第14話

 私は帰宅すると食事を断わってそのまま書斎にこもった。

 パソコンの電源を入れ、挿入したままにしておいたCDを再生する。作業用のBGMが流れ始める。そんないつもの環境を整えてから、座椅子にたっぷりと背をあずけ、小倉さんの原稿を読み始めた。

 小倉さんの小説にはいつも登場する、たぶん小倉さんの分身である少年がこの作品でも冒頭から登場し、物語を回していく。私が小倉さんの作品を読むのにブランクがあったせいか、なんとなく世界観が私の知っている小倉作品とは異なっているように感じられた。やがて視点がひとりの大人に移り、その視点世界が語られていくようになる。少年世界と大人世界が絡み合い、不思議な緊張感を醸し出している。いつのまにか私は姿勢を正し、食い入るように原稿を読んでいた。

 段落が一区切りついて、無意識に止めていた息を吐いたことで、初めてそのことに気がついた。

 ぐいぐいと引き込まれた。登場人物の感情も熱になり震えになり私の心を刺激する。

 こいつは甘い作品じゃない。

 今度はあらかじめ姿勢を正し、原稿の続きを読み始めた。一気に百五六十ページまで読んだところで、手が止まった。一ページ前を確認する。そして新たなページをもう一度読む。どう考えても、そのページ間にあるはずの重要なシーンがないように思われた。

 ノンブルはついていないかと原稿の余白を探す。左下にそれをみつけ、確かめてみる。ちょうど五ページ分の原稿が欠落していた。

 これはどういうわけだろうか。考えてみようとしたが、それよりも物語の続きを読みたいという欲求の方が勝った。五ページ分の欠落を、それもまるで意図した構成のひとつかのように飛ばしたまま、後半を読み始めた。

 最後まで読むと、天井に視線を向けた。世界がゆっくりと揺れている。今、作品から受けた刺激が私の感覚を惑わせていた。

 小倉さんの作品で初めて大きく心を動かされていた。大人視線の登場人物も、たぶん小倉さんの分身であろう。自分の中にある複眼的な世界を捉えた意欲作だと感じられた。けれども、欠落している部分の記述が、この小説を成立させるか、はたまた破綻となるかを分けるほど重要な部分であるように感じられた。この欠落の意味はなんなのであろうか。原稿はしっかり紐で綴じられている。綴じ忘れということはまず考えられない。読者への挑戦か。それがもっとも正しいもののように思えた。お前にこれが読み解けるか、と。私への挑戦状。相手があの小倉さんであれば、あり得そうな話だ。

 一気に読んだとはいえ、もう午前零時はとっくに回っていた。この時間に電話で問うてみるわけにもいかない。そしてまた、私の明日の仕事のスケジュールは、体力的にも精神的にもかなり過酷なものだと思われた。さすがにこれ以上、この案件での時間の消費は許されない。一晩、寝かせてみるのもいい。そう私は判断すると、睡眠導入剤を服用して夢も見ぬ眠りに落ちていった。


 翌日仕事に出ると、その日予定していた業務だけでも多忙なところへもってきて、イレギュラーな業務も多数発生した。さらにその上に、複雑な労務問題も二つばかり絡んできて、昼食もとれないまま、やっと一息つけたときには午後六時になろうかという時刻であった。

 現場から戻り、事務所の自分のデスクにつくと、ランチジャーに入れてきた弁当を食べ始めた。収入も落ちたので、倹約できるところは倹約するようにしている。けれども、こんな風に食事の時間が大きく狂うと、さすがに弁当の痛み具合が気になってくる。おそるおそる口に入れ、何度か噛み締めてみて、味に違和感がないとわかると本格的に咀嚼する。なんどかそんなことを繰り返し、弁当を食べ終えた。

 これも自宅から持ってきた手作りのペットボトル入りのコーヒーを飲んでいると、ズボンのポケットで携帯電話のバイブレーションが作動した。仕事用は別に持っているので、それは完全に個人用の携帯であった。

 かけてきた相手は河西さんだった。

 明日の活動予定として候補者の二人から面談のアポイントが取れたとの連絡であった。こちらの現在の仕事の状況を話し、たぶん明日は一緒に活動出来そうにないと告げると、時間までに待合場所に現れなければ、自分ひとりで進めておきます、との返事であった。

 その電話を切るのと入れ替わりに、今度は仕事に関する電話が入り、ふたたび現場に戻らなくてはならなくなった。服用制限を超えて、処方されていた抑うつ剤を噛み潰して飲むと、現場に急行した。

 現場で問題を解決し、雑務などをこなしていると、思いのほか時間がかかり、ようやく仕事を終えて帰宅したのは午後十時を回った時刻であった。

 遅い夕食をとり、少しでも原稿の続きを書こうと、いつものように書斎に入りパソコンの電源を入れた。


 体をゆすられ目が覚めた。

 窓の外が明るい。

 どうやら何の作業もしないまま、最近頻繁にある寝落ちをしてしまったらしい。最近では寝室に行くよりも、この書斎の板間で寝てしまうことが多かった。

「またこんなところで寝て。疲れも取れないでしょ」

 妻の桜子が言う。

 腰やひざの辺りが、無理な体勢で寝ていたためか、鈍く痛んだ。

「もう起きないと、遅刻ですよ」

 色々な意味で残念だった。

 私は重い体をむりやり動かし、出勤の準備を始めた。

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