第11話

 今回のかすみちゃんの小説もすばらしかった。

 何より感心するのは、書く度に心に降りていく深さが増していっているところだ。このまま進めば、いったいどんなところまで行きつけるのだろうか。楽しみだ。

 わたしなんかは、破ってはならない約束を破ってまでして、きょうまで書き続けてきたけれど、いまだにどこにも行き着けていない。ばかりか、果たしてわたしは前に進んでいるのだろうか。

 そういえば、ネットに蝕蛾に関する裏サイトがアップされていた。わたしのようなミステリー好きには簡単に入り込める作りだったけれど、ごくごく一般の人では、そのサイトの本当の姿はわからないだろう。その裏サイトに、蝕蛾が発生する条件として興味深いことが記載されてあった。蝕蛾は幸せや成功、喜び、そんなプラスの感情の濃度が極度にあがった土地に起きやすいとあった。いくつものデータもアップされていたが、そもそもそんな人々の感情が客観的な数値として測れるものであろうか。

 いずれにしても、その傾向が本当にあるのならば、蝕蛾は、膨れ上がりすぎた幸せを粛清するために起きるということになる。となれば過ぎた幸せとは悪なのであろうか。そもそも国際サイバー警察が、こんな裏サイトを摘発もせず放置している意味はなんなのだろうか。

 権力はいつも、与えるべき情報とそうでない情報をはっきりと区別し、大衆が自らの力で隠されていた情報を知りえたと思うように巧妙にセッティングしておくことを忘れない。

 つい十時間前に、オーストラリア東部の広い範囲に大量の鰊が降ったという。つまりどこかで通常では考えられない規模の蝕蛾が起こったしるしといえる。だがその蝕蛾の方のニュースはまだネットのどこにもアップされていない。

 普段はまったく酒を飲まないわたしも、古くからの友人に誘われたら、夜の街に繰り出すこともある。先日も久しぶりに繰り出し、いつも締めに寄るショットバーで興味深い人物と知り合いになった。というか、彼女はそこで働いていた。

 照明の光度を抑え、薄暗い中に、ゆるくカーブするカウンターが延びている。正面に様々なアルコールのボトルが並べられ、その向こうはガラス張りで街の夜景が見えている。ボリュームを絞ったジャズが流れていた。

 しばらく、酒場でよくある軽い会話を楽しんだ後で、その女性、真亜瑠さんは言った。

「のんきに夢を追い続けていた自分が許せないんです」

 白いシャツに黒のベスト。袖はシェーカーも振れるようにきちんとバンドで引き上げてある。下は黒のパンツスタイル。そんな完璧なバーテン仕様の服装に、亜麻色に染めた髪をショートカットにした童顔が乗っかっている。

「どうして? 夢を持ってるって素敵じゃないですか」

「だって、アイドルなんですよ。アイドル。彼女たちは、もうフランスでも評価されて。それに比べると、自分の歩んできた道がなんてつまらない道だったんだろうと思うんです。損したなって」

 話の飛躍にすぐにはついていけなかったけれど、じっくり聞いてみると、幼少の頃から音楽の世界で生きて来たとのことだった。プロになるためには、素晴らしい音楽家になるためには、そう思い、己にできる努力はすべて行ってきたというのだ。学校もその方面に進んでいた。

「二十年以上も努力してきた自分がバカみたいで」

 その感覚はわからないでもなかったけれど、そんな風に己の生きざまを否定するのは、己にとっても、これまで触れ合ってきた他者にとっても不幸だと思えた。

「そのアイドルのライブには行ってみた?」

 わたしはそんなところから声をかけた。

「行ってません」

「なぜ? そんなに気になるんだったら自分の目と耳で確かめてみればいいのに。ライブに行ってみると新しい発見があるかもしれないよ。自分の音楽にもきっとプラスになるものがあると思うけどな」

「自分の音楽? もういいんです。それ、もういいかなって思うんですよ。もう趣味としてやるだけにしようかなって。あんなぽっと出の女の子が世界的に評価される世界なんて。そんなものにこれまでの人生をかけてきたなんて。私って本当にバカ」

「ああ、バカと言えば、こいつすげぇバカですよ」

友だちがわたしの顔を指さして口をはさんできた。

「こいつね、性格も悪いし、けちだし、加齢臭もするし、うらやましいところは何ひとつない、もう人としては本当に最低なやつなんだけど、ひとつだけ感心することがあるんですよ。それは、若い時からずっと小説を書き続けているってことです。そこだけは何があってもブレない。ずっとやりたいことが明確で、そのやりたいことをずっとやり続けている。そこだけはすごいなと思うんです」

 真亜瑠さんの目に光が灯った。それは思いすごしではないと思えた。これからわたしが発する言葉に、何かしらの重要な意味が発生するかもしれないと覚悟した。

「ただ好きでやってただけだから」

「その好きってのが、半端ないだろ」

「いや。特別じゃないよ。子供がお絵かきが楽しいからずっと描いてるのと同じ。好きだし、それをやってるのが楽しいから。楽しければおまえだってやるだろ」

「楽しいことは好きだけどさ。おまえみたいにひとつのことがずっと楽しいってのは、すごいことだと思う」

 俗に一万時間の壁ということが言われる。何かを成そうとするならば、その基礎を得るために最低一万時間程度の修業が必要だということを指した言葉であるらしい。それが本当かどうかはわからないけれど、好きなことであるならば、意識などしなくても、それに費やした時間が一万時間に到達するのは不思議でも苦痛でもなんでもない。一日一時間と計算すれば、二十七年以上かかる計算になるけれど、それでも、とてつもない時間だとは思わない。

「真亜瑠さんも、音楽に費やした時間は一万時間なんて超えているよね」

 わたしはできるだけ軽い調子で言った。

「超えてますね」

 真亜瑠さんの返事は重かった。いわゆるボディーランゲージとしてということだけれど。

「あの時、デートの誘いを断らずに行っておけばよかった。あの時の遊びの誘いも。もっともっと楽しいことなんてたくさんあったのに。そんな風に、何かの拍子に私も思うことはあるけれど、それは言い出したらきりのないことだと思う。そうじゃない自分を選択して生きてきたんだから、それを大切にしなければいけないと思う」

 軽い調子でと思っていたくせに、真亜瑠さんのボディーランゲージとしての表情や仕草にすっかりやられてしまったわたしは、それこそ重くて暑苦しい熱弁をふるってしまった。

「素敵な恋がしたいな」

 真亜瑠さんはため息のように言葉を吐いた。

「できますよ。まだまだ若いもの」

「私はもうそんなに若くはありません。それが、音楽を趣味に、って思う、もうひとつの理由でもあるんです」

 これもわからないではない。歳を重ねることは、夢を追っている己には一番堪える。夢を終わらせるのは、己にしかできない。もういいじゃないか、と己に言ってやりさえすれば楽になれる。そんな気がするのはどうしようもない。

「私もこの歳です。たぶんもうプロの作家にはなれないでしょう。それでもなれる可能性があるなら。それはつまり生きているならと同義かもしれないのですが、書き続けていたいのです。最後の最後まで、あがきにあがきたいと思っているんですよ」

 そう言ってしまってから、ようやくわたしは別の可能性に気づいた。わたしが夢を追いかけていた時間と、真亜瑠さんが夢を追いかけていた時間の濃さは、まったく違うという可能性だ。己のものさしだけで、いかにもわたしは夢を追い続けてきましたという物言いは、恥ずべきものでしかない。実際恥ずかしさに頬が火照った。

 小説家にはいつでもなれる。それは己の書いたものが小説であると主張した瞬間に成就する。その後書き続ければ、その間はずっと小説家でいられる。つまり職業作家でなければ、己の思いだけでなれるということだ。

 明日の仕事のことを心配しながら、今日の仕事の疲れからの睡魔に襲われる己に鞭打って、とるに足らない文章を書き続ける愚かさに、反吐が出そうになるときもある。

 わたしは自家中毒性の嘔吐を我慢して、あいも変わらず生産性のない作業を続け、真亜瑠さんは己を凝視した結果、全力を傾けてきた作業場から出て行こうとしている。つまりそういういうことなのだろう。

「おかわりをお作りしましょうか」

 真亜瑠さんがやわらかな口調で言った。

「ええ。オールドグランダッドの114をストレートでお願いします」

 本当の恥ずかしさを知る人間にわたしはなりたい。けれども、それも果てなき戦いの先にしかないのであろう。

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