第4話 雪女ノ怪
「今回の依頼は雪女だ」
「へぇ。昔話に出てくるやつ?」
「そうだな。それが人を襲っている」
雪道をざっくざっくと歩きながら、門馬は今回の依頼の概要を説明した。いつも連れている式神のタロは、寒さに弱いためお留守番だ。
「雪女って美人なんじゃない?」
俺のおぼろげな記憶ではそんな設定だった。
「さぁ。雪女でも色々いるからな。山姥と雪女が混ざった『ユキンバ』ってバージョンもある」
「チェンジで」
雪女がいい。
「殺されるぞ」
門馬は呆れ顔だ。
「だけど雪女は好みにうるさいと聞くからな。むしろお前がチェンジかも」
なんでだよ。
「ぴちぴちの男子高校生なんですけど。ダメですか、期間限定ですよ」
「私はいいわよぉ~」
一瞬、ユキンバが出たのかと思ってビクっとした。雪道の先の宿屋から、小太りのおばさんが小走りに走ってくる。満面の笑みが何故か怖い。
「かわいい子たちが来たわねぇ。私が依頼主のこの宿の女将よ。寒かったでしょ~。入って入って」
やたらとベタベタ触られながら宿に入る。さりげなく身を引いても追い詰められ、忙しなく肩や背中に乗った雪を払われる。
「いや、大丈夫ですって。ほらもう、だから大丈夫」
「着いて早速なのですが、女将さん。雪女について聞かせて頂けませんか」
もみくちゃにされる俺を見かねたのか、助け舟が出た。ありがとう門馬。
「そうねえ。宿のお客さんが、スキーに行ったまま帰ってこない。やっと倒れているところを見つけたら、死にかけている、っていうのが続いてて」
おかみさんが困ったように頬に手を当て可愛く首を傾げた。映画ではよく見るが、あまりこの仕草をする人をリアルで見た事がないかもしれない。
「しかもその人たちが、吹雪の中でアイドルにあっただの映画女優を見ただの、はたまたあれは雪女だった、って言うものだから。寒さで見た幻覚かもしれないけど、一応お祓いしてもらおうと思ったのよ」
「分かりました、なんとかします」
主に、門馬が。
「頼もしいわぁ~」
おかみさんが素早く俺の頭に手を伸ばしたかと思うと、すごい勢いで髪をかき回してきた。首がもげそうだ。
宿に荷物を置いた後、おかみさんに聞いた、雪女目撃スポットを二人でひたすら歩く。途中で俺は雪を踏み抜き、深い道路脇の溝にハマった。
「門馬、引っ張って」
「何やってるんだ」
「手ついても、沈むから上がれない」
必死にはい上がろうとするが、その手自体が沈んでしまい、一向に上がれない。門馬に助けてもらい、なんとか這い出す。
「雪山って怖いな」
「歩くだけで死にかけるとかな」
しばらく歩いていると、急に吹雪いてきた。視界が白い。このままだと遭難するんじゃないか、と声をかけようとした時、門馬が急に立ち止まった。
左のほうを、じっと取り憑かれたように見ている。視線の先を追うと、数メートル先に白い女の姿があった。その女は冷たい整った顔立ちで、切れ長の目は銀色に光っていた。そしてその目は、まっすぐ俺の顔を捉えている。こいつが、雪女か。やっぱり美人だった。
「雪女だ」
銀色の瞳を見ていると、身体が勝手に動き、ふらふらと引き寄せられた。
「あ、あれ?」
なんだか目の前の景色が蜃気楼のように揺らぐ。焦点が合うと、映画女優のメグ・アンダースンが立っていた。人気のハリウッドゾンビ映画の主人公役として有名だ。
その真っ赤に塗られたルージュが開いた。
「お前じゃない」
氷のように冷たい声だった。
その言葉が聞こえた瞬間、めまいを起こしたかのように、足の下の地面の感触が無くなり、視界がぐらっと揺れた。
「ここは、レンタル屋?」
よろめいた身体を立て直すと、周囲の景色がガラリと変わっていた。
壁や規則正しく並べられた棚には、ずらっと所狭しと映画のパッケージが並んでいる。家の近所にあるレンタル屋だ。
俺は門馬と雪山に居たはずだ。気を失っている間に移動したのか?
「おーい、門馬」
呼びかけるが、返事はない。
ひとまず外に出ようと、出口に駆け寄るが自動ドアは開かない。高いところのものを取る用の踏み台があったので、それを取り上げ自動ドアのガラスに振り下ろすが、弾かれてしまい、ヒビ一つ入らなかった。外にも中にも人一人いない。窓の外は昼頃だろうか。太陽が煌々と照っている。店内は蛍光灯に照らされ、隅々まで明るかった。
人の気配を全く感じないが、誰かいないかどうか見て回った。バックヤードも覗いてみたが、ディスク確認用のモニターと再生用デッキが置いてあるだけだ。
仕方なく、棚からお気に入りの一本を取り出し、バックヤードのデッキで再生する。映画は随分前に作られたものだが、ストーリーの展開といい、アートワークといい良く出来ている。映画の中身は、昏睡状態に陥った連続殺人鬼の意識の中に捜査官がダイブして、人質の居場所を探そうとするものの、その精神世界で殺人鬼の狂気に追い詰められていく、というシナリオだ。宣伝用広告が終わり、序盤の殺人鬼が被害者の死体を処理するシーンが始まる。
「くつろいでるな」
突然かけられた言葉に、俺がバッと後ろを振り向くと、門馬が呆れた顔で立っていた。
「門馬、いたのか」
「早くここ出るぞ。これは現実じゃない」
「やっぱりそうなの?すごいリアルだけど。ここ、近所のレンタル屋そっくりでさ」
「雪女がお前の記憶から作ったんだ。出るための鍵がどこかにある。何か、現実と違うところを探せ」
「違うところ?」
「お前が思い入れのある品とか。ここだと映画かな。片っ端から見ていけ」
そう言われても、ここに一体何本の映画があると思っているんだ。
「パッケージ見るだけでいい。早くしろ」
とりあえず、俺的おすすめベストテンを抱えて、門馬の待つカウンターに戻った。
「どれも違うみたいだな。ってお前こんなの好きなのか。俺も観たけどラストが納得いかない」
門馬がパッケージの裏表を確認しながら、俺の選んだ映画にケチをつけた。
「何でだよ。あの主人公の絶望感がいいんだろ」
「あそこまで粘ったのに『実は全部徒労でした』って言われたら俺の二時間返せ、って言いたくなる」
「お前が頑張ってサバイブしてたわけじゃないんだからいいだろ。実は結構主人公に感情移入するタイプか?」
やいやい言いながら二巡、三巡するが鍵は見つからない。そろそろお気に入りも尽き始めた時、カウンター近くの棚を見上げてあることに気づいた。
「この映画のディスク、紛失中のはずだ」
映画評論サイトでの評価も高い上、マイナーなその映画は配信サービスには並んでおらず、レンタル屋にも足を伸ばしたのだがいつまでも借りられたままだった。業を煮やし店員に聞いてみると、誰かが借りたまま紛失してしまったと言われた。新たに入荷する予定もないため、空のケースもいつのまにか撤去されていた。この店に並んでいるはずがない。
「よく分かったな」
門馬が驚いた顔でそう言った。そのパッケージを取り出すと、表面が全く映画の内容とは違う、雪山の風景になっていた。それがみるみる内に視界に広がり、ひっくり返ったかと思うと、俺は雪の上で木立の隙間の空を見上げていた。
横で門馬が起き上がる。右手を引っ張られ首をひねって見ると、俺と門馬の手首は鈴のついた赤い組紐のようなもので繋がれていた。
「凍死する前に起きられてよかった。雪女は相手の望む幻覚を見せ、その隙に精気を奪い取る」
「望むものを見せる、か」
マッチ売りの少女みたいだ。死ぬ前にせめていい思いさせてやろうという、雪女のせめてもの気づかいだろうか
「ってことは、お前の願望ってレンタル屋に住むことだったのか。もういっそ就職したらいいのに」
それは俺も一時期真剣に考えた。
「考えたけど、結局観るのは好きだけど接客は別に好きじゃない、って結論に落ち着いた」
「なるほど。それで無人だったのか」
言われて気づいたが、そうだったのかも。夢は赤裸々に願望を映し出す。人類が滅びレンタル屋だけが残る未来がおれの野望か。
門馬は息を吐いて、かじかんだ繋いでいない方の手を温めている。
「今日は日も暮れる。明日出直そう」
二人で協力して複雑に組まれた紐を解く。先についた鈴がシャランと音を立てて紐ごと滑り落ちた。
「この紐なに?」
「夢をつなぐ道具。といっても相手の夢に入っていく方の力がそれなりにないと成功しない」
「ちょうど夢の中でそんなストーリーの映画観ようとしてた」
「古い術だからな。元ネタはこっちが先だ」
門馬は雪を払うと紐をポケットにしまい、俺に手を差し出した。その手を握り、立ち上がるが、すぐによろめいた。
「ふらふらする」
今にも足の力が抜けそうだ。
「そりゃこんな寒いとこで気絶してたらそうだろ。とりあえず宿に戻るぞ」
門馬に肩を借り、旅館までの道筋をたどった。
宿に帰った後は宿の暖かい部屋でしばらくダウンした。しかしここまで来てこの宿の名物温泉に入らないのは嫌だ、と力を振り絞り大浴場に向かう。
「お前も来たのか」
部屋にいないと思ったら、先に門馬が入っていた。他に客もいないらしく貸し切りだ。
「そりゃ、温泉宿に来て温泉入らないなんて。成仏できない」
「そしたら祓ってやるよ」
俺に背を向けると、湯船の端から水晶の数珠をはめた手を振った。
「その数珠いつもつけてるな」
「仕事の時だけな。妖の類に効く。これはめた手でつかむと、結構なダメージが相手に入る」
「そんなヒットポイント削れる、みたいな感じで言われても」
「実際そんな感じだ。例えば、ドライアイスつかんだら手、やけどするだろ」
好奇心で子どものころに指を一本、ドライアイスにくっつけてみたことがあった。熱に反応したドライアイスははがれなくて焦ったし、はがれた後も指がしばらくヒリヒリしていたのとで、あまり良い思い出がない。
「あーそれは確かに効きそう」
身体を洗い、湯船に入る。ガラス張りの窓から見える空は、綺麗な月夜だ。
晩御飯は部屋におかみさんが持ってきてくれた。一つ一つお皿を示しながら、季節の食事の説明をしてくれる。
「頂きます」
手を合わせて食べ始めた。旨い。門馬も無言で手を合わせ、食べ始める。
「おかみさんが作ったの?」
「そうよ~この宿ほとんどあたしが切り盛りしてるから」
俺が食べるのを嬉しそうに見ながらおかみさんが言った。
「ロビーに写真あったけど、おかみさんの旦那さんは?」
夫婦と思われる二人が、ラブラブなポーズで写真に収められていた。時系列順らしく、結構な枚数がグルっと壁を囲むように額縁に入れて飾ってあった。その写真にまつわるエピソードもキャプションとして添えられており、部屋を一周するだけでまったくの赤の他人でも、その夫婦の歴史がわかるという仕組みになっている。一番最後には雪山をバックに撮った写真が飾られていたのを思い出した。
「山の事故で死んじゃったの。ごめんなさいねぇお食事中に暗い話しちゃって」
「いえ、こちらの配慮の問題です」
門馬がズっと味噌汁をすすりながら言った。
「俺知らなくて、すみません」
「いいのよぉ。もうずいぶん前のことだし。それにしても」
ずい、っとおかみさんは身を乗り出し、おれの顔をガン見した。
「あなた旦那に似ているわ」
「えぇ?」
そうだったかな。他人と似ているといわれても当人同士はよくわからない、ということがよくあるらしい。自分では判別できないのかもしれない。
「あー、確かにちょっと似てる」
門馬は旨そうに山菜てんぷらを食いながら同意した。
「そうなの」
そういわれるとそんな気がする。いや、俺は納得していない。
「だからつい構いたくなっちゃうのよねぇ」
「はぁ」
あいまいに相槌を打つ。
「じゃあ私は仕事に戻るから、ごゆっくりね」
おかみさんは部屋を出て、ふすまを閉めた。
風呂にも入り旨い食事にもありつき、その夜は明日に備え家では考えられないくらい早い時間に布団に入った。部屋には庭に出ることができる二重になったスライド式のガラス戸がはめられていたが、照明を落とすと外に街灯もないため、月明かりに照らされた雪景色だけが光っていた。
「門馬、もう寝た?」
「寝てる」
「起きてるじゃん」
「修学旅行か」
そんなやり取りをしているうちに、昼間の疲れが出たのかゆっくりと眠りに落ちていった。
ガラスを開くからからという音と冷気に、沈んだ意識が引き上げられた。枕元のデジタル時計を見ると、午前二時を指している。
「門馬?」
ガラス戸を開き、門馬は外を見ていた。一瞬外に出ようとしているのかと思ったが、服は浴衣のままで足は裸足だ。手首の数珠も寝る前に外したみたいで、何もついていない。
「母、さん」
門馬がうわ言のような声で呟いた。
「え?門馬?」
もしかして、寝ぼけてるのか。もう一度声をかけても反応がない。立ち上がって近づき、顔の前で手を振った。それでも全く反応しない。目を開けているが、俺のことが見えていないようだった。
歩き出そうとするのでとっさに手を掴むが、俺の方が引きずられてしまう。こいつ、やっぱり見た目の割にめっちゃ力強い。
「ダメだって」
仕方なく羽交い締めにしようとしたが、布団に足が絡まりバランスを崩した。その隙に、門馬はするりと抜け出して行ってしまった。
「待てって」
俺も裸足のまま外に出る。キン、と冷えた雪が足を刺す。先を歩く門馬の先に、昼間見た雪女がいた。今日は門馬の顔を見ている。
「門馬!」
怒鳴ると、雪女が俺を見た。雪女の銀色の目を見た瞬間、身体中に痺れが走り、動かなくなった。声を出そうとするが、掠れた息が吐き出されるだけだ。
つい、っと雪女は俺から目をそらし、門馬に向き直った。門馬はその前に、ぼうっと立っている。
「その顔じゃ」
雪女が艶やかに笑った。
「そなた、我の仲間にならんかえ」
雪女はそっと頬を両手で包み、門馬の唇に自らの唇を重ねた。
門馬はその冷たさに我に返ったのか、身体を突き放そうと手を雪女の肩にかけた。しかし次第にその手から力が抜け、だらりと垂れ下がる。そして その場で糸が切れたように崩れ落ちた。
「どこにいようとも、そなたの息の根が止まった時、探し出すゆえ。共に山へ帰ろうぞ」
雪女は透き通り、空気の中に消えていった。 それと同時に俺の金縛りも解けた。
急いで駆け寄り、倒れた門馬の側に膝をついた。
「門馬、嘘だろ門馬」
雪の上に横たわった門馬はピクリとも動かない。
「門馬」
固まっていた身体を解いて近づき、頬に触れた。普段から色のない顔が、より一層白く人形の様だ。冷たく冷え切っている。首に手を滑らせると、微かに脈はあるようだ。
「あぁ、もう。行くぞ」
気を失った門馬の手を肩にかけ、抱える。身体全体が氷のように冷え切っていて、徐々にこちらの体温も奪われる。
「駄目だ、寝ちゃ駄目だ」
たった数メートルの距離なのに、寒さで猛烈な眠気に襲われる。
「寝たら死ぬぞ」
映画でよく見るこの台詞を、自分で使う日が来るなんて思わなかった。
部屋に門馬を背負って帰り、和室の横の洋室に設置されている、暖炉の前に寝かせた。
「守、口」
「門馬」
意識が戻ったようだ。
「ゆき、おんな、は?」
まだ寒いのか、歯がガタガタ震えて話しづらそうだ。
「喋るな、もう黙ってろ」
「話さ、ないといけない、事がある」
「なんだ?」
遺言だろうか、まだ死ぬな。
「雪女、の弱点は、熱だ」
熱か。
「雪女って時点でそんな気はしてたけど。うんわかった、なんとかする」
安心させるためにそう言ったものの、無策だ。門馬を餌にするにしても、この様子だ。あまり派手な動きはさせられない。
「どうしよう」
再び意識を失った門馬の顔を見下ろした。
ピチョン ピチョン
ピチョン
断続的に水滴が落ちる音が、タイル張りの大浴場に響いている。一つしかない扉は開いており、その先の脱衣所は大浴場と同じく照明が落とされ、暗闇に飲まれている。かすかな物音にも耳をそばだて、闇に目を慣らしながら息をひそめる。
早く、早く来い。
焦りから早まった自分の心臓の鼓動が、耳元で聞こえるようだ。
ヒタ、ヒタヒタヒタ
木の床の上を歩く足音が、かすかに聞こえた。それは近づいてくると、入り口付近でピタリ止まった。
「約束通り、迎えに来たえ」
雪女の凛とした声が、暗い大浴場に響いた。
来た。
「門馬は渡さない」
俺の声に雪女がゆっくりとこちらを見すえた。俺は雪女に背を向け、宿のおかみさんに借りた手鏡に映した、銀色に光る姿に語りかけた。
「あいつはまだ生きている。渡すわけにはいかない」
「邪魔を、するな」
雪女がひたひたと、こちらに近づいてくる。
まだだ。
「人間風情が」
雪女が階段を登り、こちらへ足を踏み出した。背中に冷気を感じる。裸足の足がかじかみ、つま先から冷えていく。手先の感覚が無い。雪女の呼吸自体が、この場の空気を凍らせていくようだ。じわり、とこちらとの距離を詰めてくる。
いままさに背後に迫った雪女の顔が、手鏡一杯に広がっていた。
今だ。
背後に手を回し、手探りで雪女の腕を掴む。
「うっ」
雪女の腕は冷たく、手のひらがジュッと音を立ててドライアイスを触った時のように、皮膚がくっついてしまった。
「気安く触れるではないわ!」
雪女が冷たい刃物のような声で叫び、もう片方の自由な手を俺の方に伸ばした。
よし、次。
風呂場にあらかじめセッティングしておいた、風呂釜の側面の板を蹴り倒した。となりの桶が崩れ、最後に水が入った桶がその横の板を跳ね上げ、ピタゴラスイッチのように設置していた罠が作動していく。最後に跳ね上げられた蓋の上を歩いていた雪女は足を滑らせ、保温されていた湯に落ちた。同じ蓋に乗っていた俺も一緒に湯に落ちる。雪女が驚愕の表情を浮かべ、悲鳴のような声と共に湯に浸かった下身体が溶けていく。
「おのれ、おのれ人間め!」
雪女の腕を掴んだ俺の手を、もう片方の手で捕まれた。慌ててふり離そうとしたが、皮膚がくっついて離れない。しかしその腕を湯の中に深く沈めると、そのまま徐々に溶かされていく。雪女の絶叫が響いた。
やがて反響した声が消える頃には、風呂に櫛が一つ、浮いているだけになっていた。
「いてて」
「我慢しろ」
門馬が慣れた手つきで薬を塗り、包帯を巻いていく。
「しみる」
「凍傷にはなってない。運が良かった」
包帯の巻かれた手は、ヒリヒリと痛む。その手を仕上げに門馬ははたいた。
「痛った!」
「気絶してる奴、簀巻きにして湯に突っ込むか?普通」
俺の作戦に門馬はご立腹のようだ。
「ちゃんと溺れないようにしといただろ」
ヒリヒリする手をさすりながら答えた。雪女をおびき出すため門馬が気絶した後大浴場に運び、入り口から離れた向こう岸の一番深度の浅いジャグジーに、半分身体が出るように結びつけておいた。その後風呂すべてに蓋を敷き詰め、湯を流し入れ襲撃に備える工作をした。
「顔に濡れタオル被せてただろ。息苦しくて目が覚めた」
「ちゃんと隙間あけてただろ。雪女が息の根止まった時に迎えに来るって言うからさ。とりあえず息してなさそうだったらいいかなって」
「いいかなって?危うく殺されかけた」
「短期決戦で勝負付けたからいいだろ」
雪女、早く来てくれと祈りながら大浴場で待つスリルはなかなかのものだった。
「でも、まぁ、今回は俺の落ち度もあったから、許す。けど次は許さん」
門馬は控えめに自分の非を認めた。
「昔から雪女は子供をなくした老夫婦や、妻を亡くした夫の元に現れる事が多い。人の寂しさにつけ込む怪異だ。自分は大丈夫だと思い込んで、隙を見せた俺の失敗だ」
正式に非を認めた。これはきっと明日は雪だ。
「寂しかったら甘えていいんだぞ」
珍しくしおらしい門馬が心なしかしょんぼりして見えたので、肩に手を回し、もう片方手で頭をかき回した。
「真剣にやめろ。お前に甘えるくらいなら雪女に甘える」
門馬は俺の手から逃れようともがいている。
「雪女と言えば、美女とのキスの感想は?」
そのせいで危うく死ぬところだった訳だが。するとげんなりした顔で門馬は答えた。
「あの時はまだ母親に見えてたから、一気に正気に戻った」
それは俺でも飛び起きる。
「そういえば、櫛だけ残ってたけど、なんなんだろ」
頭に浮かんだイメージを振り払うため、わざと話題を変えた。
「よく聞く昔話に、人間と雪女が夫婦になる話があるだろう。その話の中で、夫が妻である雪女に櫛を贈るんだ」
「じゃあ、その櫛を大事に持ってたってこと?」
「そうかもな」
雪女の残した赤い櫛を手に取り、眺める門馬。
「門馬のこと、一緒に連れて行きたがってたくらいだから、その夫に似てたんじゃない?」
「似てたら誰でもいいのか」
「もう夫には会えないけど、似た面影を見るとつい、みたいな」
夕飯の時に聞いた、おかみさんの旦那さんの話を思い出しながら言った。
「迷惑な話」
門馬は櫛を手のひらに乗せてぽつりと言った。
「そうだな」
雪女のことを考えながら、俺は相槌を打った。
二人で外に出て雪を掘り、櫛を地面に埋めた。
「向こうでは一緒になれるといいな」
死後の世界があるのかはわからないがそう思う。
雪が止み、夜明けの日の光で茜色に染まった空に照らされた雪山は、櫛と同じ美しい緋色をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます