第29話

※きょうは昔っから僕の放送を聞いてくれていたリスナーからのお手紙を紹介します。かなりの長文なんだけど、これは今伝えないと意味ないものらしいので、今、ただちに、読みたいと思います。他のリスナーのみんな、一緒に聞いててね。※


『春樹、元気ですか。

 家族から離れ、住所を隠し、一人で暮らしているとは風のうわさで聞いていました。春樹には春樹の事情があるのだろうと、今日までそれをただそのまま受け入れてきました。

 でも今、どうしても春樹に告げたいことができました。

 春樹の意見を聞きたいことができました。

 どうにかして春樹と直接連絡がつかないかと考えていて、この放送のことを思い出しました。

 昔よく話していたよね。この放送を聞きながら小説を書くと、どんどん筆が進んで、はかどるのだ、と。

 今でも小説は書いているのかな? 書いているなら、きっとこの放送をまだ聞いているよね。だって、春樹にとっては、神放送だものな。そして、きっと春樹なら、今でも書いているよね。それを信じてこの手紙を投函します。

 あの時、春樹が俺の背中を押してくれなかったら、俺は本当につまらない人生を送っていたと思います。

 そう。もちろん、かすみのことです。

 かすみが春樹の言うことは真剣に聞いて、俺の話は聞かないだけでなく逃げ出すのは、かすみが春樹のことを好きで、俺のことを嫌いなんだとずっと思っていました。春樹に言わせれば、ポンコツの鈍感、ってことになるんだけど。

 でもさ、あんな態度に出られて、それが俺のことが好きだからこそなんてこと、そんな小説か漫画みたいなこと、それこそ小説なんてものを書いたこともない俺にはわからないよ。

 あっ、また言ってしまった。小説を書いているとか、書いていないとか、そんなものとは関係ないんだったね。 あの時の春樹も、顔を真っ赤にして俺に怒鳴ってくれたよね。

 東京に行ったままで、盆にも正月にも地元に戻ってこなくなったかすみが、どんどん遠くに行ってしまったように思えて、もう俺なんかでは、どんなことしても手も届かなくなったんだと思って、荒れて、どんどん落ちていく俺の首根っこ捕まえて、あの朝の公園で、おまえに引きずられて頭から水道の水をぶっかけられたこと、忘れられないな。

 かすみを捕まえろ。そして絶対その手を離すな。

 春樹のあの時の言葉を守って、きょうまで頑張ってきました。

 うん。かすみを追って東京に出た俺をかすみが受け入れてくれて、さらには結婚までしてくれるとは、正直俺は思っていませんでした。

 かすみと過ごす毎日は、本当に幸せでした。

 かすみは俺と結婚しても、ずっと小説を書いていました。締め切り近くなって何日も徹夜で書いて、それでいて朝には仕事に行くかすみが、病気になりはしないかと心配だったりしました。

 本当にかすみは頑張ってきました。

 子供がいないことなんかも、ぜんぜん気にしていなかったんだよ、俺は。本当だよ。だけどかすみの方から、そろそろ子供作ろうか、って言ってきたんだ。

 そりゃ、そんな風には思っていなかったとしても、それはもちろんうれしいよね。

 でも、なかなか授からなくて、医者に見てもらったら、かすみは子供ができない体質だなんて。バカ野郎、って思ったね。クソ藪医者、って思った。かすみがどんな気持ちなんだろう、って。すごく悲しんでるだろうな、って。しばらくはそのことを話題にもできなかったんだ。

 そんなある日、かすみのデスクの上に、書きかけの小説が乗っていました。

 完成したら、読め読め、ってうるさいくせに、書いている最中の原稿を読まれるのはすごく嫌らしく、絶対俺の目にとまるところに書きかけの原稿なんて置かなかったくせに、変だなとは思ったけど、そのままにして読まないなんてできなくて、盗み読みしてしまいました。

 後から考えるとさ、それは俺に読ませるために置かれていたんだよね。だって原稿はプリントアウトされていたもの。パソコンのディスプレーに消し忘れで、見えてましたじゃないんだから、そんなことくらい気づけよな、ってなものです。

 かすみはそこに、妊娠が難しい体質の女性が、それでもあらゆる手を尽くして、子供を授かりたい、って、努力を続ける話を書いていました。何年も、五年も六年も、ただ一筋に努力する姿がそこにはありました。だけど物語はラストの部分で止まっていました。

 そう、子供ができたのか、ついにできなかったのか。

 それゃ、そうだよね。そのシーンは簡単には書けないよね。でも、かすみが用意していたのは、絶対ハッピーエンドだったと思うんだ。ついに子供ができました、っていうハッピーエンドか、子供はついに授からなかったけれど、多くの人たちの優しさに包まれて生きている自分を見つけだしました、とかさ。

 でもかすみは、どんなハッピーエンドを、そこに書いたらいいのか分からなかったんだと思う。なぜなら、誰に対してその小説を捧げるのかと、それは同じことだからね。難しい問題だよね。万人に受けるようには書けない。それはあたりまえとしても、残った読者の内、どの性質をもった人たちに向けて語りかけるのか。確かに悩むよね。

 それから数日経ってから、かすみが一緒に病院に行ってくれないか、と言ってきたんだ。俺たちの子供に関する新たなことなのかな、って思った俺は、間髪入れず「行く」って叫んで、激しくうなずいちまった。

 くそっ。それが、それが、だよ。

 かすみの体に病魔が巣食っていたんだ。

 くそっ。

 そりゃ、誰しも一度は死ぬけどさ、やっぱりこんな風に宣告されるのはショックでした。

 かすみは、絶対治して、絶対自分にしか書けない物語を、絶対それを待っている読者に届けるんだって、絶対の三段活用みたいに気丈に言ってるけどさ。今回も藪医者の方は、かなり難しい状態だと思っていてください、なんてさ。

 あっ、そんな闘病するかすみが見てられないとかで、春樹にこの手紙を書いているんじゃないよ。そこまで俺は情けなくはない。どんなことがあっても、かすみを守りとおすさ。それにかすみは絶対治る、って信じているしね。

 だけど問題は闘病してる、っていうのに、かすみが小説を書こうとすることなんだ。それもちょっと空いた時間で、さくさく、っていうなら俺も目もつむるけれど、書くからには全身全霊で、って書くだろ。俺にはそこのところの感覚がイマイチわからないんだけど、小説を書くことに真剣に向き合っている作者って、結構そうらしいじゃない。

 そこで春樹のことを思い出したんだよ。

 かすみに今、本当の本気の小説を書かさせていいのかな?

 そこだけ。

 そこだけ教えてくれよ。


 親愛なる唯一無二の親友、長崎春樹様


 真治より』


※春樹君、いや、もう、春樹さんだね。聞いていてくれましたか。もしも聞いていたら、真治さんに連絡してあげてください。頼みましたよ。お願いだよ。

 ではここでなつかしの名曲を聞いてもらおう。曲はサンドバードのシャボン玉に聞け、だ。※


 翌日、私の仕事の昼休み時間に合わせたように、福岡さんから電話がかかってきた。

「長崎のオペは無事終わったよ。後遺症の方はまだわからないが、命に別条はない」

「よかった。でも、後遺症が残るんですか」

「そうだな。残るかもしれない。けれどもそれがなんだ。やつは救われたはずだ」

「確かに。福岡さんが気づいてあげられたからこそですね」

「いや、そうじゃない。和瀬君に事件のことを、自分から話せたから、やつは救われたのさ。そんなことがなければ、昨日、あのタイミングで僕は長崎に電話なんかかけていない。さらには、事件の真相を君から聞いていなかったら、電話に出ない長崎をおかしく思って、やつのアパートにまでわざわざ行っていない」

 福岡さんの言葉が胸に迫った。どんな形であっても、もの書きであり続けるということは、それほどに覚悟がいるものなのだ。長崎さんも、福岡さんも、そんな時間を生きてきた。そして、そうとしか生きられなかった。

「小説の神様に救われた、か。神様の大安売りだって怒られるかもしれないけど、確かにそうかもしれませんね」

 私はかみしめるように言った。

「うん。そうに違いない。長崎は確かに下劣なことをしたが、それはそれだけやつが小説にかける思いが強かったという裏返しでもある。そのままであったなら、小説の神様に逆に取り殺されていたことだろう。だけどやつは、ぎりぎりのところで生還した。そうさせてやったのは、君。和瀬君だ。君のお陰で長崎の命は救われたんだ」

 福岡さんの言葉は大げさだと思った。けれども、大げさだけど、そこに真実が隠されているのならば、私が長崎さんの命を本当に救ったのならば、それはそのまま、私自身を救ったことにかわりない。

「わかりました。病院のことは、今は訊きません。だけど私が長崎さんに再び会う、そのタイミングは教えてもらえますか」

「ああ。その時がきたらきっと教える。ありがとう」

 電話を切ると、両の手を見つめた。震えてもいなかったし、手のひらに嫌な汗もかいていなかった。その事実が私を安心させた。


 夕方に仕事を終えると、帰宅せず、そのまま小倉さんの自宅に向かった。

 小倉さんはすでにリビングルームで待っていた。

「まずは原稿をもらおうか」

 開口一番、小倉さんはそう言った。

 私は原稿を差し出した。すぐに小倉さんはそれを読み始めた。読み終えると、

「なるほど。それで、なぜ原稿がなくなったのか、わかったのか」

 小倉さんの表情や口調からは、私が提出した原稿をどのように感じたのかは読みとれなかった。

「すみません。どうやら私の不注意で紛失したようです。お詫びのしようもありません」

 私は深く頭を下げた。

「ほう。どこで。どんな風に」

「眠たかったのでよく覚えてないのですが」

 私が考えてきた嘘を披露しようとすると、

「夢遊病でもあるのか。嘘はいい。そんなものを聞くと君を許せなくなる」

 私の言葉を遮るように小倉さんが言った。

「許していただけるのですか」

 小倉さんは感情の読みとれない表情のまま、

「原稿が消えたと言われて、そんなことをするのは君しかいないと思った。だが高松君のこと、そこから繋がった山瀬君のこと、あの一連の流れでの君の対応は見事だった。すると気持が落ち着いてきて、君には本当に思い当たるものがないのだと思え始めた。本当はどうなのか。それを知るためにこの原稿を書いてもらった。たぶん君は消えた原稿は読んでいない。読んでいて、この原稿を出してくるほど君は役者じゃない。この原稿は、本来のものを知らない人間の原稿にしか感じられない。ある意味では残された原稿にとてもよくマッチしている。いや、マッチしすぎている。原稿を抜いたのが君であるなら、まずこんなものは出してこない。だから君が抜いたのではないという証拠となりうる。しかしもちろん私も原稿を抜いてはいない。だとすれば、君に渡してから、君が確認するまでの間に誰かが抜いたか、そもそも君に渡した原稿にその部分がなかったか、だ。そうだね」

「お話しが正しければ、そうなります」

「君に渡してから第三者が原稿を抜いた可能性があるかね」

「限りなくゼロに近いと思います」

「なるほど。私の方には、第三者に原稿を抜くチャンスがあったと思える出来事がひとつだけある。そのことを君はすでに知っているね」

「いいえ」

 間を空けずに即答した。

「そうか。秘密にするか。それもいいだろう。なんにしろ、予定外のことが原因で、私の原稿は消えた」

 私は、はっとして小倉さんの目を見た。その目は意外にも穏やかな光を湛えていた。

「データは残っていないのですか」

「ない。手書き原稿がすべてだ」

「もう書けませんか」

「同じ文章は書けない」

 その絶望的な気分は理解できた。書けたと思ったものを失うことは、書けないままでいるよりもはるかに苦しくて辛い。

 小倉さんの奥さんが紅茶を持ってきた。

「やぁ、すまない。ありがとう。そこに置いておいてくれ」

 小倉さんは奥さんにねぎらいの言葉をかけると、テーブルに置かれた私のカップに、ティーポットから紅茶を注いだ。私は、次第に嵩を増す温かな液体を眺めていた。

「だが、私は書ける」

 唐突に小倉さんは言った。

「私にはあの作品で伝えたいことがあった。それをまだ誰にも伝えていない。これを読んでくれないか。ただし今度はこの場でだ」

 小倉さんは、あらかじめ用意していたらしく、コーナーラックの上から原稿の束を取り上げ、問題の箇所を開いてから、私の前に置いた。


 涙がこぼれ落ちた。

 本当に不器用な少年が、一生懸命自分をわかってもらおうと、何度も何度も話しかけようとしては、たったそれだけのことができずに、気持ちとは裏腹にそっぽを向いていた。

 それがわかっているのに、素直に受け止めてやれない大人がいた。わかるよと、言葉でも態度でも伝えてやることもできず、唇を噛みしめている大人がいた。

 私がさりげなく涙をぬぐうと、

「私の作品が出版されるかね」

 小倉さんが訊いてきた。

「私は推します。けれども、これほどの作品ならば中央に出しても評価されるのではないでしょうか」

「いや、その必要はない。これは同人の中で出版させたい」

「なぜこだわられるのですか」

「ずっと私を理解してもらえてないと思っていた。けれどもこの作品ならば、分かってもらえる気がする。知らない誰かのためには、これからいくらでも書ける。これはずっと私を見守ってくれていた人たちに宛てた物語なんだ。言いたいんだよ。ありがとう、と」

 私はテーブルの上のカップを取り上げ、紅茶を飲んだ。いい香りのするあたたかな液体は、私の中にゆっくりと染み込んでいった。

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