそが命と、プロの作家にならんと厳しい修行されている方もいらっしゃりはしますが。いずれにしろ、その方たちは結果だけをもって、その活動を評価するのではなくて、その歩んだ過程を自分の生き様としてすべて受け入れておられます。そうであるならその活動に、たとえどんな苦しみがあったとしても、それも価値あるものであるのでしょうにね。その点、山瀬はあまりにも中途半端でした。さらに中途半端なくせにプライドだけは高いという、もう最悪としかいいようがありません」

 そう言うと高松さんは一面ガラス張りの外壁の方に視線を向けた。そこには薄いブルーに染まった街が広がっていた。しばらくそちらに向けていた顔をゆっくりと私の方に戻して、

「夢を持って生きるってどういうことなんでしょうか」

 その高松さんの瞳は、あふれそうな涙で潤んでいた。

 私はまだ、高松さんのその問いに対する答えを持っていなかった。だから答える代わりに、

「どの辺りから小倉さんはおふたりの関係に絡んでこられたのですか」

 と訊いた。

「私がご相談いたしました。同人誌時代に山瀬は小倉さんを尊敬していましたし、小倉さん自身も厳しい雇用環境の中で戦いながら作品を書き続けておられましたから、自分の環境のせいにして小説が書けなくなったと絶望感を抱く山瀬の心が浮上するきっかけにならないかと考えてのことでした」

「なるほど。小倉さんは確かに自分の執筆活動に真摯に向き合っておられる方ですから適任だったでしょうね。けれどもその助言が厳し過ぎたということなんでしょうか」

「いえ。そうではありません。確かに山瀬は小倉さんから厳しいお言葉をかけられたりしていたようですが、私には、本当に救いになると申していました。山瀬が薬の過剰摂取で死ぬことになったことと、小倉さんとは関係ありませんね。小倉さん自身は、もっと自分がうまく対応していれば何とか救うことができたのではないかと、責任を感じていらっしゃいますが、小倉さんの存在がなかったら、山瀬はとっくに自分から死ぬことを選んでいたでしょう。薬の過剰摂取の副作用から鳥にでもなった気分で三階の踊り場から空に羽ばたいたことは、不幸ではありますが、絶望に押しつぶされての自死よりは、よほど山瀬にとっては幸せなことだったはずです」

 私は鳥となって空に羽ばたいた山瀬さんのことを思った。ほんのちょっと歯車が狂っていれば、私も山瀬さんと同じようにビルの屋上から羽ばたいていたかもしれない。

「高松さんはご自分の夢をどんな風に処理されたのですか。小説に何らかの夢はもたれていなかったのですか」

「小説に、夢?」しばらく考える風をみせてから「それはありませんでしたね。この今のNPO活動のようなことをやりたいとずっと思っていました。小説を書いていたのは、今から思えば、この夢への助走のようなものだったのだと思います。でも小説を書くという行為を経験してなかったら、この活動は成功していなかったとも思います。だから、私は小説の助力を借りて、夢が叶ったしあわせものということですね」

 そう言って笑った高松さんの笑顔は、本当に若々しく、輝きに満ちていた。


 自宅に帰ると、選考の締め切りが迫っていることもあって、書斎にこもって選考対象者から提出されていた未読の小説を読んだ。既読のものも含めて、全作品の評価レポートを週末までには仕上げるつもりだった。仕事以外の時間はすべて注ぎ込んで臨んだけれど、そのレポートが完成するには三日ほどもかかった。それが完成したタイミングで河西さんへ電話を掛け、週末に会う約束を取り付けた。


 千秋の住む街で蝕蛾が起こった。

 空はCGのように、鮮やか過ぎるほどに晴れ渡って、何一つ降ってこなかった。

 これほど近くで蝕蛾が起こったのは初めてだった。ネットに上がっているその蝕蛾の情報を集めた。裏サイトも片っ端にあたってみると、蝕蛾が起きた番地の記述もあった。信憑性には欠けるが、その情報もメモした。蝕蛾の起こった場所に行ってみるつもりだった。

 車を走らせ、記述されていた番地付近に車を止めた。イメージとしてはクレーターのように土地からざっくりえぐられているものを想像していたがそのような場所はなかった。

 小一時間ほど歩いて、ネットの情報が確かならば、ここだという場所にたどり着いた。ただそこには何もない。番地が終わり、続くはずの丁目もなく、別の地区の住所が始まっていた。蝕蛾とは、嵐や竜巻のようなものでなく、その存在自体が消えるものなのだろうか。消えた後は、何事もなかったかのように縫合されたおしまいというような。

「あっ、お父さん」

 明るい声が響いた。振り向くと、千秋がすぐそばに立っていた。ここで出会うかも知れないという予感はあった。

「どうした。買い物か」

「ううん。運動」

 ついこの間までの重く沈んでいた千秋ではなかった。明るさが前面に出ている。

「何かいいことでもあったのか」

「うんうん。すごくいいことがあったの」

「うん。いい笑顔だ」

「あのね。不妊治療で日本で五本指に入るという先生が九州にいらっしゃるの。この前その先生の診察が受けられたの」

「そうか。それはよかったな」

「うん。すごくよかった。それまでは多くのお医者様から子供は無理だって言われてたでしょ。それがその先生は違ったの。理由がわからないものならどうしようもないけれど、障害が何かがわかっているのだから治療はできますって。私がきっとお子さんが産めるようにしてあげますって」

 千秋の笑顔がきらきらと輝いてまぶしかった。わたしもうれしさで、胸の奥にずっと引っかかっていたものが溶けて消えたような気がした。

「今度手術を受けるの。それだけで何もかもが解決するわけじゃないけど、確実な一歩が踏み出せる。その先生からのアドバイスで日頃の運動もするように、って言われて。だから毎日歩いてるの」

「そうか。うまくいくといいな」

「うん。きっとうまくいくと思う。で、なんでお父さんがここにいるの」

「ここら辺りで蝕蛾が起こったというから確かめに来た」

「しょくが? それって何」

「よくネットニュースに載っているじゃないか。町が消えてしまう現象だよ。世界中で起こっている」

「ああ。千秋はネットやらないからなぁ。でも町が消えるって、怖いね」

「うん。今回消えたのは、まさにここなんだけど、何か変わったこととかないかな」

 千秋は辺りを見回した。

「ここはウォーキングで通るだけだからねぇ。何も変わってないと思うけど、そんなに細かく見ているわけじゃないからねぇ。変わったんだって言われると、なんか雰囲気が変わったみたいにも思えるけど、確信はないな」

 人の心が変われば、見慣れた町も違って見えることがある。蝕蛾とはその心の側に関する何かだったのだろうか。いずれにしても、これ以上ここにいても、蝕蛾に関しては何も見つからないことは確かなことだと思えた。

 ただし、そんなものよりも、蝕蛾を追ってきたことで、もっと大切なものを見つけることができていた。それは、世界を一変するほどの喜びにあふれたものであった。

「体を大切にするんだぞ」

「お父さんもね」

 わたしは千秋と手を振り合って別れた。


 週末の土曜日。桜並木で有名な神禅寺川の河原土手を歩いていた。せっかくの春なのでどこか外で会いたいと河西さんが希望したからであった。もう桜の季節も終わりで、わずかな風に花弁は散り、途切れることなく舞っていた。ふたり肩を並べ、そんな桜が舞い散る中をゆっくりと歩いた。早くも土手いっぱいにはびこった草からは、生命のたくましさを感じさせるむんむんとする匂いが立ち登っていた。

 きょうの河西さんは、幾何学模様がプリントされたノースリーブに、日よけのためか薄いレースの前が開いたベストのようなものを羽織っていた。

「山瀬さんの事件を通して小倉さんへの印象は大きくかわりましたが、それでもまだ原稿紛失事件の方は何の解決も見ていないわけで、これからがまた大変です」

 私は意識してゆっくりとしゃべった。

 反対側からトレーニングウエアを着込んだ中年の男女が大きく手を振りながら並んで歩いてくる。流行りのウォーキングなのであろう。夫婦であろうか。そう思うと、他人にはこうして並んで歩いている私たちはどんな風に見えているのだろうかと思った。外から見える事実があり、内面にもぐりこまないとわからない真実がある。そのすべてを見極めるのは至難のわざである。

「この前も申しましたが、私は小倉さんが原稿を抜かれるようなことはないと、今も思っていますわ」

「けれども他に考えようもありません。なぜ原稿が五枚なかったのか。初めからなかったのですから、小倉さんが抜いたとしか考えられません」

「そうですね。確かにそこは不思議なんですけど」

 遥か河口側の鉄橋を二両編成の電車が渡っている。ゆらゆらとゆれてまるで居眠りでもしているかのように見える。そののどかさが少し心をほぐしてくれた。

「ときに、前の事務局をなさっていた高知さんが亡くなられたのは御存じ?」

 初耳であった。今回、会う人会う人が十二年の隔たりなどまるでなかったかのような応対をするので、私もすっかり忘れてしまっていたけれど、私には確かな空白があることを思い出した。

「いつのことですか」

「もう七年になりますわね。覚えておいででしょうか。高知さんは定年退職する日を本当に心待ちにされていました」

 確かにそうであった。高知さんは県の外郭団体の職員で、定年退職をしたら、毎日本を読んで、何かを書くだけの生活をしたいのだとよく話されていた。その日まで後何日なんだよ、と指折り数えられてもいた。

「来月で定年というときに、やっと迎えられる定年後に備えて、念のためにと人間ドックで検査をされたのですが、そこで病気が発見されたのです。もはや手遅れでした。それからたったの二ヶ月で逝かれました。ついに定年後に書くはずだった作品を一作も書かれないままで」

 あれも書きたい、これも書きたいというようなことはよく言われていた。本格的に書く日のために創作ノートも丹念に書き込んでおられた。

「そのお葬式に参列したときに、自分の本を出版しようと決心いたしましたの。自費出版ですし、費用もけして少額ではなかったのですけど、ここまで生きて、がんばってきた自分へのご褒美にしようって。死んでしまう前に夢は叶えておこうって。だから最初は一冊だけのつもりでしたの」

 桜吹雪が止んだ。いつしか桜並木は通り過ぎていた。河西さんが河川敷に降りる階段をみつけて腰掛けた。私もそれにならった。

 しばらく河西さんの著作の話をした。最新刊は、自らの半生記であった。私はそれが一番心に残ったと話した。その言葉を受けられた河西さんの表情は柔らかな笑みに変わった。

「そんな風に読んでいただけて、しあわせですわ。ありがたく思います」

 心のこもったお礼であった。

 やがて話題は同人誌の出版候補作選考に関することに移った。それぞれがレポートにまとめていた、読んだ作品の感想を述べ、河西さんが私の知らない作者の執筆状況を説明してくれた。

「河西さんからの、他の候補者である同人や会員さんの執筆状況の報告をお聞きしても、やはり小倉さんの作品が頭一つも二つもぬきんでているように思います」

 私は最後にそう言った。

「ぜひ拝読したいものです。今回の問題が穏便に解決すればいいのですが」

 風に乗ってきたものか、一片の花びらが舞ってきて、河西さんの髪に止まった。

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