第12話
河西さんが「着きましたよ」と声をかけてきて、私は物思いから覚めた。
車のドアを開けながら正面に目を向ける。変わらないといえば、ここまで変わらないものも珍しい。最初に訪れた時ですら古ぼけた平屋であったが、もはや時代記念館とでも呼べるほどの風情で福岡さんの家は建っていた。
おとないを告げるとすぐに応えがあり、奥から福岡さん自身が出てきた。記憶のままの作務衣姿である。
「これは、これは。なつかしい顔だ。ああなるほど、例のやつを受けたのか。それは良かった。和瀬君なら立派にお役を務められるだろう。まずは上がれ。汚いところだが、そんなことはいまさらであろう。さぁさぁ、あがってくれ」
あらかじめ訪問を知らせてはいなかったけれど、そんなことはまったく気にする風もない。さらにはここでも、十二年の隔たりがあるというのに、そんなことなどまるでなかったかのような応対である。
招き入れられたのは福岡さんが書斎として使っている六畳の和室であった。
その部屋の風景もまた変わっていない。唯一変わったのは座卓の上に真新しいノートパソコンが載っているところだ。他は昔と変わらず、座敷のいたるところで本が山となり、書き上げた原稿が綴じられてはいるものの無造作に放り出されてあった。
私は、ゆっくりと移動すると、断わりも入れず座卓の横の行李を開けた。底から半分ほどの嵩で原稿が納められていた。
「ああ、すごい、すごい。とうとう完成したんですね」
「完成してはいないよ」
福岡さんの声は暗かった。
「だって行李の中に」
「それは、僕もお年頃だからさ。何かの拍子に、ことって逝っちまうかもしれんだろ。だから一応の区別として。まぁ、それだけのことだ」
知り合って間もなく、招かれてこの書斎を訪れたとき、納得できる作品が書けたら用意している行李に入れるのだと教えられた。行李にこだわるのは心酔している作家がそれを使っていたからとのことだった。
妥協というものをしない人であった。だから年齢からの処置といえども、自分に約束していた行李に、自分自身で約束に足りていない原稿を詰めたという行為が、やはり痛々しいものとして感じられた。
「ふたりでそろって来たということは、車は一台か」
河西さんがうなずいた。
「どちらが運転だ」
河西さんが今度は右手を小さくあげる。
「そうか、そうか。ならば和瀬君、ビールでも出そうか。再会の祝いというところで。どうだ、飲もうじゃないか」
「すみません。アルコールはちょっと」
「なんだ、なんだ。あの修行僧のようなことを今も続けているのか」
私は晩酌をしない。酒は飲めるが、特別な場合以外は飲まないことにしている。アルコールを飲んでも行動なり思考なりに何の影響も出ない人はいるだろうが、私の場合、書きものに明らかに影響が出る。帰宅し、食事を終えると、すぐに書斎にこもる生活であるから、もう三十年以上、晩酌もやらない生活をしている。
「修行僧だなんて。私のものは、えせ修行者ですよ。福岡さんのように体に刻印が出るほど、やってはいませんからね」
福岡さんは右肩が明らかに下がっている。それは長年の執筆作業で頸椎など骨から歪んでしまったからだ。右足の膝もうまく曲がらないと漏らしていた。
基本的には手書きの人である。ワープロから今ではパソコンになっているが、それは投稿するときの清書用に使うだけだ。資料の収集から作品への文字化など手書きの作業負担は莫大なものである。私などは一度パソコンで作品を書いてしまったら、もう手書きには一度も戻らなかったし、戻ろうという気さえ起きなかった。
私はふたたび断りもなく座卓の前の座布団を横にずらした。そこだけ畳が擦り切れていた。
「ほら。こんな調子だもの。福岡さんに比べたら私なんかさぼりまくっているなまけものというところです」
「いや、単に、そこにどれほど長時間坐っていようがそれには意味はない。ようは、そこで何を紡ぎ出したか、だからね」
「けれども、普通の人にここまでのことはできませんよ」
私の言葉を聞くと福岡さんは声を出して笑った。ひとしきり笑ってから、
「和瀬君。そもそも普通の人は小説なんぞというものを書こうとは思わないものだよ」
障子に嵌めガラスの戸から不意に一条の光が差し込んできた。それが私と福岡さんと河西さんのちょうど真ん中に丸く輝く畳を作り出した。
「君、長谷川君を覚えているか」
静かな調子で福岡さんが訊いてきた。
私はひとつ大きくうなずいた。
長谷川さんというのは同じ同人誌の会員のひとりである。書いた作品ではなく、その言動や生きざまの方で有名な人だ。
「鉱脈なんだよ。私の中に絶対すごい鉱脈が眠っている。それさえ掘り出せば、私は歴史に残る作品を書くことになる。これはもう運命なんだ。必然なんだ。私に与えられた使命なんだ。だから私に必要なことは、その鉱脈をみつけてやることなんだ」
長谷川さんは、まだ合評会に参加出来ていた頃、よくそんな風に主張していた。蔭では鉱脈さんの異名があった。体全体を使ったジェスチャーも交えてのその主張は、初めて目の当たりにすると、何かの芸のパフォーマンスでもあるかのように映る。
自分は小説を書かねばならないのでという理由で離婚し、子供とも別れた。じきに仕事も辞め、紆余曲折の果てに、精神科の病院に入院するという変遷を辿ってもなお小説を書いていた。
病院から投稿された長谷川さんの作品を何度か読む機会があったけれど、私にはその作品の良さや価値は理解できなかった。
「まだ入院されているのですか」
「うん。してるね。もう退院は無理だろう。あの人の精神の破綻が治癒するものとはとても思えないからね」
大きな池と小高い丘に挟まれた静かな場所にひっそりと建つ、長谷川さんが入院している緑色の病院のことを思った。
「僕はね、何度か同人誌の用事で入院している長谷川君を訪ねたことがある。面会ロビーで会った長谷川君はまったく何も変わらない長谷川君そのものだった。相変わらず鉱脈を探していると力説していたしね。けれども何度目かの訪問のとき、看護師さんから別の話を聞かされた。長谷川君は不意に大声をあげて泣き出すそうだ。慟哭というやつらしい。さらには自傷行為も。自分が小説なんぞというものに取り憑かれたばかりに、家族を不幸にしたとわめきながらね。いまさらだよな。あまりにも身勝手過ぎる。だのに、その慟哭の事実すら、発作を起こしていないときの長谷川君は覚えていないらしい。どちらの長谷川君が本当の長谷川君なんだろうね」
福岡さんは、ぐしゃぐしゃと髪に指を突っ込んで掻きむしると、蓋を開けたままだった行李に首を突っ込み、ひと綴りの原稿をつまみあげた。
「これが、今のところ僕の最高到達点の作品だ。嫌な役回りだろうけれど、和瀬君、覚えておいてくれたまえ」
まるで近々亡くなるかのような物言いであった。けれども求められているのは、そんなことを指摘することではない。私は、題名を確認し、はっきりとうなずいて見せた。
「その作品を今回の企画の対象作品として提出されますか?」
私は一応訊ねた。
「いや、僕はその企画の選考対象者の立場を辞退するよ。本来ならば事務局に言うべきことなんだろうが、そんなことを言うと、まるで自分が選ばれて当然だと思っているようで気が引けてね。しかし君が選考委員を引き受けてくれたのならばはっきり伝えておく。僕は降りさせてもらう。本がどうしても出したければ、これまでだって同人誌には無利子の融資制度があったんだ。審査も簡単だしね。どうしてもとなったら僕はそちらを使うよ」
たぶんそんな風に答えるだろうという予想はしていた。だからあえてもう一歩踏み込んでみた。
「そのようなことを承知の上で、私が福岡さんをそれでも選んだらどうされますか」
「そりゃ、逃げだすね。着物の裾をからげて一目散さ。それでどうだい」
福岡さんは片目をつむって見せた。あまりにも不器用なものだったけれど、どうやらウィンクのつもりらしい。いかにも福岡さんらしいもの言いと仕草であった。けれども、その裏に隠された、犠牲にしてきたものたちのことに、思いを馳せずにはいられなかった。
福岡さんは、学生運動が盛んであった頃、その方面の活動家として名を知られる存在であったという。けれども福岡さんの言を借りると、ある日、憑き物が落ちたかのように、そのような手段の政治運動にまったく興味がもてなくなったとのことだ。その結果、奥さんとふたりで、福岡さんの郷里であったこの地に移り住み、政治とは無縁の暮らしを選択した。
「妻は子供を欲しがったが、それを私が拒んだ。子供が出来てしまうと、僕の執筆活動に制約ができてしまうからね」
完全な避妊をしていたわけではないが、積極的に子を成そうとしなかったのだから、同じであろうと言った。この四十年間の生活費は、奥さんが切り盛りする小料理屋の営業で捻出してきた。
「まぁ、いわゆるひもってやつだ」
福岡さんはそう言いながら、おどけた仕草をして見せた。
店を主に切り盛りしてきたのは確かに奥さんではあるけれど、福岡さんも店の仕入れと仕込みには携わってきた。ひもだと自分を卑下する物言いをしているけれど、店にくる客にどうしたら喜んでもらえるかをいつも考えて、仕入れや仕込みを工夫していたことはよく知っている。同人誌の集まりで顔を合わせたとき、参考意見として何度もその類の質問をされたものだ。それでもその労働は、この厳しい世界で、ここまで自分が生き伸びてきたことには足りないものだったという思いがあるのだろう。
物書きとして生きようとしてきた福岡さんの覚悟を思った。
「そろそろおいとましましょうか」
話が途絶えたのを見計らって、河西さんがおだやかな口調で言った。
「そうですね」
同意して立ち上がろうとすると、
「和瀬君。今日のうちに小倉さんのところだけは寄っておけよ。でないと、後で何を言われるかわからないし、のちのちの活動が面倒になるだろうからね」
私は忠告に感謝を示すために丁寧に頭を下げてから、
「今度来たときには、作品を読ませてくださいね」
「おお。そのときはぜひ」
福岡さんの表情がたちまちほころんだ。
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