第16話

 少し遅れた桜が七分咲きとなり、トンネル状になっている道を河西さんの車で通り抜けて行った。

 長崎さんは、二十二年前、初めて会ったときすでに自宅とは別に執筆専用の部屋を持っていた。さらには、いつも最適な環境にいられるようにと、何度も転居を繰り返してもいた。

 もともとは県庁マンである。たまたま恋に落ちた今の奥さんの実家が、超がつくほどの資産家で、役人に対して偏見があったために退職し、小さな不動産会社を興した。自分の家族を養えればいいと思っていたし、仕事の種類そのものには、さほどのこだわりもなかったとのことだ。けれども奥さんの実家はそこまで長崎さんが折れても、黙ってほうっておいてはくれなかったらしい。表でも裏でも仕事を世話し続け、さらには実務を処理できる番頭格の男まで送り込んできたという。そんな仕事に次第に身が入らなくなっていったからといって、責めるには当らないだろう。とうとう仕事は他人に任せきりにして、外に部屋を借り、学生時代に好きだった小説を、日がな一日書いて暮らすようになっていた。

「おお。やっときたか。さぁさぁ、あがれ。お待ち申し上げていたぞ。今日か明日か昨日か今日かってね」

 部屋のドアを開けた長崎さんは最初からハイテンションで、こちらの腕でも引きそうな勢いで私たちを迎えてくれた。長崎さんにすれば、十二年の隔たりなど、それこそ屁でもないといったところなのであろう。

「相変わらずですねぇ」私は笑ってから「書かれてますか」

 長崎さんが勧めてくれた座布団に座る。

「そりゃもう書いてるさ。書くしかやることないんだもん、あちきはさ」

 とびきりの笑顔である。美術館にでも飾っておきたいくらいだ。

 河西さんの方は初めての訪問とのことで、部屋の中や本棚に納められた本の背表紙なんかを興味深げに覗き込んだりしている。

「ああ、その辺のものは」

 いくぶん声を張って長崎さんが言ったものだから、河西さんは、びくん、と震えて、書籍に差し出しかけていた手をひっこめたのだけれど、

「どぉーぞ勝手に触ってやってください。遠慮はいりませんよ。なんでもお触りOKでぇーす」

 と続いたので、すっかり力が抜け、長崎さんの顔をまじまじとみつめてきた。

「河西さんは、長崎菌の耐性がなかったんですね」

 私はおかしさを堪えて言った。

「なんですの、それ」

「長崎菌というウィルスがいまして、いろんなものを冗談に変えてしまうんですよ」

 私の説明に、河西さんは目を大きく広げ、

「本当にいるのですか」

 長崎さんが大声で笑った。

「いるいる。ここにいます。それは、あちきのことでぇーす」

「まぁ」と河西さんは言ったまま、口をつぐむと、長崎さんをちょっと睨みつけるようにする。

「あんらまぁ。怒っちゃっやぁよ。嫌なのよってね」

「あっ、これ新作じゃないですか」

 私は、ひいきの作家の新刊が無造作に放り投げられているのをみつけて、声をあげた。

「あっ、読む? あちきはもう読んじゃったからあげるよぉー」

「本当ですか。嬉しいな。借りていきます。それから、そのあげるよは、そろそろ卒業にして欲しいなぁ」

「はいの、はい」

 まったく聞いてもいない調子である。

「すみません。ちょっといいですか」

 河西さんが真面目な顔をして言った。

「はい。なんでしょう」

 長崎さんは、おどけた表情のまま、姿勢だけを正してみせる。

「長崎さんって、確か、福岡さんと同い年でしたよね」

「ああ、学年は一緒だけど、福岡は早生まれだから、そういう意味では僕の方がお兄さんですね」

「なのに、その言い方って、ちょっと変じゃありませんこと」

「変って、何が、ですか」

「失礼ですけど、もうお孫さんも確かいらっしゃいましたよね。ふざけていらっしゃるのでしょうけれど、ちょっと度が過ぎてやしないかなって」

「あのですねぇ。普通は、とかってよくいう人がいますけれど、誰にとっても同じ普通なんてないんです。普通だっていうのは特別なんです」

「あっ、責めたつもりじゃなくて。いえ、責めてましたよね。どうしたのかしら私。なんだか、すみません。本当にすみません」

 長崎さんはほんの少し目をすぼめて河西さんを見てから、

「同人誌の合評会とかで真面目な顔をして文学論をぶっているのも僕ですけど、自分の部屋でこんな風にはしゃぐのも僕なんです。何も河西さんをバカにしているとかってことではないですから」

「そんなことを言ったつもりは」言葉を噛み締め「いえ。そうですね。大切な用で訪ねてきたのに、って私、思っていたのかもしれません。すみません」

「そんなに何度も謝らなくていいです。それじゃ、そちらの用の方から片付けましょう」

 長崎さんは立ち上がり、書棚の横の書類ケースからひと綴りの原稿を取り出すと、河西さんの前に置いた。

「これが最新作です。審査はこれでお願いします」

 小さく頭を下げる。あわてて河西さんも、

「はい。確かにお受けいたしました」

 頭を下げ返した。

「しかし、なんだかなぁ。和瀬君よぉ。本当に僕のところに来るのが遅すぎやしませんか」

「別にわざと後回しにしていたわけじゃないですよ」

「けどさぁ。福岡のところには初日に行ったんだろ。だったらさぁ」

「すみません。福岡さんの後に、小倉さんのところに寄ったから遅くなってしまって」

「そんな調子のいいこと言ってぇ。ほんとはすっかり忘れてたくせに」

 おどけて頬を膨らませてみせる長崎さんがおかしくて、声をだして笑ってしまった。

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