第19話

 その光景に背中を押されるようにして、以前にも増してのめり込むように小説を書いた。そんな日々の中で、あの、小説を書くということを、大いなるものに差し出すこととなる事件が起きた。


 アルバイトの少年が、まだ原料攪拌タンクの中で作業をしていることに気づかず、わたしはテスト運転のために攪拌フィンのスイッチを入れた。たちまち大きな異音と絶叫が聞こえた。スイッチを切り、タンク上部に駆け上がった。タンクの底に、血に染まった少年が倒れていた。血の気が一気に引いた。足が震えた。世界から音が消えた。

 救急に通報したはずだが、その後の記憶はない。

 気がつくと、今夜が山だと宣告された、包帯を体中にまかれた少年が横たわっているベッドの横にいた。完全看護でもあるし、さらには息子の危篤の状態をじっと見ているのは辛すぎるということから、少年の両親は帰宅していた。その両親から、自分がやったことをはっきり自覚しろと、なかば罰として、その夜、少年に付き添うことを義務付けられていた。


 わたしは手を合わせ、懸命に少年の回復を祈った。せめて命だけはお救いくださいと、神か仏のようなものに向かって祈り続けた。

 真夜中を過ぎ、午前二時になったとき、突然わたしの中に直接語りかける声が聞こえた。声と言ったけれど、直接の思念が入り込む感じであった。

「その少年を助けたいか」

「助けてもらえるのですか」

「おまえの一番大切なものをもらう。それでもよければ」

「何でも差し上げます。お救いください」

 声は、天使か悪魔か、いずれにしろ天のように大いなるもののものだとわたしにはわかった。そして、わたしが差し出したものは、小説を書くということだ、とも。

 天井もある病室だというのに、突然高い天が現れて、はるかその天空の雲間から一条の光がゆっくりと降りてくると少年を包んだ。まるで光る繭のなかに少年が横たわっているように見えた。数分間その状態が続き、やがて唐突に光は消えた。

 薄暗い病室で、わたしは手を合わせ、あふれる涙を流し続けていた。


 翌日、少年の意識が戻り、命は救われた。


 その日から、大いなるものとの契約を守って、わたしは小説を書かなくなった。少年の命を救う対価としてそれを支払った。その簡潔な事実だけを心に刻んだ。小説を書かないことでの苦痛は感じなかった。本来あったものが、根こそぎ失われたかのような、空虚感だけがあった。

 少年と彼の両親が損害賠償額の決定について調停を申請し、それは裁判となり、その結審までに五年の月日を要した。


 その間、わたしの時間は止まっていた。何を思い、何を感じていたのか、今ではほとんど思いだせない。

 ただそんなわたしを支え続けてくれた女性とその間に結婚をしていた。

 損害賠償も払い終え、少年も大手メーカーに無事就職したとの連絡を弁護士からもらって、やっとわたしの緊張が解けた。

 ちょうど三十歳の誕生日のことであった。

 もはや、頭の中に浮かんでいた、出版した本を抱える、この日の己の姿はよみがえりもしなかった。

 体の力が一気に抜けた。その弛緩を感じたことで、己が緊張で体を固くしたままで、この数年間生き続けていたことに、いまさらながらに気がついた。


 呆けたように部屋に坐り、ここまでの月日に漠然とした思いを巡らしていた。すると、突然書きたいという欲求が膨れ上がってきた。のどはずっと渇いていたのに、その渇きに気づかないでいたかのように、その欲求は有無を言わせぬ切実さでわたしに迫った。

 部屋の隅にあったノートを引っ張り出し、筆の流れるままに書きつけてみた。それは激しい渇きに対して水を与えたようなものだった。

 一度与えてしまうと、もはや止めようもなかった。

 わたしは我を忘れて書き綴った。わたしの中にたまりにたまっていたものを書きに書いた。

 そんなことをしばらく続けていると、突然全身が震え、汗が吹き出し、呼吸も苦しくなって、すぐにでも死んでしまうのではないかと思うような発作がわたしを襲った。

 己自身では動くことすらできなかった。妻が呼んだ救急車で病院に運ばれた。病院に着くと、いくつかの緊急検査の後で、精神安定剤を注射され、わたしは眠った。

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