第17話

「しかし、年寄りって、えぐいこと考えるよなぁ」

 長崎さんが出してくれたコーヒーを飲んでいた。本格的なものだった。常に飲めるように専用のコーヒーサーバーを置いているとのことである。それならばと、遠慮せずにいただくことにした。

「何のことですか」

「今回の企画だよ」

「けっこういい企画じゃないですか。励みにもなるし、同人誌内が活性化するし」

「そういうもの全部ひっくるめて年寄りの策略だろ。なんせ選考委員に退会した和瀬君の指名まであって、やり過ぎだよ」

「策略? やり過ぎ?」

「おやおや、お休みしている間に天下の和瀬君がこんな仕掛けにも気づかなくなっちゃうとは。もっとしっかり感性を磨かなくちゃ」

「なんだか悪いたくらみみたいに言われますわね」

 河西さんが口を挟む。

「だって、このところ上が次々に死んでいってるでしょ。みんなこの同人誌に青春をかけた人たちだからさ、少なくない額の寄付金を残すらしいんですよ。もともと出版したい会員向けに無利子の融資制度まである優良団体に、さらにそんな金が集まってくるんですもの。そりゃ事務局もあわてますよ」

「あら、あわてるだなんて」

「そうですよ。いいことじゃないですか。資金が集まれば、運営も楽になるだろうし、あわてることはひとつもないでしょ」

「その集まった金は誰が使うの?」

「会員とか同人とか、この同人誌に関係する人たちです」

 私は真面目腐って答えた。

「年齢は」

「年齢?」

 そう言われれば、同人や会員はほとんど私より年齢が上であった。ときおり若い人が入会することもあったけれど、すぐに辞めてしまっていた。

「最近も若い人は入ってこないのですか」

 なんとなく長崎さんの言いたいことがわかってきて、確かめるように訊いた。

「ないない。入ってきたとしても様子見だけで辞めちゃうよ。君たち世代が、最後のプリンス、プリンセスだな」

「そうか。十年後、いや、五年後でもやばいか」

「ほう。さすが和瀬君。頭が回り始めたな」

「そんな縁起の悪いお話なんて」

 様子をうかがっていた河西さんの言葉だ。

「所詮、同人誌の継続にしか年寄り連中は興味がないんですよ。なんせ半世紀以上続いている由緒ある同人誌ですからね。自分の代で潰したとなると一大事です」

「そんな。同人誌の継続のために皆さん活動されているわけではありませんわ。単に発表する場を守っていらっしゃるだけで」

「それは結局同じことです。発表する場を守るのであれば、つぶすわけにはいかない」

「それって、本末顛倒ではありませんこと」

「結果は一緒でしょと言いたいだけです。和瀬君。君、この団体に力を注ぐ覚悟はあるの」

「そこまで考えていません」

「いや、だからさ。考えなきゃ」

「でしょうか」

「ですよ。なにせ、二十二年を隔てての河西御前とのデートもセットなんだからさ」

 長崎さんは、得意になったときの癖の、鼻の頭を人差し指で弾いていた。


 ひととき笑いあったので、ずいぶんと気持ちが軽くなっていた。またいつでも遊びにきてくれと別れ際に声をかけてもらったことも、気分をしっかり持ち上げてくれていた。

 それでも長崎さんの部屋を出て、河西さんとふたりに戻ると、小倉さんの消えた原稿のことがやはり思い出された。

 河西さんも、考えていたことは一緒であったらしく、ハンドルを握ったままで、

「明日は私もまいります」

「いや、ひとりで大丈夫です」

 私は静かに応じ返した。

「無様なところを、私に見せたくないからですか」

「いえ、これ以上、河西さんにご迷惑をおかけしたくありません」

 横顔であっても、はっきりと河西さんの顔がこわばっていくのがわかった。何か適切な言葉をかけなければと考えているうちに、

「そうですか。わかりました。行ってらっしゃい」

 河西さんの突き放した調子の言葉を聞くことになった。


 喫茶店『風花』の窓際のボックス席で、小倉さんと向かい合って座っていた。私たちのほかには、客は三人しか居なかった。

「バカな、君が隠したんだろ。何をたくらんでいる」

 声を荒げてはいないが、はっきりと怒りが伝わってくる物言いで、小倉さんが何度目かの同じセリフを吐いた。出会ってから、すでに三十分が過ぎようとしていた。

 差し込む日差しはまるで皮肉ででもあるかのようにやわらかくて暖かい。

「ですから、お詫びは申し上げます。しかし本当に私ではありません。最初からその部分はなかったのです。わざわざ私が隠して、何か得なことがありますか」

「私に本を出版させないためだ」

「それだけのことならば、私たちが小倉さんを選ばなければいいだけじゃありませんか。何もわざわざ原稿を抜く必要はありません」

 小倉さんは頬をゆがめて笑った。

「これだけの作品があるんだ。君がどう言い逃れしようが、不正に選考結果を捻じ曲げたことは一目瞭然。誰にでもわかる」

 最初にしっかりと詫びた。けれどもその後は堂々巡りである。原稿がなかったことを最初に伝えたときは、小倉さんの表情は、驚きというより、猜疑心が滲んだようなものであった。いっそ喜びであったかもしれない。しばらくはその表情のままであったが、やがて取ってつけたように怒りはじめた。差し出した原稿も、軽く手に取りページが欠如している事実を確かめただけで、再びテーブルの上に置かれたままである。

「君の選択肢はひとつだ。最終選考に私の作品を残したまえ。黙って私を選べばいい。そうすれば、今回の不祥事は不問にしよう」

 ついに我慢ができなくなった。

「最初からそれが目的ですか」

 吐き捨ててしまった。

「何が言いたい。失くしたのは君だろう。この上、変な言いがかりをつけるとは、まったく言語道断。開き直るにもほどがある」

 怒鳴り返すでもなく、言葉とは裏腹に、落ち着いた口調であった。

「私を選びさえすれば君の名誉は守られる。考えることはないはずだ。それとも他人の原稿を隠す卑劣なやつだとみんなに告げて回ろうか」

 獲物を追い詰めることを楽しむような口調に思えた。ただし私は、追われるものではない。

「もしも私がそんな卑劣なことをする人間ならば、そうされてもしかたありません」

 腹の底、丹田辺りに力を込めて、しっかりと言い切った。

「本当にそれでいいんだな」

「ええ。けっこうです」

 小倉さんは原稿を手に取ると、床を蹴るかのような勢いで店を出て行った。

 決裂であった。

 気配がして視線を向けると、他の三人の客が私を見ていた。私の視線に気づくと、三人はそれぞれに居心地悪そうに視線をそらし、ふたたび自分たちの世界に戻っていった。

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