第2話 揺れる煙は思い出と共に
がらんとした美術室に、鉛筆の走る音が響く。
昼下がりの部室、一人の少女が黙々と絵を描き続けていた。
その光景こそがまるで一つの絵のように思わせる不思議な空間に、
視線に気付いたのか、鉛筆の音がピタと止まり藤川の方に顔を向ける。
「先生、煙いです。そして、何度言えば良いんですか、部室は禁煙ですよ?」
「年寄りの娯楽を奪うもんじゃないよ」
「煙草のどこが娯楽なんですか。臭いはつくし、煙いし良いことないです。それに、身体に悪いですよ」
「
「…………やっぱり、私の絵って面白味ないですよね。鉛筆だけでも、魂が宿るくらいに力強いものを描きあげる人もいるのに。世の中不公平です、私も先生の世代に生まれてたら、絵の具とか使って今より違うものが描けたんでしょうか」
「色があろうと無かろうと根本は変わらんさ、絵は描く奴の心が写し出されるからな。巳波、お前の心はガッチガチってわけだ」
「先生、煩いです」
せっかく助言してやってんのに、とブツブツと文句を垂れては藤川は立ち上がり窓辺に歩み寄る。
ガラガラと古びて立て付けの悪い窓を開ければ、風がなだれ込む。潮風と共に煙の匂いが室内を駆け巡れば、煙いと言わんばかりに巳波は顔を顰める。
「藤川先生って、なんで美術の先生になったんですか? しかも、部員一人の廃部寸前の美術部の顧問なんて」
二本目の煙草をふかせば、なんだ急にとくぐもった笑い声を零す。「聞いたことなかったなと思ったんで」と、そう返す巳波にまた笑い声を零す。
「俺ね、絵描く以外なにも出来なかったわけ。お前みたいに成績までクソ真面目に優秀ってわけでもなかったし、そもそも学校嫌いだったんだよねえ」
「クソ真面目は余計です」
「間違っちゃいねえだろ。で、な? まあ、ふらっと学校来ちゃ美術室で籠って、絵描いてたわけ。そんなことしてる時にさ、声かけてくる変わった奴がいたわけ。女版の俺、みたいな。
とにかく、自由な奴でこんなのが教師とか終わってんなって反抗心ながら思ったね。御察しの通り、そいつは非常勤で来てた美術の先生だったんだよなあ。俺の絵を見て『お前の心は随分と荒んでんなあ、絵に出てんぞ』って煙草咥えながら笑って文句つけてきてさ、頭来るよなあ。楽しくって、唯一の救いで描いてた絵にそんなこと言われたら」
一区切りするように藤川は煙草を咥え、ぷかぷかと煙の輪を作り一つ二つと漂わす。「これ難しいんだぞ」と真面目な顔をして輪を作る姿に、思わず巳波は吹き出しそうになる。
「それでな、なにクソって思って見返してやろうって決めて俺は一心に描き続けたよね。あん時が、人生で一番真面目だったかもな。最後までダメ出しばっかりだったけど」
「え、それでなんで先生になることになったんですか」
「それはな、あいつの任期が終わる日に言われたんだよ。
『お前の絵はお前の心みたいで面白いって、特に水彩画は面白い。そう絵にぶつけてた気持ち人に教えてみたらどうだ』って、まあ将来やりたいこと無かったし。
それに教師になったら、この女がなにを思ってつまらんだ、面白いだ評価してんのか多少なりとも理解できるかもしれないって思ったら、いつの間にか教師になってたんだよ」
「なんてアバウトな……。でも、なんか素敵です。藤川先生は先生の言ってた意味、理解出来たんですか?」
「どうだろうな、わからん。けど、世界から色が消え美術がどんどん廃れる中、クソ真面目に一生懸命鉛筆で、命を宿してる奴を愛弟子として見守って成長を見届けるのは楽しいな」
「さっき先生、私の絵は硬いって言ったじゃないですか」
「硬いとは言ったが、面白くないとは言ってねえよ。色がなくとも巳波の絵は見てて飽きない、成長途中な心がまんま反映されてる絵だ。まあ、水彩画とか描かせらんないのは悔しいけどなあ」
「水彩画って、そんなに良いんですか?」
「俺は好きだったよ、水彩画って色が生きてんだよ。写真の中くらい色彩が残ってりゃみせてやれたんだがなあ」
ふうっとまた煙草をふかす藤川に仕方ないですよ、と慰め程度に巳波は口を開く。
「先生、私もいつか先生のように人に絵の楽しさを教えられるんでしょうか」
「お前ならできるだろ。もしかしたら、巳波が大人になる頃には色が戻ってるかもなあ。そしたら教える楽しさ倍増だな」
ニヤリと悪戯っ子のように笑顔を見せる姿につられて、クスリと微笑み返す。
初めは、この煙の匂いが嫌いで仕方なかった。
けれど、いつのまにかにか心地が良く安心するものに変わり、変化する自分の気持ちに巳波は擽ったさを覚えていた。
椅子を引く音が聞こえ、パタパタと窓辺に駆け寄れば、寄り掛かかるように立つ恩師のそばに立ち、外を眺める。
「俺はな、お前の絵。結構好きだよ」
「では、私は先生の煙草の匂い。結構好きです」
顔を見合わせて笑う二人を、大きな風が吹き荒れ煙が包み込む。
目の前の海を見つめる。
どこまでも広がる灰色の海、それが一瞬真っ青に輝いた気がした。
キラキラとまるで魔法のように、美しく光り輝く。
「先生……見て、海が」
巳波が指を指す方に視線を移す、美しく広がる青色に瞳が奪われる。
流れる潮風と共に懐かしい記憶が蘇り、自然と涙が頬を伝う。
陽の光が室内を照らしだし、また大きな風が吹き荒れる。
鉛筆の落ちる音が響き渡る、命を宿す筆を拾う者の姿はもうそこにはなく、ただハラハラと紙が風に煽られめくられる。
藤川、巳波
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