第23話
慣れたもので、桜子は私を起こし、布団から這い出た私の前に、いれたばかりのコーヒーの入ったマグカップを差し出した。
一口飲む。
短時間の睡眠ではあったが、頭はすっきりしていた。気持ちがのっているときはこんなものである。何度も経験済みのことであった。
マグカップを持ったまま居間に移動し、ゆっくりとコーヒーを飲みながら携帯電話を操作した。
山瀬さんの昔の短編小説のことについて確認したのだった。
短い小説であったが、その中で描かれている、海の見える丘の描写が秀逸な作品であった。その丘は実在しており、山瀬さんの小説によって興味をそそられた同人が何人か、その場所を訪れるということまで起こった作品である。
当時その丘の描写に私も感銘を受けたが、それと同時に、死んだ主人公の愛人がその丘から海を見続けるラストシーンが印象的であった。
その海の見える丘を訪ねてみようと思っていた。
河西さんにそのことを告げ、同時に少し話したいこともあるので、お会いしたいとメールで申し込んだ。待つほどもなく承諾の返信があった。
河西さんの自宅からの距離。河西さんに出来るだけ負担をかけない。待ち合わせ場所で偶然に同人誌の知り合いに出会わない。この三点の条件から私は、福岡さんと長崎さんとの三人でよく通った『スワン』を待ち合わせ場所に指定した。
私が店に着くと、すでに河西さんは席について待っていた。きょうはこれまでとは雰囲気がすっかり違う、暗い色合いの服を着込んでいた。
簡単な挨拶をして、飲み物のオーダーはしたのかと訊くと、ホットコーヒーを頼んだとの返事があった。私が手をあげて店員を呼ぼうとすると、まだ頼んでもいないのに私の前にトマトジュースとタバスコが運ばれてきた。
福岡さんと長崎さんと通っているときは当たり前になっていたことであった。これだけ年数が経っているというのに、店側が私のことを覚えていたのは驚きであった。
「どういうことですの」
河西さんが訊いてきた。
トマトジュースの秘密を話した。
「そうなんですか。福岡さんと長崎さんとでねぇ。まぁ、記憶の中ででも、よく三人でいらしたという印象が強いですけれど」
「あれから事件の方の何か新しい情報はありましたか」
「それが、どうも女の人の影があるみたいなんです。もっとも警察の捜査の邪魔にならない程度のゆるいゆるい調査から仕入れた情報ですが」
「女の影ですか。山瀬さんと小倉さんを挟んで女の関係なんて、まったく想像もできませんけれど」
「私もそうなんですけど、同じ女性が、山瀬さんとふたりでも、小倉さんとふたりでも、話しているところを見たという方がいらっしゃるんです」
「信頼がおける方からのものなのですか」
「ええ。嘘をおっしゃるような方ではありません。それに目撃情報が具体的で、さらに信憑性が高いと感じています」
「なんだか嫌な方向に進んでいる気がしますね。それにしても、山瀬さんと小倉さんってそんなに仲がよかったのでしたっけ」
「おふたりは、いつも渾身の作品を同人誌に投稿されていましたから。お互いそれがわかるからでしょうか、同人誌の会合なんかでは割とよく話をされていましたね」
「そうですか。いやぁ、見ているようで何も見ていなかったとはこういうことですね」
「だっておふたりにとっては、和瀬さんは共通の敵でしたから。そんな場面は見せないでしょうね」
「私が共通の敵なんですか」
河西さんは私の目を覗き込んだ。
「和瀬さんは、本当に自分をかけた作品はついに私たちの同人誌には一作も投稿なさいませんでしたよね」
私の頬が熱を持っていくのを感じた。
河西さんは黙り込み、私の返事を待つかのように間をとった。
けれども私は言うべき言葉がみつからなかった。
やがて河西さんは、
「大体この辺りかと、ご自分で勝手に思われた同人誌の身の丈に合わせた作品を、まるでおつきあいかなにかのように投稿されただけでした。いつか本当の作品が読めると思っておりましたから、そのまま退会されたと聞いたときは、肩透かしをくらったような感じでした」
確かに私には、意図してそのような作品しか書けない理由があった。しかもその理由はけして他人には語れないことでもある。となると、何を言ってもいいわけにしかならないと思えた。
私はトマトジュースの入ったグラスを手に取り、一気に半分ほども飲んだ。
河西さんには、それが私の答えだと思ったようで、
「長崎さんが同人誌の後継者問題を口にされていましたけれど、その対象者は和瀬さんではありません。確かに後継者問題は深刻ですが、事務局が退会を惜しんでおられたのは高松さんです。同人誌の将来を託せる人材であったのにと」
高松晶子。才筆の人であった。思うままに筆を振るうだけで、そのまま物語をつむぎだせるようなすごさがあった。
私と同年代の書き手である。私が退会したのとあまり時をあけず、個人的理由で退会したと聞いていた。今も書いているかどうかは知らないけれど、それとは別にNPO活動で名を馳せていた。彼女の才能は小説だけに留まらず、それほどに豊かなものであった。
「でも今回、企画の予備審査のお仕事をしていて気づいたことがありますの。私が企画の選考のことで候補者の方たちにお会いすると、たいがいの人が和瀬さんは? とお聞きになりますの。みなさん和瀬さんを覚えていらっしゃるんです。
最初は和瀬さんの文学の才能からなのかと思ったりしたのですが、どうもそうではなくて、肌合いと言ったらいいのでしょうか、和瀬さんは私たちの同人誌の中で異分子であって、そんな和瀬さんに何かしらの期待のようなものを、みなさんが感じていらっしゃっていたんだと気づきましたの」
「異分子に、期待ですか」
私はそう呟いた。すると、ある出来事を思い出した。
物心ついた頃から「お前は変わっている」という言葉を言われて続けて育った。
母親もそう言ったし、父親、兄弟、親戚、隣近所と、私と関係するほとんどの人々が私にそう言った。
小学生の四年生くらいになると、私はその言葉に拳で答えるようになっていた。
それは面と向かってかけられる言葉の抑止力にはなったが、私がいない場所ではより私の特異性が喧伝されることともなった。
高校生になると、それを隠すということを覚えた。
私はできるだけ他者と交わらない生き方を選んだ。それがまた周りの多くの者たちから、異分子と見られることにもなっていた。
そんな私でも、妙な縁があって、四十年以上つきあいが続いている友だちがいる。
そいつからあるとき、話があるといって呼び出された。
会うとすぐにそいつは、
「牧村が仕事で大きな失敗をしてしまってね。ひどく落ち込んでいるんだ。だから、会ってやってくれないかな。少しでいいから力づけてやって欲しいんだ。このご時勢だろ、もしかしたらこのまま仕事を失うかもしれない。まだ子供の手もかかるというのにさ。だから頼む」
と言って、頭を下げてきた。
牧村は共通の知人であった。私とはそれほど深いつき合いもなかった。
「俺なんかが声をかけたらかえって嫌な気分にならないかな。心の傷をさらにひろげちゃったりしてさ」
自分に自信がなかった。
こんなつまらない人間に、誰かを力づけるようなことは出来やしないと思っていた。
もっと言えば、会うこと自体が怖かった。
友だちはまっすぐ私の顔に視線を向けていた。
その顔が紅潮していく。怒っていることはすぐにわかった。けれども何を言ったらいいのかわからなかった。
「自分のことを自分でつまらないやつだみたいに言うなよ。そんなつまらないやつを友だちにしなければならないほど俺はダメなやつなのか。俺をバカにするんじゃない。きょうは帰る」
そう吐き捨てると友だちは去っていった。
その夜にその友だちからメールが来た。
電話だけでもいいから頼む。それだけのメールだった。
私は牧村に電話をかけた。しばらくどうでもいい話をして、電話を切ろうとしたときに牧村が言った。
「心配してくれて、ありがとな。俺、もう一回がんばってみるよ。ほんとにありがとう」
この出来事から以後、自分のことをつまらない人間だと、自分で思うことはやめることにした。
こんな私でも誰かの役に立つときがある。異分子だからこそ、より強く届く気持ちや言葉がある。異分子にしかできないこともあるのだと、ようやく私は思えるようになっていた。
私はネガティブな思考に沈んでいた己を恥じた。
自分を蔑むことは、自分に関わるすべての人の価値を、一方的に貶めることでしかない。
そんな権利こそ、私にはない。
窓の外を見た。陽に照らされた緑の揺らめきの中に、ホウジロのような鳥が飛び込んでいって、消えた。
「それは、ありがたい話です」
素直な気持ちが言葉になった。
「そうそう。山瀬さんがお書きになった海の見える丘に行ってみられるのでしたわね」
私の言葉に込めた思いは河西さんの心にも届いたようで、うれしそうな響きがあった。
会話は、同人誌での作品の話には戻らず、山瀬さんの書かれた海の見える丘の話に移っていった。
「急にどうしても行きたくなりましてね」
「そうお聞きして、それでそう言えばパンフレットがあったなと思い出しましたの。捜してみたら出てきました」
「パンフレットですか」
「ええ。これです」
河西さんは古い冊子をテーブルの上に置いた。
「奥付を見て、びっくりしたのですけど、これ、高松さんがお作りになっていました。あの頃、ちょっとしたブームでしたでしょ。海の見える丘を訪ねることが。そちらのほうはよく覚えているのですけど、このパンフレットを高松さんがお作りになったということは記憶に残っておりませんでした。不思議なものですね」
私は手作りのパンフレットを取り上げて開いてみた。見開きの左側に地図があり、右側に写真と文章が載っていた。写真は鮮やかな青い空であった。
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