第20話
その日から以後、何度も検査をしたが身体の機能的には異常はみつからなかった。けれども症状はその後も度々出た。いやいっそ頻度は増えていった。
かかりつけの内科医から総合病院への紹介状をもらって、祈るような気持ちで診察に向かった。脳神経外科から内科に回され、最後に精神科に回された。
「たぶんパニック発作だな」
理由はわからないけれど、女性の看護師を膝に乗せたひげ面の四十台と思える精神科医はにやにやとした笑いを浮かべて言った。
「治る薬はありますか」
「ない。コーラーを飲めば治ると信じられるのならばそれでも治る。本気でそう思えればの話だがね」
絶望的な気分になった。その発作のおかげで仕事も出来ない状態であった。
「ある種の抗不安剤によって抑制できるという説も発表されているが、俺はそんなもののために薬を出すのは好まん。わかるな」
「わかるって、何をでしょうか」
「俺は彼女とこうしている。そんなときいい大人ならどうするね」
「どうするって」
「俺ならそこのカーテンを閉めて、さっさとここから出ていくがね。恋の邪魔はするもんじゃない。そんな無粋なことをする阿呆はとっととくたばっちまえばいい」
それがその医師なりの治療の一環であったのかどうかはわからない。
けれどもわたしは言われたようにカーテンを閉め、ゆっくりと歩いて病院を出た。
その翌日、個人経営のメンタルクリニックを訪ね、発作を抑える効果があるとされる抗不安剤を処方してもらった。
発作が起きたらその薬を飲み、三十分くらい、それこそ死んだようにぶっ倒れていれば、治まっていくことに気づいた。
朝昼晩と予防的に薬を飲み、それでも発作が起こりそうな予感がすれば、さらに頓服的に薬を重ねる。
そのような処置によって、なんとか一日、発作なしでおくれるようになった。そうなれば、もはや療養などとゆっくりしている暇はない。家族の生活を支えるためにすぐさま職場復帰した。
その後は、仕事を終え、自宅に帰ってほっとすると発作がやってくるようになった。
なぜそのタイミングで発作が起こるのか医師も首をひねった。逆ならばわかるけれど、と。「それでも仕事はできているのだから問題ないと思いましょう」と医師は結論づけた。
仕事を終えると、書きものでもしようかと思う。書こうとする。発作がやってくる。薬をかみ砕き、死んだように横になる。
そのサイクルを何度か経験してから、これは大いなるものからの、契約を破ろうとしていることに対する警告なのだとようやく悟った。
書くことを差し出したくせに、またぞろ書こうとしている。発作が起きるタイミングこそが、それをわたしに知らせていたのだ、と。
大いなるものとの契約の部分は隠して、かかりつけのメンタルクリニックの医師に、書くことと発作の関連性を相談した。
「書くことで症状が軽減することもあります。心の解放を目指して、実際そのような仕組みを使っての治療法もあります。しかし、鈴木さんの場合はどうもよくないようですね。何か隠された欲求が心の奥にあるのだと思いますが、あなたにとって書くことは、症状を引き起こすトリガーとなっているようです。書くことはやめておくことをお勧めします」
医師の宣告は、大いなるものからの返答なのだと理解することにした。
その後は、薬を飲み、やっと手に入れられる精神的均衡のなかで仕事をし、生活をした。
書きたいという気持ちは心の中にずっとあったけれど、実際に書こうとする行為は意識して止めた。
病と闘いながら、生活のために働く。いつしかそれが当たり前の姿になっていた。そのように生活がひと段落ついてやっと、一番大切なことに気持ちが向いた。
わたしが大いなるものとの約束をたがえて小説を書いたことで、その約束によって命を救ってもらった少年に影響はなかったのか、と。
それこそが一番先に意識が向かわなければならないことのはずだった。自分のことばかりで、肝心のことへの意識がすっかり抜け落ちていた。
わたしは少年の今を確認すべきだと思った。
だからすぐに行動に移した。
事件当時の少年の家を訪ねてみたが、引っ越しをしていた。
少年の父親が働いていた会社を思い出し、そこに向かった。少年の父親は退職していたが、その職場のとある人物から、手掛かりとなる新しい住所を入手することができた。
その住所に示された街に向かうために駅に向かった。
わたしが駅に着くと、ちょうどそのタイミングで黒ずくめの背の高い男が現れて、これ以上の追跡をやめるように言ってきた。
「あちらさんは、過去を捨てて新しく生きなおされていらっしゃるのです。一番顔を見たくないのが、ほかならぬあなたというわけです。あなたとの関係はもうすべて切れております。ここは、そっとしておいてあげてください。」
「元気にはしていらっしゃるのでしょうか」
わたしはすがりつくように問うた。
「それを聞いてどうなります。何かがあったとして、あなたに何かできるのですか」
わたしは少年の追跡をそこまでで終えた。
わたしには、男が言うように、少年を追ってその今を知る権利も、何かを与える力もないと思えたからに他ならなかった。
ただ、わたしとの関係がすべて切れているという言葉に、救いを求めた。
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