第6話 蜘蛛ノ怪

 その日は特に予定もなく暇だったので、買い物がてら駅前をぶらついていた。

 本屋での立ち読みにも飽き、映画でも観に行こうかな、でも今観たいもの特にないし、と考えたところで目の端が見知った黒い人影をとらえた気がした。横に目を向けると、駅のロータリーのタクシー乗り場、そこにちょうどタクシーを待っているのか、黒いロングコートを着た門馬の姿があった。足元には式神のタロを連れている。タロはなかなか来ないタクシーを待つのに飽きたのか、自分のしっぽを追いかけまわしてぐるぐる回っている。

「門馬じゃん」

 近づいて行って片手を挙げた。

「ん?守口か」

 急に声を掛けられた門馬は俺を見つけて少し目を見開くと、身体ごとこちら側に向き直った。足元にいたタロは尻尾を追いかけて回るのをやめて、俺に近寄り脚の匂いをかいできた。前は少し触ろうとしただけで唸って歯をむき出しにしていたのに、歩み寄ってくれるということはちょっと仲良くなれてきたんじゃないだろうか。

「仕事?」

 門馬に話しかけながらタロの頭に手をそっと伸ばしたが、その瞬間牙をむかれた。どうやらまだ好感度は足りないらしい。

「そうだ」

 門馬はうなずきながら、タクシーが来ないかどうか、また後ろに首をひねり道路のほうをちらっと見て確認した。この辺りは人が多いから、休日ということもありタクシーはほとんど出払っていて、なかなか来ないのかもしれない。

「お前、今も一人で依頼受けたりしてんの」

 多分そうなんだろうなと思いつつ、一応訊いてみた。前にゴーストバスター業を数回手伝ったが、こうして今日一人で仕事に向かっているということは、普段それ以上の依頼をこなしているということだろう。手伝った依頼だけでも、一回一回体力勝負であったり危ない目にあったり、結構神経を使う内容だったのに、それ以上の数をこなせるということに、家業としてこの仕事をやっているという言葉に重みを感じる。

「タロも一緒だ。それにお前が手伝う前は一人でやってた。別に普通だろ」

 それについて特に思うところもないらしく、門馬は軽く首を傾けながら言った。

「俺も行きたい」

 口をついて出たのはその言葉だった。言った俺も少し驚いている。門馬が声を掛けなかったということは、素人の俺を連れて行くのは危ないとか、単純に今回は人手を必要としていないとか理由があるはずなのに、なぜか一人で行かせることに抵抗があるらしい。

「学校の勉強とか、ほかにもやることあるだろ」

 わずかに眉をしかめる門馬の言葉は、まるで駄々をこねる子どもに対する親のようだ。

「勉強はどのみちしてないし、部活はゆるい」

 最近部活には、たまにパンを食べながら部室に積みあがった漫画を読むために昼休みに寄るぐらいで、あまり放課後は顔を出していない。所属する新聞部で発行している新聞記事のライター業は相変わらず続けてはいるが、これはノートパソコンさえあればどこでもできる作業だ。部長の田中先輩も受験シーズン真っただ中。授業もほぼ終わっているし、あまり学校には登校していないようだ。

「映画観るとか」

「それはちゃんと時間確保してる」

 最低限の宿題をこなし記事を書いて、時々筋トレ。そしてぐだぐだと気づいたら過ぎている無為に過ごした時間の残り。つまり、主に睡眠時間を削るのだが。

「あー、もう。分かった。連れていく」

 ちょうどタクシーが来たのを見て、時間がない事に焦れたのか門馬が折れた。俺は門馬に続いて、一緒にタクシーの後部座席に乗り込んだ。


 着いた先は木々に囲まれた、山の近くに建つ大きな日本家屋だった。周囲に民家は見当たらない。江戸時代から建っているんじゃないか?という程の年季の入った迫力で、見る人を圧倒する雰囲気をまとっている。決して古いというだけじゃなくて、手入れが行き届いている感じだ。

 日本では、海外の乾燥した地域に比べて天災や湿気によって家が痛み易いので、中古物件ではあまり築年数が古いと敬遠されがちだと聞くが、ここまで立派なお屋敷とまでいくとそれなりの価値がつくんじゃないだろうか。

 そんなことを考えながら見上げていると、黒髪を後ろで一つにまとめ、地味な灰色のワンピースを着た女性が屋敷の玄関から出てきた。呼び鈴を鳴らしていないのに出向いたということは、よほど門馬の到着を待っていたのだろう。顔を見たところ自分の母親より少し上の年代に見えるが、その表情には疲れが見える。実際にはもっと若いのかもしれない。

「佐々岡様ですね。ご依頼いただきました門馬です。こちらは助手の守口」

 門馬が女性に歩み寄り、自己紹介をした。助手として名前を出された俺は、軽く頭を下げ礼をする。その様子を見て女性はこわばった顔で頷いた。

「ご足労いただきありがとうございます、佐々岡の妻です。息子のことで今日は依頼を」

「えぇ。大まかなことはご主人からお電話にて伺っております。詳細については息子さんを交えて後日に、ということでしたのでお話を伺えますでしょうか」

「はい。こちらへお願いします」

 奥さんに促され、俺たちは佐々岡邸へと招き入れられた。玄関は広く、磨かれた床板が黒く光っている。正面に入ってすぐに見える大きな花瓶には花が活けられていたが、少し時間がたっているのかしおれかけており、みずみずしさを失っていた。

 土間に上がって左手の引き戸を開けると、洋風の応接室になっているようだった。ペルシャ柄の絨毯が敷かれ、その上に大きめの黒い革張りのソファが四人分置かれている。壁際に置かれた中国風のついたてといい、少し成金風ではあるが、羽振りは良さそうな雰囲気だ。

 ソファを勧められ、門馬と並んで座った。奥さんは、お茶を入れてきます、と言って傍を離れた。

「門馬さんですか。佐々岡です」

 しばらくして視界の正面にあたる引き戸が開き、白髪交じりの男性が姿を見せた。年齢は奥さんと同じくらいだろうか。こちらも疲れた顔をしているが、普段から人と接することに慣れているのか、なんとか来客用の笑顔を乗せている。会釈をして門馬の正面のソファに座った。

「ご依頼いただきました、門馬です。本日は息子さんについてお話があるとか」

 門馬の言葉に、佐々岡さんは深刻そうにうなずいた。

「大学生の息子の部屋に、夜な夜な女が現れるのです」

 大学生、青春真っただ中のお年頃である。ひょっとしてあなたの息子はプレイボーイ、というわけじゃないんだよな。

「その女性は、人間ではなかったのですか」

 一応門馬もその女の正体が人間である可能性を考慮しているようだ。

「私もはじめ、そうなのかと思いました。夜中、この部屋に置いておいた書類を取りに通りかかると、この部屋の隣の息子の部屋から、若い女の声が聞こえたので」

 佐々岡さんは首を振ってうつむいた。

「家に女を連れ込むなど、怪しからん。そう思ってそこの部屋の戸を開けたのです」

 佐々岡さんは自分の背後の、さっき入ってきた引き戸を指さした。

「しかしそこにいたのは、息子の首にかみつく女の姿。驚いた私を女は見ると、空気の中に徐々に透けていき、姿を消したのです」

 その時の様子を思い出したのか、佐々岡さんはぶるっと震えてから、ため息をついた。

「それから毎晩、息子のもとに女は現れているようなのです」

「ようだ、ということはご覧になっていないのですか」

 門馬の言葉に佐々岡さんは首を縦に振った。

「女が現れる夜中過ぎに備え、私は家内と寝ずの番をして息子の部屋に待機するのですが、時間が近づくと急に意識が遠くなってしまうのです。そして朝目覚めると、首に噛まれた跡をつけ、血濡れになった息子を見つける、というのを繰り返しておりまして」

 それで、門馬が来るのを奥さんはあんなに待っていたのか。警察に幽霊話を持っていくわけにもいかず、問題はどうやら自分たちの手には余る。刻一刻と弱っていく息子の姿を見るのは歯がゆくつらいことだろう。

「息子に、女を拒絶するようにも言い聞かせました。しかしその女はどうやら、息子を洗脳しているようで、何度言っても聞かんのです」

 父親はソファから立ち上がると、自分が入ってきた引き戸を開けた。こちらへ、と俺たちを促す。先を歩く門馬の後ろについていくと、部屋の中には応接室と同じフローリングの床が続いており、部屋の中は蛍光灯に青白く照らされているのが見えた。

 そして引き戸の外側から戸の裏側を覗き込み、思わず息をのんだ。

「この通り、だんだんと弱ってしまって」

 父親は、文字通り骨と皮ばかりにやせこけた、息子と思われる男を指した。話では大学生とのことだったが、とてもそうは見えないほど皮膚に弾力がない上、髪も薄くなっている。床の上に置かれた小さい一人かけ用のソファに埋まるように、身体を預け、下を向き横顔をこちらに見せている。父親の声に反応した様子もなく、息子はうつむいたままだ。周囲の音が聞こえているのかどうかも、見る限りでは定かではない。

 門馬は部屋の中に立ち、正面からその様子を見ていたが冷静にうなずいた。

「分かりました。ひとまず、解決するまではこの家を離れてください。そうすれば家に憑いている怪異なのか、息子さんに憑いているのかがはっきりします」

「なるほど。もし家に憑いているのなら、離れれば安心ですね」

 父親はその言葉にうなずいている。しかしもし家に憑いているのだとしても、住み慣れた家を売りに出して生活環境を変えるというのは簡単ではないのだろう。顔色は曇ったままだ。

「分かりました。近所に宿があるので、ひとまずそちらに移ります。ほら、敏夫、聞こえたか?行くぞ」

 父親はぐったりとひじ掛けに投げ出されている息子の腕をとった。

「い、やだ」

 急にしわがれた声が、敏夫の喉から漏れた。

「いやだ、ここにいる」

 わずかに首が動き、ぎろり、と熱があるのか光る目で父親を見上げた。

「何言ってるの」

 俺の背後から奥さんの声が聞こえた。慌てて道を譲ると、息子に駆け寄りその肩に手を置いて、足を折ってしゃがみ、息子と目線の高さを合わせようとした。

「あの人に、あの人に会えなくなるのは嫌だ」

 敏夫は母親の目から逃れるように下を向くと、乾いたほほの上に、一筋の涙を流した。

「ここにいたら死ぬんだぞ」

 父親が上から息子を叱咤するが、敏夫は首を振った。

「死んでもいい。あの人のためなら死んでもいい」

「縁起でもない!やめろ」

 父親が無理やり痩せた敏夫の身体を引っ張り上げ、玄関へと向かうのか引きずっていく。

「いやだ!離せ!」

 悲痛な声で叫び続ける。しかし母親もその夫に続き、敏夫の身体を両手で抑え、抱え込もうとする。両親に強引に連れ出され、敏夫のろくに力の残されていないやせこけた身体では、わずかな抵抗もできない様子だった。その姿は父親が強引に開け放った引き戸の裏に消えた。


「お見苦しいところをお見せしました」

 息子を家から引きずり出し、玄関の中に建っている俺たちのもとへ戻ってきた父親は、門馬に頭を下げながら言った。

「いえ、取り憑かれているのですから、通常の状態ではないでしょう。お気になさらないでください」

 門馬は慣れた様子で応対した。実際怪異を相手にしていると、取り憑かれ錯乱状態になった人間を見ることは、よくある事なのかもしれない。

「では、よろしくおねがいいたします」

 父親は笑顔をとりつくろう気力もなく、疲れ切った様子で門馬に頭を下げた。そして外の庭で座り込んでしまった息子と、その傍に立つ妻の元へと歩いていった。


「で、どうする?夜中まで待つ?」

 玄関から応接室に戻りながら門馬に訊いてみると、首を振った。

「昼間のうちに、家の構造と他の部屋の様子を見ておきたい」

「じゃあ、行こうか」

 門馬はうなずくとソファーに掛けてあった黒いロングコートを羽織り、足元に置いてあった黒いメッセンジャーバッグを手に取り、斜めにかけた。俺はジャンパーを羽織るが、持ち物はポケットに財布と携帯が入っているだけだったので身軽だ。

 まずは一階フロアから家の中を歩き回ることにして、息子の部屋を起点に片っ端から引き戸を開け、探索していった。洋室だったのは応接室と息子の部屋だけだったようで、和室がほとんどだ。しかし部屋数がゆうに十を超えている。とんだ大豪邸だ。

「あ、蜘蛛がいる」

 部屋の隅をうろつく黒い点に、自然と目が行った。

「どこに」

「あそこ」

 畳の縁の上に、ちょんとちいさな黒い蜘蛛が乗っている。

「あぁ、いるな。蜘蛛といえば、朝蜘蛛は殺すな、夜蜘蛛は親に似ていても殺せ、って言い伝えがある」            「親に似てる蜘蛛って、どんな蜘蛛?」                   親が蜘蛛似なのか、蜘蛛が人間に似ているのかが気になる。  

「さぁ」

 珍しく、門馬も分からないみたいだ。首をかしげて蜘蛛を見ている。

 この部屋も特に何かあるわけでもなく、門馬は歩き出した。俺も後に続くと、畳のイグサが刺さったかのような、チクリとした感触が靴下をはいた足に走った。刺さったイグサを取ろうとかがむが、靴下の表面には見当たらなかった。中に入り込んでたら嫌だなぁ、と考えながら立ち上がり、門馬が開けていった襖に向かう。 

 そして俺は次の部屋で、門馬を見失った。                         

 門馬が見当たらないはずはない。同じ襖を門馬のすぐ後にくぐったのだから。必ずこの部屋にいるはずだ。しかし六畳ほどの部屋の中には俺一人しかいない。

 仕方なく、四面あるうちの一つの襖を選んで開け、先へ進んでいった。どの部屋も同じような和室で、すでにどのあたりにいるのか見当もつかなくなっている。直線状に開けていけば、どこかの端にはたどり着くはずだが、その兆しもない。そもそもこんなに広い家だとは、外から見たとき想像もつかなかった。

「姉ちゃん?」

 開いた襖の先の部屋で、いるはずのない後ろ姿を見て驚いた。自分の姉が、何もない和室にこちらに背を向けて突っ立っている。その手がゆらりと襖にかかり、外へと出た。

 慌ててその後ろを追いかけた。襖の向こうは板張りの廊下になっていて、どうやら俺は外へ出られたらしい。曲がり角を直角に曲がった。右壁の窓から差し込む光が、床に模様を作っている。その先は行き止まりになっているらしく、薄暗い。突き当りに黒い人影が背を向けて立っているのが見えた。

 しかし近づいていくと、そこに立っていたのは姉ではなかった。後姿は二十代くらいの若い女のようだだが、脱色しているのかシルバーアッシュの髪をまっすぐに長く伸ばし、長い黒のワンピースを着ている。茶色の髪を巻いた姉の姿とは全く違っていた。

「すみません、ちょっと道に迷ってしまって」

 急に消えた門馬といい、さっき見えた姉の姿といい、異様な出来事に夢を見ているような気分だ。

「家の方ですか」

 声をかけると、黒いワンピースの女はゆっくりと振り返った。

 女は蠱惑的な笑みを浮かべこちらを見て、ゆっくりと近づいてくる。ふいに、その女のことを、自分はよく知っていて忘れているだけなのだ、という錯覚を覚えた。慌てて記憶を探るがそんなはずはない。これは罠ではないのか、という焦りが起き始めるが、どうしてもこの女に対する既視感をぬぐい切れず確信が持てない。

 徐々に女の視線のせいか、身体は動かなくなり、じわっと暖かい湯の中にいるような酩酊感に襲われた。

 女はおれの肩に手を伸ばした。延ばされた手を振り払えない。

 その女は首筋に顔を寄せてきた。ふわっと抗いがたい魅力を持った香りが漂い、感覚が一層麻痺していく。

 そして女は舌で首筋を舐め上げると、ずぶりと鋭い犬歯を深く肉に突き刺した。鋭い痛みが走った後、生暖かい血が流れ落ち背筋を伝う。女がその血を舐める、ぴちゃぴちゃという音がする。今まで立っているのがやっとだった脚の力が抜け、左隣の壁に寄り掛かる。そしてそのままずるずると、板張りの床の上に崩れ落ちた。


 どれくらいの時間がたっただろう。門馬がきっと探している。早く、この女から逃れないと。そう頭の隅に残された冷静な部分が考えていたが、身体は言うことを聞かない。だらん、と床に落ちた腕も、感覚のない足も、一ミリたりとも動かすことができない。

血を失いすぎたのか、カチカチと歯が震え始めた。身体が徐々に冷えていく。寒い。

「守口!」

 向こうのほうで襖の開く音がした後、廊下の先から門馬の叫び声が聞こえた。

「あら、残念。お友達が来ちゃったわね」

 女は唇についた血を赤い舌で舐めると、俺を廊下の床の上に投げ出して立ち上がった。

「あなたたち、妖退治なんて古いことしてるわね」

 うんざりしたように駆け寄ってくる門馬とタロのほうを見る。

「祓われたくないからおいとまするわ。ご馳走様」

 そして女は廊下に面した近くの襖を開き、向こう側にするりと滑り込み、その襖を閉めた。

 廊下の上に倒れている俺は何とか目だけを動かし、近くまで駆け寄って来ている門馬を見た。

「守口、大丈夫か」

「門、馬」

 自分でも驚くほど、弱弱しい声が口から漏れた。

「大分血を吸われたみたいだな、ちょっと待ってろ」

 門馬は斜めに描けているメッセンジャーバッグから小さな瓶を取り出した。

「口開けろ」

 少し開けた口の隙間に、門馬が瓶から取り出した赤黒い錠剤を押し入れた。動けない俺を抱き起すと、鞄から取り出したペットボトルの口を俺の口に当て、水を飲ませた。気管に水が入ってむせたが、錠剤は何とか飲み込めた。

「悪い、でもこれで少しはマシになるはずだ。寒いか?」

 震えている俺を見て門馬が訊いた。小さく頷くと、メッセンジャーバッグを外して床に置き、門馬は自分の着ていた黒いロングコートを脱いで俺に着せた。

「とりあえず、ここを出る。女郎蜘蛛は、出ていく分には手出ししないだろう」

「ごめん。罠、にひっかか、った」

「その話は後にしろ」

 門馬は俺を床にもどして、バッグを斜めに掛ける。そして俺の両腕をつかみ、しゃがんで背中を向けると、俺の身体を背負った。

 門馬は細い身体に自分より体格のある俺を背負っているにもかかわらず、しっかりとした足取りで屋敷の中を進んでいく。前を歩いていくタロについていき、何度か襖をあけ、最初の玄関にたどり着いた。さっきさまよっていた部屋の数を考えると、計算が合わないな、とその背でぼんやりと俺は考えていた。


 藪の中を下り、道路に出た。門馬が携帯でタクシーを呼ぶ。ぐったりした俺を見てタクシーの運転手のおじさんは病院に行ったほうがいいかと聞いてきたが、断った。首筋についた跡と貧血の関係性について、医者に説明できる気がしない。

 そのまま一時間ほど走り、無事門馬の家にたどり着くことができた。家に着く頃には薬が効いたのか肩を借りて歩ける程度にまで回復していた。

 

「悪いんだけど、今日泊って行っていい?ちょっと動けそうにない」

 玄関から入ってすぐ右の部屋、門馬の家のリビングにあるソファに横になっていた。一度身体の力を抜くと張っていた気も緩み、立ち上がることがひどく怠く感じた。

 それにこんなろくに動けもしない状態で家に帰ったら、何があったのか問いただされるだろう。危ないことしているのを家族には知られたくない。

「いいけど。家には連絡入れとけよ」

 門馬がどこかからか持ってきた厚めの毛布を俺に掛けた。

「分かった」

 携帯で姉にメッセージを送ると、すぐに返信が返ってきた。外泊するのは珍しいので、ひょっとして彼女でもできた?と冷やかしてくる。

 姉は恋多き女であるためか、すぐそういう方向にもっていく。暇な奴だな、と無視していると嫌がらせにすごい勢いで『ねぇねぇ構って』マークの熊のイラストを連投してくる。これは面倒くさい。

 なんとか身体を起こし、背もたれに身体を持たせかけると、門馬に手招きをした。怪訝な表情をして門馬が近づいてきたので隣に座ってもらい、ケータイを向ける。

「はい、画面見て」

 きょとん、とした門馬と自分の写真を撮る。友達の家に泊まるのだ、とメッセージを添え、姉をひとまず門馬とのツーショットで黙らせることにした。

「え、この写真どうするの」

 急に二人で写真を撮られ、門馬の顔は写真の用途を気にしているのか引きつっている。

「姉に送る。彼女でもできたんじゃないかってうるさくて。すまんが協力頼む」

「あー、なるほど。大変だな」

 門馬は苦笑すると、同情するように肩をたたいて部屋から出ていった。

 しかし平穏もつかの間、姉が『きゃー美人じゃない!』と騒ぎ出す。面倒くさい。

 携帯を毛布に投げ、ソファに倒れ込んだ。


 次の日の朝、リビングに漂うトーストのいい匂いで目が覚めた。腹がぐうと鳴る。昨日の夜は晩御飯も食べる余裕もなく、泥のように眠っていた。足をソファの下に下ろしてみる。少しふらつくが、しっかりと二本の足で立つことができている。いい兆しだ。

「起きたのか」

 門馬がリビングの後ろ側にあるキッチンカウンターからソファの前に立つ俺に、視線を向けた。ちょうど焼きあがったトーストを、トースターから皿につまんで置くところだった。

「腹減ってるか?」

「減ってる」

「俺はもう一枚焼くから、これ食っとけ」

 今ちょうど焼きあがったトーストをカウンターテーブルに置いた。俺は背の高いカウンターの椅子に座る。

「ありがとう」

 そう言ってから門馬の顔を見て昨日の失敗を思い出し、俺は視線をこんがりきつね色に焼きあがったトースターに下げた。

「まぁ、飯食えるくらい元気になってよかった」

 門馬は気にする風もなく、トースターに二枚目の食パンを放り込む。

「ごめんな、仕事の邪魔して」

「お前がそんな殊勝に謝るって、よっぽど弱ってんな。もうちょっと寝とけば?」

 俺そんな殊勝じゃない性格だろうかと、もそもそトーストを食べながら考えた。

「いや、俺自分でついていきたいって言っといて、あんな罠にかかるってバカだなって」

 いるはずのない姉の姿を見た時点で、罠だと気づくべきだった、と冷静になった今は思う。しかしその時は門馬とはぐれてしまって気が動転していた。

「どんな罠にかかったんだ?」

 門馬が焼きあがった二枚目のトーストをトースターからつまみ上げながら訊いた。

「急に襖をくぐった門馬がいなくなって。捜して部屋色々見て回って探してたら姉ちゃんがいてさ。ついていったら、あの女に襲われた」

「ふうん。それで、襲われたときはどんな感じだった?」

「なんか頭がぼうっとして、急に女のことを知らないのに、知ってる風に思えて。あと近づかれたとき、すごくいい匂いがした」

 朦朧としていた記憶をたどってみると、我ながらざっくりとした要領を得ない説明だったが、門馬は真剣な表情でトーストをかじりながら聞いていた。

「俺を見失う前、何か他に変わったことはなかったか」

「そういえば、足がチクっとした。イグサが刺さったみたいに」

 訊かれてみると、その時の詳細な記憶が徐々に戻ってきた。

「あとはそうだな。お前を探しているとき、多分部屋の数が増えていた。帰りに通った部屋の数と合わない」

「なるほどな。幻覚見せられてたのかも。俺を見失った時にはもう術中にかかってたんだろう」

「その時気づけたら良かったのに」

 ため息をついたが門馬は首を振った。

「夢を見ているときは夢だと気づけない。稀に気づいたとしても、その夢から覚めることができるかは、場合によるだろう」

「そんなものか」

「そういう幻術に耐性をつけることもできる。でも訓練も何もしていないお前を連れて行った俺にも責任はある。そうへこむなよ」

 門馬はそう言ってサクサクとパンをかじっていく。

「話を聞いて、実際見た物とを合わせて考えてみると、正体は女郎蜘蛛じゃないかと思う」

「女郎蜘蛛?」 

 たしか、蜘蛛の種類でいた気がする。

「あぁ。妖怪でそういうのが居るんだ。男をたぶらかして、生き血をすするっていうのが。元々駆け落ちしようとした男に振られて死んだ女の霊が妖になったものだ、って伝説があるから、多分術に掛けた相手を、自分の男に見立てて殺すんだろう」

「じゃあ、あの女のことを知っているように思ったのは、その男の心情を俺に投影されていたからか」

「そうかも。それに相手の警戒心を緩めるため、っていうのもあるだろう。最初守口の姉に化けて出てきていたみたいだし」

 確かに、知っている人間に対しては警戒心が薄れる。俺も焦り始めた時には手遅れだった。その隙に付け込んで落とすのだろう。


 

「次は来週の土曜日に。はい。それまでそのままで」

 朝食の後、門馬がリビングで依頼主への電話をしていた。とりあえず来週の土曜日に出直すことにしたので、それまで家を離れたままにして近づかないように、と念を押していた。聞こえてきた内容によると旦那さんは、仕事についてはひとまず長期の休暇を取って対応するとのことだ。

「はい、家には帰らないでください。では」

 門馬が電話を切ったのを見はからって、声をかけた。

「俺も行く」

「お前も来るの?」

 えー、という顔をしながら門馬が俺を振り返った。まぁ、その気持ちはわかる。一回しくじっているしな。

「また女郎蜘蛛に襲われたらどうする気だ」

 やはり門馬もそこをつく。それを言われると前科持ちとしては痛い。

「でもお前一人で行って、失敗したら誰が助けるんだよ。確かに今回ヘマしちゃったけど、次は同じ罠には引っかからない」

 なんとか説得しようとしてみるが、それでも門馬は納得していない様子だった。

「それに雪女の時、俺いなかったら危なかったろ」

 思い出して付け加えてみたが、これにはぐっと門馬が言葉に詰まった。もう一押し。

「だから、な。連れて行けって。さっき言ってた、術に対して抵抗する力って、どうやって身に着けるんだ?練習していったら、ちょっとはマシだろ」

 とりあえず、解決策も併せてたたみかけてみる。ここさえクリアできれば、おれがついて行っても問題はないはずだ。

「一石一鳥で、身につくもんでもないんだけど」

 門馬は電話をする間、横の壁に立てかけていた日本刀を取り上げた。

「それは?」

「対妖怪用。物理攻撃だから霊体には効かないけど」

「銃刀法違反なんじゃ?」

 細かいことだが気になって訊いてみた。

「許可とってる」

 門馬はその横の引き出しから許可証を取り出した。

「えらいな」

「お前も早くバイクの免許取りに行け。つかまるぞ」

「それはそのうち」

「あっそ。で、刀の話か。これ持ってたらとりあえず、幻術にはかかりにくくなる。でも確実にかからないようにするためには、それなりの修練がいる」

「修練?」

「要するに、鍛えろってことだ。これちゃんと振り回せるくらいに」

 要するに、腕力を鍛えないと使えないのか。えらく脳筋な道具だな。

「刀使ったことないけど、やってみる」

 そう言うと、ため息をついて門馬は廊下に出ていった。そしてしばらくして、手に門馬のと同じような日本刀をもう一本持って帰って来た。

「これ使え。親父のが余ってる」

「お父さんが使ってたやつ?」

「あぁ、いつも使ってた刀の、予備のやつだけど」

 手に渡された刀はズシリと重い。

「本物の刀って重いな」

「練習しないといざっていうとき使えないからな。今週、入試期間中で学校休みだろ。その時間使って、みっちり鍛える。来るっていうならそれで何とかしろ」

「わかった」

 それを聞いた門馬はうなずく。そして戸口まで歩いて行って、ためらうように振り返った。

「俺は、お前が怪異が見えるようになったから、対処法を教えるつもりで仕事に誘ったんだ。それで却って危ない目に合うようじゃ、意味がない」

 門馬の黒い目は、いつもはまっすぐ俺の目を見るのに、珍しく揺れていた。

「今更だろ。それに刀が使えるようになれば、怪異への対処法の選択肢も増える」

 そしてにやっと笑って付け加えた。

「あとはそうだな。結構この仕事、楽しい」

 手伝いを申し出たのは、門馬が心配だ、という思いも大きい。でも、いつも門馬の仕事を手伝う動機の、根幹にあるのはそれだった。異形のものを相手に恐怖を感じないわけではない。だけどそれ以上に、恐怖や焦りで感情を揺らすことを、自分は楽しんでいるように思う。

「正気か」

 門馬は瞬きして俺を見ると、苦笑した。

「俺は家業だったから考える前にこの仕事をしていて、その延長で続けているだけなんだが」

「まぁいいじゃん。理由なんかどうだって」

「いいならいいけど。じゃあ今日から刀の練習始めるぞ。とりあえず風呂でも入って、さっぱりしとけ」

 門馬が廊下に出て、扉を閉めた。


「痛っ。また一本か」

 門馬に竹刀ではたかれた右手の甲がじんじんと痛んでいた。

 風呂に入って着替えた後は、門馬に連れられて一階の奥にある広い板の間に案内された。天井の高いその部屋は道場のような雰囲気で、実際その用途のためにあるようだった。既に用意されていた防具を身に着け、今は門馬と向かい合い、剣道の基礎練習のようなことをやっている。

「防具外していい?」

 来ているのは剣道の防具だ。始めて着たが、すごく重い。こんなの着て剣道部員は戦ってたのか。

「だめだ、危ないだろ。それに着たままのほうが負荷かかって鍛えられる。我慢しろ」

 同じく防具を付けた門馬も少し息が荒いが、まだ余裕はありそうだ。

「分かった。じゃあいくぞ」

 今度は俺が踏み込んで頭に竹刀を振り下ろした。しかしあっけなくはじき返され、また先ほどと同じく小手に一本もらった。

「いてっ、あーもー」

「今日始めたんだ。しょうがない。とりあえず動くもの相手に剣振る練習だけできればいい」

「蜘蛛女が剣豪とかだったら死ぬ。ああいう妖怪って長生きしてそうだし、剣の一つや二つもたしなんでそう」

「真面目に防具つけて剣道してる蜘蛛女、想像できるか?」

「わかんないぞ。うちの姉ちゃんキックボクシングやってるし」

「お前の姉ちゃん強そうだな」

 多分俺より強いと思う。背も高くてガタイ良いし。幼少期は殴り合いのけんかとかしたけど、今は勘弁してほしい。

「じゃあちょっと休憩挟むか。午前中ずっとやってたし。昼飯食べよう」

「やった」

 修練と聞いて覚悟はしていたが、想像するのとやってみるのとでは雲泥の差だ。


「お前うどんで生きてるの」

 外に食べに行くのはちょっと遠いので昼飯を作ろう、という話をしながら二人でキッチンに向かった。しかし、冷凍ものあるからそれでいいだろ、と言いながら門馬が開けた冷凍庫の中身は、タイルのように敷き詰められた冷凍うどんのパッケージでみっちりしている。

「野菜と果肉とか入れたら、簡単に栄養とれるし。便利だろ」

 そうは言うが、栄養とれてるのかどうかも怪しいぞ。とりあえず冷凍庫は閉じて、冷蔵庫と野菜室のほうを開けてみる。うどんの具材に使おうとしていたのか卵、鶏肉、ネギ類は発見できた。

「じゃあ教えてもらってるお礼に、俺飯係になるわ」

 このままだと一週間みっちりうどんを食わされそうなので、提案してみた。

「お前料理できるの?」

 門馬は不審そう。できないやつにできるの?とか聞かれたくないんだけど。

「できるできる。親共働きで夜遅いし、姉ちゃん食うの好きなくせに作るの興味ないから、俺がほとんど作ってる」

「へぇ。じゃあ頼む」

 門馬の許可が出たので、この材料で何を作れるか考えた。

 まずは米を研ぎ、炊飯器へ。あまり使われていないのか炊飯器はピカピカだ。早炊きのスイッチをオンにする。そしてネギを刻み、鶏肉を油で炒めた。いい具合に焼きあがったところで皿に上げる。やることがなく手持ち無沙汰になっている門馬を追い払い、卵を溶き、味付けをする。食器棚をあさり、どんぶりを二つ確保。

 ここで一息つく。そして冷蔵庫を開け、ほかの具材を確認する。そして作れそうな献立と買い足したほうがいい材料を考えているうちに、炊飯器がピーっと音を立て、炊きあがったことを教えてくれた。

 溶いて味付けした卵で、焼いておいた鶏肉と刻んだネギを絡める。半熟くらいになったところで火を止め、どんぶりに米を盛った。その上にフライパンの上の具材を盛りつけ、冷蔵庫から発掘した三つ葉を添えて完成だ。

「門馬、できたぞ」

 声をかけると、リビングのソファで携帯をいじっていた門馬が顔を上げた。

「いい匂いする」

「親子丼だ」

 門馬はカウンターに置いたどんぶりを興味深そうに見た。

「そんなの作れるんだ」

「簡単だぞ」 

 箸を渡し、椅子に座った門馬の横に並んで座る。

「頂きます」

 そう言うと門馬はどんぶりに箸をつけた。

「うまい」

「普通だけど」

「うどん以外のもの、外食以外で久しぶりかも」

 やっぱ俺が作るって言ってよかったなと思いながら、熱々の親子丼をかき込んだ。

 二人が箸を置くまでに、そう長くはかからなかった。食後に熱いお茶を入れてすすりながら、門馬に話を切り出した。

「今週練習するなら、もう泊り込んでいいか?」

「別にいいけど」

「じゃあ着替えとか取りに、今からいったん家戻る」

「分かった。帰ってきたら、また稽古だぞ」

「うん」

 椅子から降り、どんぶりを流しに置いて財布と携帯をポケットに突っ込んだ。

「あ。今日バイク乗ってきてない」

 ふと思い出し、頭を抱えた。昨日門馬に会うまでに駅前まで乗っていって、そこの駐輪場に置いたままだ。

「こっから駅まで遠いぞ。頑張れ」

 門馬は満足げに茶を飲みながら、ひらひらと手を振っている。

「あー、もういい歩く歩く」

 やけになって玄関から外に出て、部屋の中と外気の温度差に震えた。

 そのまま三十分ほど歩き、最寄り駅に着く。

「門馬いつもこんな距離歩いてんのかよ」

 げんなりとしながら久しぶりに電車を乗り継ぎ、バイクを回収してから家に向かった。

「おっかえりー」

 鍵をまわして玄関を開けると、姉が自分の部屋から勢いよく出迎えてきた。

「うえ」

「うえって何よもー。それよりお泊り会どうだったの」

 ぐいぐいと来る姉をすり抜け自分の部屋に滑り込む。しかし後を追ってきた姉にドアを閉める前に入り口を占拠された。

「勉強会だ勉強会。テストヤバいからあいつに見てもらってんの」

 そういいながらスポーツバッグに着替えを詰めていく。

「それで今週学校休みだし、合宿することにした」

「ふーん、大変ね。いつ帰ってくるの?」

「日曜日。じゃ、母さんたちにも言っといて」

「はいはーい」

 俺の言い訳をどうも信じていないらしい姉は嬉しそうだった。今すぐ一人っ子になりたい俺は、スポーツバッグを肩にかけ、姉と戸の隙間を通り抜けようと苦心した。

「でもさーよかったじゃん」

「へ、何が?」

 俺本体は何とか姉をおしのけて廊下に出られたが、姉の筋肉質な太腿と戸の隙間にスポーツバッグが引っかかって出られない。

「なんかあんたいつも映画観る以外つまんなそーだったからさ」

「え?」

 急に言われたことを飲み込むまでに時間がかかった。自分としては、面白おかしく生きているつもりだったが。

「勉強も大して興味ないし、部活も何となくって感じで」

 ふふっと姉はそこで笑った。

「彼氏できてよかったね」

「なんでだよ、そこ友達でいいだろ!」

 突っ込みを入れてその勢いでスポーツバッグを引き抜き、玄関へと向かう。

「美人さんによろしくね!」

 後ろから姉の声が飛んでくる。絶対よろしく伝えない。そう思いながら玄関の戸を叩き締めた。


「疲れた」

「げっそりしてるなお前。そんなに駅まで歩くの大変だったか?」

 玄関に倒れ込んでいる俺を見下ろして門馬は怪訝そうだ。

「姉が。いやもうなんでもない」

 頭を振って姉を追い出す。

「で、練習だよな」

「あぁ。でもその前に荷物置くとこあったほうがいいだろ。ついてこい」

 門馬について二階への階段を上がる。そういえば一階にキッチンや風呂があったから、二階に上がるのは初めてだ。

「この部屋使って」

 案内された先は、ベッドや本棚、そのほか家具がそろっている。

「昔父親が使ってた部屋。ちょっとほこりっぽいけど、ソファで寝るよりましだろ」

「使っていいのか?」

 パッと見た感じ、生活していた時の状態から、あまり動かしていないみたいだ。そのままで置いておいた、ということは思い入れがあるんじゃないのか。

「片付けるタイミングなくてそのままになってただけだから。適当に使ってくれ」

 門馬は俺を残して部屋を出ていった。


 部屋に荷物を置いた跡、その日の残りは再び防具をつけて竹刀を持ち、練習に費やした。

「これ、いつになったら刀持てるの」

「まだまだ早い。竹刀ですら今重いだろ」

「確かに」

 持っている竹刀は見た目に反してずっしりとしていて、振り上げると遠心力に振り回されそうになる。構えているときは剣先を下げるな、と言われるが、地面に平行に保って構えるのでさえ、時間が経つと難しくなってくる。

「よし、もう一本」

 そうかけられた言葉に竹刀を構え直し、踏み込みながら門馬に振り下ろした。



 それから土曜日までの間、みっちりと稽古に時間を費やした。刀を扱えるようになったのは、金曜になってからだ。

「やっと刀持てたな」

「素人が振り回す刀受けるつもりはないから、素振りだけしとけ」

「あー、うん。わかった」

 竹刀で身体にたたき込んだ、踏み込みながら振り下ろす動作を刀でなぞる。抜き身の刃を見ていると、刃物特有のひやっとする感覚に背筋がぞわっとした。人の形をしたあの女を、本当に俺は切れるだろうか。

「本番は俺のサポートに回れ。多分出番はない」

 門馬が自分の防具を脱いで片付けながらそう言った。

「こんなに練習したのに?」

「バカ言え。俺が何年、怪異を退治するのに刀使ってると思うんだ」 

 何年くらいだろう。十年とか?どのみち一週間では付け焼刃ってことか。

「結構出番あるの?これ。ほかの依頼で使ってるとこ見たことないけど」

 一緒に行った依頼に関しては、門馬は札や火を使った術で対応していた。

「あんまり刀使うの好きじゃないから。できるだけ他の術で対応してるってだけの話。じゃあ俺抜けるけど、練習しとけよ」

 門馬は練習場を出ていった。

 好きじゃないってことは、門馬も何か生きているものを切るってことが、嫌なのかもしれない。そう考えながら、女郎蜘蛛の姿を目の前に想像し、ひたすらに刀を振り下ろす動作を重ねていった。


「じゃあ、第二ラウンドだな」

 門馬と二人、佐々岡邸の前に立ち、そびえたった邸宅を見上げる。背中の竹刀入れには刀も入れてある。刀を振り下ろす練習も飽きるほどしたし、準備は万端だ。

「今度は姉だろうが母親だろうが、ついていくなよ」

「母親についていったのは門馬だろ」

 雪女ネタは門馬いじりの鉄板である。

「うるさいな、行くぞ」

 門馬は不機嫌そうに足を踏み出した。


 屋敷の中を見て回るが、やはり前回の多すぎる部屋は幻覚だったようだ。早々にいくつかの部屋を通り抜け、女郎蜘蛛に襲われた廊下にたどり着く。

「今日はいないな、どこだろ」

「家の中にはいるだろ。二階まだ見てないし」

 そういえばこの家、二階あったな。元来た経路を戻り、玄関へと戻る。

「あれ?誰か来てる」

 玄関の扉にはまった曇りガラスに人影が見える。佐々岡さんへの客だろうか。じっと見ていると、その人影は、急に手をあげ、ガラス戸をたたき始めた。

 バンバンバンバンバンバン

 たたかれるたびに、玄関の扉がガシャガシャと音を立てる。

「え、これ何?女郎蜘蛛?」

 焦っていると、門馬は冷静に玄関へ歩みよった。指をドアのカギにかけ、ガシャリと音を立てて開錠する。

 開いた扉の前には、佐々岡家の息子が立っていた。確か、名前は敏夫だったか。痩せた身体に目だけがらんらんと輝いている。

「おねがいが、あって、来ました」

 とぎれとぎれにささやかれる言葉には、荒い息が混じっている。

「何でしょうか」

 あくまで冷静に対応する門馬の肩に、敏夫は痩せた枯れ木のような手をかけた。

「かのじょを、ころさ、ないで」

 言葉が震えている。ここまで来るものやっとだったのだろう。足の力が抜けたのか、地面に座り込んだ。

「依頼を受けた以上は、対処せざるを得ません。それにあなたの彼女への想いも、すべて騙されていたことです。忘れなさい」

 そう言う門馬の言葉に、頭を振って敏夫は答えた。

「それ、でも、いいんです。おねがいです、おねがい」

 壊れたように繰り返す敏夫の言葉に門馬は頭を振った。

「人の命を守る。それがこの仕事で一番に優先されないといけないことです。怪異に対して特別な感情を持つこと自体は罪ではないですが、それが人の命を脅かすとなれば、話が違います」

 門馬はうつむいた敏夫に話しかけながら、後ろ手に俺に携帯電話を渡した。その画面には、佐々岡の文字と番号が表示されている。うなずいてその場を離れて応接室に入り、佐々岡さんに電話をかけ、電話口に出た佐々岡さんに敏夫が来ていることを伝えた。

 しばらくすると、玄関に佐々岡夫妻が車に乗って現れた。二人は迷惑をかけたことを詫びながら、敏夫の身体を抱え、三人で車に乗り込んだ。そしてその車は木々に覆われた坂道を遠ざかっていく。


「殺されかけたのに、殺すなって。そんなにあの女のことが好きなのか」

 敏夫の憔悴し切った様子が、目に焼き付いてしまっていた。異形のものに対して、そこまでの思い入れを持つことができるものだろうか。

「女郎蜘蛛は、ターゲットにした相手の魅了を得意とする。案外、毒牙に掛けられた当人たちはそのまま死んでしまうほうが幸せなのかもしれん。でも依頼されて受けたからには、仕事しないとな」

 門馬は伸びをしながら言った。

「さて、二階の探索だ」

「そうだな」

 この出来事を乗り越えて生きていけるかは、敏夫次第だ。俺たちの仕事は、ゴーストをバスターして人命を守ること。


 二階はあまり使われていないのか、ほこりがたまっていた。蜘蛛の巣がそこかしこにあり、嫌な雰囲気だ。一番奥まで廊下を歩き、扉を開いて中にはいると、床の間のある十畳ほどの和室だった。

「門馬、これあの女に似てる」

 ふと見た床の間に、掛け軸があった。そこに描かれた女は、前に見た女郎蜘蛛に似ていた。

「これが、呼び込んだのかもしれないな。いつ頃手に入れたのか、佐々岡さんに電話して訊いてみる」

 門馬が電話を手に廊下に出た。俺も続こうとしたが、気配を感じて後ろを振り向いた。

 

女郎蜘蛛が、うっすらと笑みを浮かべて立っていた。慌てて背中の刀を取り出し、さやを払って構える。

「門馬!女郎蜘蛛だ」 

 声を上げて、背後を見た。

 扉がない。入ってきたはずの引き戸は土壁へと姿を変えていた。

 また幻惑にかかってしまったようだ。冷や汗を流しながら、刀の柄を握り直した。

「またあったわね、坊や。いい玩具持ってるじゃない」

 ゆっくりと近づく女郎蜘蛛と距離を保ちながら、お互いの位置を入れ替わるようにして移動する。女郎蜘蛛は刀の届く範囲には入ってこようとしない。

「試してみる?」

「遠慮しとくわ。痛いの嫌いなの」

「新しい扉開けるかもよ」

 精一杯の軽口をたたく。この狭い室内で閉じ込められ、逃げ場もない以上腹をくくるしかない。息を細く吐き、吸い込む。一気に距離を詰め、踏み込みながら刀を振り上げ、女郎蜘蛛の頭にたたき下ろそうとした。

「門馬」

 女郎蜘蛛が一瞬にして門馬の姿をとる。その見慣れた黒い目に見詰められ、動揺して思わず刀を下げた。

「刀をしっかり握れ!」

 女郎蜘蛛の背後から鋭い声が飛ぶ。その言葉にはっと気を取り直し、剣先が下がっていた刀を構え直した。門馬の姿をとった女郎蜘蛛は背後から聞こえた門馬の声のほうに向きなおった。

 今だ。

 ざっくり、と振り上げた刀を勢いよく女郎蜘蛛の身体に振り下ろした。青い血が飛びちり、畳を染め上げる。それでもなお俺に向き直り、牙をむく女郎蜘蛛。幻覚は解け、顔に青い血管を浮き出させ、鋭い牙をむき出しにしている姿が見えた。そして口を横に大きく割くかのようにぐわっと広げると、俺にかみつこうと飛び上がった。その刹那、女郎蜘蛛の背後にあった土壁が揺らぎ元の開いた戸に戻った。その向こうから駆け寄ってきた門馬が、手に持った刀を俺につかみかかっている女郎蜘蛛に振り下ろした。

 地面に倒れる女郎蜘蛛。ビクビクと痙攣するように、しばらく動いていた。しかしその姿はみるみるうちに崩れ、無数の蜘蛛になった。あわてて足をよけると、蜘蛛はあちこちに走りながら散らばり、どこかへ消えていく。残されたのは畳に飛び散った青い血だけになった。


「これで、しばらくは大丈夫だ」

 様子を見届けた門馬が、ほっと息をついて言った。

「しばらくって」

 緊張がとけ、俺は畳に膝をついた。

「百年くらいってこと。また女郎蜘蛛としてあの蜘蛛が集まってよみがえるには、それくらいかかる」

 殺したわけじゃないのか、とどこかほっとしている自分がいた。人ではないとはいえ、人の形をしたものを切り捨てるのは、やはりまだ抵抗がある。肉を断ち切ったときの感触が、まだ手に残っていた。

「ごめん、また惑わされた」

 門馬の手を借りて立ち上がる。

「結果はなんとか及第点だな。赤点すれすれ」

「じゃあセーフ。大体テストはそんな感じ」

 掛け軸のほうを見やると、女の姿を描いていたのが白紙に変わっていた。

「あんなのに怪異が宿るとかって、あるの?」

「時々あるな。強い執着心でもって作られた物品には、思念がこもりやすい。最近は妖怪も居場所がなくて、ああいう強い力を持った骨董品とかに居場所を求めるやつらもいると聞く」

「そうか」

 白紙になった掛け軸。この絵も女郎蜘蛛に魅了された人間が、ひょっとして命を引き換えに描いたものではないかと考えてしまう。怪異を宿すほどの執着心。敏夫の女郎蜘蛛に対する命をささげてもいいという悲痛な叫びを聞いた後では、あり得ない話ではないと感じた。


 門馬は佐々岡夫妻に連絡を取り、家族は一週間ぶりに家に戻った。掛け軸について話を聞いてみると、ご主人の趣味で最近手に入れた骨董品だったそうだ。白紙になった掛け軸は門馬が処分をするということで引き取ることになった。

 嬉しそうな両親の反面、息子の敏夫は相変わらず憔悴しきっていた。このまま怪異とは関係なく、自分で命を絶ってしまうのではないかと思ったが、そのあとの心のケアについては佐々岡家に任せるしかない。

 俺たちは佐々岡邸を後にして、門馬の家に戻った。


 門馬の家で散らかした部屋の片付けを終え、翌日の日曜日の夕方帰宅すると、リビングで姉が心なしかげっそりとやつれていた。                

「あんたいない間料理してたんだけどさ、自分の作ったご飯っておいしくない」       

「姉ちゃんが料理下手なだけじゃね」                

「レシピ通り作ったわよ。あんたがお嫁に行ったら生きていけない、物理的に」

 俺は嫁には行かないし予定もない。   

「姉ちゃんがお嫁に行くんだろ。付き合ってた彼氏はどうなったんだよ」      

「振られたわとっくに」               

 姉ちゃんは遠い目をしてソファにぐったりとしている。             

「筋肉付けすぎッて」

 確かに姉ちゃんは鍛えているだけあって少しマッチョ、いや筋肉質だ。              

「筋肉はあって困るもんじゃないだろ」                

 最近門馬とつるみだしてから特にそう思う。

「まぁ、見る目なかったんだよそいつの。次いけ次」

 適当にけしかけるとちょっと復活してきたらしく、スライム状になっていた姉は人間の形に戻ってきた。

「そうよね。人類の半分は男だし」

 それは守備範囲広げすぎだろ姉ちゃん。

「ねえ今日の晩御飯何するの?」

「返ってきて早々言うそれ?」

 とりあえず冷蔵庫を見てみる。

「卵と鶏肉とネギ、か」

「親子丼、親子丼」

 姉がはしゃいでリクエストを飛ばしてくる。

「分かった、今作るから待て」

 材料を出し、支度にとりかかる。ほどなくして親子丼の具材が完成した。米を盛り、その上に具材を乗せていく。

 ダイニングテーブルに並べた、二つのどんぶり。姉がいただきまーすと声を上げ、旨そうに親子丼をかき込む。その姿を見ながら、そういえば門馬はまたうどん生活に戻るのだろうか、と嫌な心配がふと頭をよぎる。滞在中は三食作っていたが、門馬はいつもうまそうにその料理を食べていた。この一週間でちょっとは自炊に目覚めて改めてくれているといいんだけど。

 そう考えながら、どんぶりの中身を口に運んだ。


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