第15話

 やっと河西さんと合流できたのは、その週の土曜日の午後のことであった。最初に待ち合わせした、コーヒーの味が評判の店で向かい合って座っていた。

 私はこの前と同じく上下とも黒のジャージ姿である。河西さんのほうは、きょうはパステルカラーの柔らかな色合いのワンピースを着ていた。

「ずいぶん集まりましたねぇ」

 河西さんが手提げバッグから取り出した原稿の束を、私は手で撫でてみながら言った。

「どのお方も真剣に作品に向かわれていました。みなさん本当に書くことが生活の一部になっておられるんですね」

「見習いたいものです」

「あら、和瀬さんだって」

 そんなことはないと言おうとしたが、それより先に、

「小倉さんの作品、持ってこられました。どうでした。読まれたんでしょ」

 きょうは互いに原稿の受け渡しがあると分かっていたので、私は大振りのショルダーバッグを持ってきていた。そのバッグから小倉さんの原稿を、受け取ったときの紙封筒に入れたままで取り出し、河西さんのほうへ差し出した。

「これがすごい作品なんですよ。一気に読まされました。私の知っている小倉さんの作品とはかなり異なっていましたね。最近は作風を変えられていたんですか」

「特に気づきませんでしたけれど。なんだか不思議ですわね。そんなにいい作品なんですか」

 河西さんは、私が差し出した封筒を、催促したくせに、こわごわとした目でみつめているだけで手に取ろうとしない。

「ええ、すごくいいです。心に刺さってきました」

「和瀬さんがそこまで言われるなんて。なんだか嫉妬してしまいますわ」

「私はそんなすごい人じゃないです」と受けてから「けれども、一番肝心なところがないんですけどね」

「あら、あきらかに書くべきことが落ちているのですか」

「いや、そうではなくて、その部分の原稿が抜けているのです」

「それって原稿自体がないってことですか」

 河西さんは眉根を寄せて私の顔を覗き込んでくる。

「そうです。五枚ほどありません」

「そのこと、小倉さんにはお訊ねになりました」

「いえ、最初に気づいたときは夜も遅かったですし、その時は、翌日訊けばいいと思っていたのですが、次の日はとにかく仕事が忙しくて。その後も仕事に追われて、たった今まですっかり忘れていました」

「それってまずいですよ。そんな大切なことならばすぐに確かめないと。先方に報告していないなんて。すごくまずいと思います」

「あっ、いや。もしかすると、そういう趣向かもと思っていたもので。いや、しかし、おっしゃるとおりだ。これはまずいな」

 ものを書く人間にとって、原稿がどれだけ大切なものであるのか、充分に理解していたはずなのに、あろうことか、本当に今の今まで失念してしまっていた。作為的なものという連想がそのような心理状態にさせていたのかもしれない。

「気づかれたのは預かった当日ですよね」

「そうです。帰ってからすぐ読み始め、読み終わったときは午前零時を回っていました」

「もう一回ちゃんと探してみましょう」

「探すって、どこを、ですか」

「あの日、原稿はどこに?」

「河西さんの車の中にずっと置いていました。後部座席です」

 河西さんはさらにきつく眉根を寄せ、唇を噛んだ。何か言いたそうに見えた。私が、

「今から小倉さんに電話をかけてきちんと謝ります。電話番号を教えてください」

 と言うと、河西さんは少し考える風に間を空け、やがて手提げバックから候補者リストを取り出すと、私の前に差し出した。


「君が電話をかけてくるなんて、どういう風の吹きまわしだね。もう、最終候補作に私の作品を決めたという連絡かね」

 自宅の固定電話ではなく、携帯電話の方へかけた。小倉さんは怒った風もなく、ばかりか、機嫌がいい声のように感じられた。

「そうではないのですが、お話ししなければならないことができました」

「賞のことでないなら、他に君と話さなくてはならないことがあるとは思えないがね」

「実はお預かりした原稿に問題が出まして」

「なんだ。盗作だ、なんだと言いがかりでもつけるつもりかね」

 まだ充分余裕のある口調である。

「電話で申し訳ありませんが、実は」

 本題を切り出そうとすると、

「いや、説明はいい。会おう。どうも嫌な予感がする。明日の午後一時でどうだ。今からはどうしても外せない用がある」

「わかりました。明日の一時ですね。ご自宅にうかがえばよろしいですか」

「いや。自宅ではない方がいいな」

 小倉さんは、同人誌の合評会終わりに、有志が連れ立って二次会と称する雑談会によく利用していた『風花』という名の喫茶店を指定してきた。

「わかりました。では、明日の一時に」

 私が携帯電話をたたんでテーブルに置くのにあわせ、河西さんが、

「会われるのは、明日になったのですね」

 私の顔を覗き込む。

「今日は今から外せない用があるそうです」

「そうですか」

河西さんは少し考える様子を見せた。

「これから長崎さんと会う約束が取れていますが、どうされますか」

「じっとしていたって何かが変わるわけでもありません。というより、事の重大さに気づいた今となってはじっとしている方が辛いです。それに長崎さんならば気を使わなくていい。いっそ気晴らしにもなるでしょう。一緒に参ります」

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