第24話
なりを潜めていた蝕蛾が、爆発的ともいえる連鎖になって世界中で起こり始めていた。
世界にはこれほどまでに、しあわせや喜びや希望や愛が、満ち満ちていたというのか。
処理しきれない今日の苦しみを飲み込んで、ほんのわずかでも明日が良くなることを祈りながら眠りにつく人は、どんな夢をみるのだろうか。そして、彼らに蝕蛾は見えるのだろうか?
昼過ぎに、千秋の旦那様の啓太君から電話がかかってきた。
妻のほうには頻繁にメールなんかがくるようだが、わたしに電話がかかってくるのは珍しかった。
千秋がすっかりしょげているのだけど、啓太君は今夜は仕事でどうしても外せない飲み会があり、アパートに千秋ひとりにしておくのが心配なので、訪ねてきて話を聞いてやってはもらえないか、という要請であった。
千秋は「結婚しさえすれば、普通に子供は授かれる」ものと、疑うことなく信じ切っていた。
けれども、なかなかその兆しがないため精密検査をしたところ、妊娠しにくい機能的問題があることがわかっていた。
その事実がわかった当初は、わたしの書斎を訪ねてきて、泣き崩れたりもしたが、啓太君の愛情に満ちた励ましもあり、今ではその障害を乗り越えるべく、婦人科にかかり、妊娠の可能性を高める処置を受け続けている最中であった。
無理を言って仕事を早めに切り上げさせてもらい、妻と二人で、千秋たちの新居を訪ねた。
千秋は、訪れたわたしたちの顔を見ただけで涙ぐむほどに弱っていた。
話を聞いてみると、最初に受診していた婦人科医から、そんなに頻繁に通ってきても劇的変化は起こりませんよ、と言われ、自分のなんとかしたいという努力は無駄なのかと思ったとのことだった。
「何度か転院もしたんだけど、どこでも同じようなことを言われて。そして先週、ついに妊娠は無理ですね、と今受診しているお医者から宣告されてしまったの」
千秋が涙ながらに話すのを、こみあげる感情を抑えて、そのひとつひとつにうなずきながら聞いてやった。
「それは本当につらかったね」
わたしにできることと、言える言葉は、それだけであった。
そのふたつを阿呆のように何度も何度も繰り返した。
すると心の深い部分で千秋と同化したという感覚がやってきた。そうなるとわたしも、自然とこみあげてくる涙をどうすることもできなくなった。
千秋は嫁に行ったとはいえ、もともとの家族三人が、寄りそうようにして静かに泣き続けた。
小さな駅で降り、岬めぐりのバスに揺られて到着した海の見える丘は、想像していたよりもはるかに美しかった。
このようなものは大概が期待はずれに終わるので、最初からあきらめ半分で居たことが功を奏した形である。
西側が少し小高くなっており、そこに東屋が見えた。私はそちらに向かって歩き始めた。
東屋からの展望はさらに美しかった。春霞のかかった海は、まるで夢の中の風景のようであった。
私はポケットから携帯灰皿を取り出し、たばこに火をつけた。
たばこをくゆらしながら東屋の柱に近づいていく。見るともなく顔を向けたとき、柱に書かれてある無数の落書きが目についたからであった。
大概は若いアベックの好きだの愛しているだの、相合傘だのの落書きであった。それでもずっと見ていくと、落書きといえども読み応えのあるものが交じっている。
出会いから別れ、そして離れてみて初めてかつての恋人のよさに気づいて、もう一度やり直させて欲しいとの告白に、自分もそう感じていましたと答えているものなどは、単純に陳腐だと言い切れない切実さを持っていた。
ひととおり見終えて、崖になっているほうの東屋の潜り窓から外を眺めた。
やはり春霞の海が広がっている。
私はその景色を見ながら大きく伸びをした。その拍子に、その崖側に面した柱にも落書きがなされているのが目に留まった。
私は外に回り、崖から落ちないように東屋に手をかけて、そろりそろりと先ほどの潜り窓の所まで進んだ。
つい今しがた読んだような読み応えのある落書きではと期待していた。
たどり着くと、そこに書かれた落書きをさっそく読み始めた。
すぐに衝撃が走った。
そこに記されている文体に心当たりがあった。
たぶん間違いない。
私は上から下へと読み進んだ。最初の文章の返信のような新たな文章が次に始まっている。
こちらの文体にも覚えがあった。
ふたつまとまって書かれていることから、よけいにその文章から想起したふたりの人物が、私の思っているふたりに違いないことを指し示していた。
「こんにちは」
突然声がして、危うく私は崖側に歩を進め、落下してしまいそうになった。
「大丈夫ですか。驚かせてすみません」
私は心臓の鼓動が早くなっているのを感じながら、声のする方に顔を向けた。
三十代半ばくらいの男が立っていた。
背は標準的な高さであったが、肩から胸の筋肉が際立って発達していることが背広の上からでもわかった。
どこかで見かけた顔のようだが、それがどこなのか思い出せなかった。
その後ろに老年の男が同じように背広を着て控えている。
「そこじゃ危ないし、こちらに戻ってこられませんか」
「どこかでお会いしましたでしょうか」
私がそう声をかけると、とにかくこちらへと促された。
安全な場所まで私が戻ると、男は背広のポケットから手帳を取り出した。警察手帳であった。私は差し出された手帳と男の顔を何度も交互に見た。
「先日もお会いしましたよね」
男はそう言うと笑顔になった。
つい今しがた見た落書きの犯人の名前が頭の中で渦となっていた。
そのふたりとは、山瀬さんと高松さんであった。
山瀬さんの小説。そのラストシーンの場所のパンフレットを作った高松さん。そのまさに接点となった場所にふたりの落書き。
山瀬さんの死。女の影。口論。私の連想は、最後に小倉さんに行き着いた。
それでやっと目の前の男をどこで見たのか思い出した。
小倉さんと『風花』で対峙したとき、店内にいた男のひとりであった。
「ちょっとお話をお聞きしたいのですがいいですか」
男は笑顔のままで私をみつめている。ただその目には鋭い光が宿っていた。
後ろに控えていた老年の男が手帳にメモできる態勢になって、私の返事を待っていた。
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