8, 罪咎の応報

 乾いた風が電線に切られて、悲鳴じみた甲高い声で鳴いている。

 ここ数日で気温が急に下がったような気がする。外を出歩くときには厚手のコートが欲しいし、今日は風が強いせいもあってか、往来ではマフラーを巻いている人もそこそこ見受けられる。

 初冬の冷気は屋内にも入り込んできて、店の中でじっと座っていると足先が冷えて痛くなる。昨日メノウが、気休めだけど、と言いながら電気ストーブを出してくれたけど、本当に気休めにしかなっていない。冗談半分に文句を言ったら、彼は「もう少し寒くなったら石炭ストーブを出すよ」と答えたものの、出すのが面倒だからか、それとも棚や商品に煤が付くのが嫌だからか、あまり気乗りしている顔ではなかった。

 棚の埃取りと床掃除を済ませて、メノウの淹れてくれた紅茶を飲んで息をつく。いつもと同じ仕事、いつもと同じ紅茶。……紅茶の味が変わらないのは本当に訳がわからない。味は勿論、色も濃さも香り温度も、昨日とすっかり同じものが出てくる。コツがあるのだろうか、それにしてもあまりに違いがないので、実はメノウはそういうギフトも持っているんじゃないかと疑いたくなる。

 紅茶を覗き込んで訝んでいたら、メノウは突然、

「そういえば、もう一週間経つね」

 と言ってきた。

 多分、メノウはほんの世間話をするつもりだっただけで、その言葉にも大した意図はなかったと思う。でも、言った直後になにかに気づいたように「あ」と短く発して、

「あんまり、ミカの前であいつの話はするべきじゃなかったですね」

 と、申し訳無さそうに苦笑した。

 今日で一週間……あぁ、そうか。ヒタキさんのお父さんの葬儀があってから、もう一週間か。

「そこまで気にしませんよ。ヒタキさんのことは……その、心配ですけど」

 葬儀の日以来、私はヒタキさんの姿を見ていない。私を避けているのかと思っていたら、誰に聞いても彼を見ていないと言うので、どうやらただ、ヒタキさんが人を避けているのか、家に籠もっているだけのようだ。

 心配だと言ったのは嘘ではない。でも正直、町中で彼と出くわさないことをありがたいとも思っていた。悪魔のこともそうだし、葬儀の直後の件もあって、彼と会ったときにどんな顔で何を言えばいいのかが分からなかった。

「そういえば、私、まだ借りた喪服を返してないんですよ」

 メノウが気を使ってくれたんだし、少し話題を変えようと思ってまず頭に浮かんだのは、部屋のワードローブに掛けたままの、私にはオーバーサイズな黒いドレスのことだった。

「クリーニングは済んでるので、後でアザミさんのところに持って行かないと」

「ああぁ、アレ、アザミが以前にもういらないって言ってた気がします。管理者はどうせああいう喪服は着ないからって。頼めば多分譲ってもらえますよ」

「あの服は私には袖が長すぎて……やっぱり、自分のは自分のでちゃんと仕立ててもらわないと」

「喪服なんてそう頻繁に使うものでもないし、袖丈なら詰めてくれる人を知ってるので、よければ紹介しましょうか? 時間はかかるけど胴回りも直してくれますし。すごく腕が良くて、その分お代はちょっと張りますけど、仕立てるよりはずっと安く済みますから」

「それなら、じゃあ、お直しのお願いしようかな。あ、その前にちゃんとアザミさんに確認しないとですね」

「どうせそのうち電話してくるか、直接こっちに顔を見せるでしょう」

 電話が鳴りだした。メノウは「噂をすれば、ってやつですね」と笑って、悠長に受話器を取った。

「はい、時計屋のメノウです……え?」

 気だるく答えてすぐ、メノウは少し驚いたような顔をした。そして電話の相手と二、三、言葉を交わしたあとに、彼の表情は急に曇った。やり取りの合間合間に、メノウの「えぇ……」いう不平を含んだ溜息が何度も聞こえる。

 それでもどうにか話はまとまったらしく、メノウは最後に「僕もできる限り急ぎますけど、かなり割増ししますよ」と捨て台詞のように言って相手の返事も聞かずに受話器を置いた。

「アザミじゃなかった」

「何かあったんですか?」

 と訊ねたら、メノウは苛立った声で言った。

「急な仕事が入りました。今すぐ水時計が必要だって。……ったく、すぐには無理ですよ」

「珍しいですね」

「そういうのが嫌だから、こんな店をやってるはずなんですけどね。今から作らなきゃなんで、しばらく店番、頼みます」

 頼みます、と言われても、テーブルの上の青の水時計の水は、まだしばらく落ちきりそうにない。

 誰も来ないですよ、と伝えようと振り返ったときには、メノウの姿は工房のある店の奥へと消えていた。

 私は短く息を吐いて、電気ストーブを自分の方へ寄せた。

 少し、メノウを気の毒だと思った。そしてふと、メノウを振り回しているのは、ある意味、ギフトなんじゃないかなと思いついた。メノウは、それは違うって言いそうだけど。

 ギフトを羨ましいと思うことは、実は度々ある。別に、具体的にこういう能力が欲しい、みたいな願望があるわけじゃない。ただ自分も不思議な力を使ってみたいという、言わば好奇心だ。あるいは、ギフトを持った人たちが、何か特別な存在に思えて、自分もそういう特別な存在になってみたいと思っているところもあるのかもしれない。

 ただ、特別な存在になるということは、殆ど同義として、唯一の存在になるということだ。

唯一である以上、誰かがそのギフトを必要とするのならば、否応なしに応じざるを得ない。ちょうど今のメノウのように、だ。

 それはつまり、ギフトに振り回されてるってことなんじゃないかな、と思う。

 尤も、メノウはこれが仕事だし、仕方がないと言ってしまえばその通りだ。でも、誰も彼もギフトを生業にしてるわけじゃない。身近では例えば、ノイバラは掃除屋でもなければなんでも消却屋でもないし、それでもアザミさんに呼ばれてあの場に来てくれたのは、消滅のギフトを持っているのが彼女だけだからだ。……あれは結局無駄足だったけど。

 そういう様を見てると、ギフトってそんなにいいものでも無いのかなって気もしてくる。あるいはいっそ、他人が必要としないような、自分の役にしか立たないギフトなら、そういう面倒なことを考えずに済むかな。

 そのあと暫くの間、私は他人の役に立たないギフトを色々と考えてみた。考えたところで私が使えるわけでもないし、ただのお遊びだ。実際考えると案外難しいもので、他人の役に立たないと言うより、ただただくだらないだけのギフトばかりが思いつく。

 三つ目だったか四つ目だったか、ちょうど、宙に一センチメートルだけ浮くパンケーキを焼くギフトを思いついたとき、工房からメノウが戻ってきた。チャコールグレーのコートを羽織って、手にはいつだった私が貰ったのと同じ柄の紙袋を下げている。顔はどことなく、さっきよりやつれているように見えた。

「すみません、一人で暇させて」

「いえ、ちょっと考え事をしていたので」

「なら、いいんですけど。……本でもあると良かったですね」

確かに、本はあると良いかもしれない。普段も暇な時間の多い仕事だし、店にも数冊置いておきたい。

「本、そういえばここに来てから全然読んでないですね」

「じゃあ、今度買いに行きましょう。今日は残念ながら、今からこの水時計を届けないといけないので。ミカにはこのあとも店番を……」

 メノウは青の水時計を確認して、言葉を切った。

「いや、今日はもう閉めちゃいましょう。誰も来ないですし」

「いいんですか? 電話は来るかもしれませんよ?」

「どうせ僕がいなければ、急ぎの仕事は頼まれてもどうしようもないですから」

 それもそうか。ここにいても私にできるのは、それこそ誰の役に立つのかまるで分からない砂時計を売ることくらいだ。

「バスの時間が近いので、店の施錠まで頼んでいいですか? 鍵は明日持ってきてくれればいいので」

 メノウは捲し立てるように言いながら私に装飾のない銀色の鍵を押し付けて、コートの裾をなびかせて店を出ていった。

「行って……らっしゃい」

 メノウが不在なのにいつまでも店を開けておくわけには行かないし、私もさっさと仕事を上がらなきゃいけない。

 私のカップと、まだ飲みかけのメノウのカップを下げて洗って、電気ストーブを消して、渡された鍵でドアを施錠する。あぁ、ドアに掛けてある看板もひっくり返しておかないと。

「これでいいかな」

 一通り終えて、なんとなく手をはたいてみた。そうすると、一仕事終えた、って気分になれた。私は店の掃除をしたくらいで、仕事らしい仕事なんてしてないけど。でもそれはいつものことか。

 さて、と私は伸びをした。今日はこのあとどうしようか。

 時刻はまだ昼前、昼食にも早い。アザミさんに喪服を返しに……あぁ、喪服は貰えるかもしれないんだっけ。じゃあそれはメノウさんがいるときに行けばいいや。それにあの人は、別にいつ行っても店にいるだろう。折角、昼間から暇なんだし、あまり普段しないようなことをしたり、行かないようなところに行きたい。

 しばらく悩んで、私はヤマネコさんのところへ挨拶に行くことに決めた。ヤマネコさんのことは町中で時折見かけることはあったけど、ちゃんと顔を合わせたのは今の部屋に入居したあとに挨拶をしにいった時が最後だ。あの時はお金もなくて何もお礼が渡せなくて、そのうち、ちゃんとしたお礼をしに行かなけばと思っていた。

 まずは、贈答品を買いに行こう。そのあとどこかで昼食をとって、大体二時にはなるかな。そのくらいの時間になるとヤマネコさんはいつも手が空いて暇そうにしていた。挨拶に伺うなら丁度いい時間良いだろう。

 肝心の贈答品は何にしようかな。ありがちなのは菓子詰めとかだろうか。無難そうだけど、ヤマネコさんが甘いものを好むかちょっと覚えがない。あの人のことで真っ先に思い浮かぶのは……煙草だ。彼女は暇な時はいつも煙草を咥えていたし、極度の愛煙家なのは間違いない。でも、煙草はナシだな。贈答品、って感じじゃないし、それに銘柄とかそういうのは、私には全然分からない。

 とりあえず、モール街へ行って色々見て回ってみよう。見てるうちにきっと何か思いつくだろう。少なくとも、水時計屋の前で首を捻り続けたところで大したアイデアは出そうにない。


「うーん、悩むなぁ」

 文具屋を出ながら、思わず独りごちた。万年筆という発想は自分でもそれほど悪くないと思ったけど、仕事道具を他人に贈られるのはどうなのだろうと躊躇してしまった。

 モール街には既に何度か来たことがあった。でも、贈答品を選びに来たのは今日が初めてだ。そのせいか、普段なんとなく通り過ぎていたような店のショーケースにもついつい目が留まってしまう。なんだかあれもこれも良さそうなものに見えて、かえって何も決められない。

 やっぱり最初に見た花屋で決めるべきかな。鉢植えなら宿のカウンターにでも飾ってもらえるだろうし。でもこれからもっと寒くなるし、服屋でケープを買うのも悪くない気がする。

 悩んだ末に結局、私はもう一度花屋に行くことにした。花についてだって私は大して詳しいわけじゃないけど、店員さんは優しそうだったし、悩んだら色々聞いてみればいいだろう。この時期に咲く花って何があったっけ。カトレアとか? あ、まだちょっと先だけど、ポインセチアとかクリスマスローズなんかも、季節感があっていいかもしれない。

 花屋の方へ振り向いた時、ちょうど、脇の路地から誰かが出てきて、偶然、目があった。

 最初、それが誰だか分からなかった。目深に被った中折れ帽と、口元を隠すように巻かれたマフラーのせいで、顔を見分けるのに時間を要した。

「ヒタキ……さん?」

 恐る恐る尋ねると、彼は口元のマフラーを引き下げて顔を見せた。

「その……お久しぶりです、ミカさん」

 バツの悪そうな表情だったけど、声は柔らかかった。

「全然顔を見ないので心配だったんですけど、お元気そうで良かったです」

「ご心配をお掛けしました。葬儀の後、ちょっと色々あって、家に籠もりきりだったんです。今日は久しぶりに外に出ました」

 思うところはあるし、それはお互い様だろうけど、とりあえず彼の物腰が穏やかなことに私は安堵した。

「えっと、その……」

 彼は何かを言いかけて口籠った。顔色を伺うような視線で、二、三度瞬きをする。そうしてしばらく黙り込んで、私の方から何か言うべきかなと思いかけた頃、意を決したように、彼は口を開いた。

「……ミカさんの所へは後で伺うつもりだったんです。あなたには酷いことを言った。ぼくはあなたに謝らなきゃいけないし、それに、あなたに伝えておきたいこともある。でもまさかこんなところで会うとは思っていなくて。どうしようかと迷いましたが、後で出直す理由もないな、と。突然で申し訳ありませんが、少し、お時間をいただけませんか?」

「私はこのあと……いえ、大丈夫です。時間はあります」

 一瞬、断ろうと思ったけど、すぐに思い直した。まだ花も選んでいないし、ヤマネコさんのところへ行くのはまた今度でいい。それに、本心はどうあれ謝ると言ってくれたヒタキさんを無下にするのは悪い気がした。

 私が断らなかったことにホッとしたのか、ヒタキさんの表情が少し緩んだ。

「ありがとうございます。場所を変えましょう。町中で立ち話する話題でもないですし」

 ヒタキさんは私に付いてくるよう目配せして、モール街の出口の方へと歩き出した。

「どこへ行くんですか?」

 私が尋ねると、彼は

「見せたいものがあるんです」

 とだけ言ってそれとなくはぐらかした。

 途中、大通りに出たあたりで、ヒタキさんは少し前を歩く女性を呼び止めた。

「ナナカマドさん?」

 急に呼ばれて驚いたのか、女性は軽く飛び跳ね、勢いよくこちらに振り向た。

 女性の顔に、私は見覚えはなかった。年は若いようだけど、長い三編みと瓶底眼鏡のせいか、野暮ったい印象を受ける。

「やっぱりだ。お久しぶりです」

「あっ、いえっ、こちらこそっ、お久しぶりですっ」

 ナナカマドというらしい女性は、小動物のような忙しない挙動で、一言発するごとにペコペコと頭を下げた。お辞儀をするたびに瓶底眼鏡が落ちそうになるので、見ていてすごくハラハラする。

「珍しいですね、こんな昼間にここにいるなんて。お仕事はお休みですか?」

「いえ、一応仕事中なんですけど、その……実は、追い出されちゃって。あぁいえ、クビではないんですけど」

「何かやらかしたんですか?」

「やらかしたっていうか、工房の方でトラブルがあって朝からてんてこ舞いだったらしくて、それを知らなくてちょっと間が悪い事しちゃって、居るだけ邪魔だって。どうせ書類仕事だし、どこかでお茶でも飲みながらやればいいかなって、逃げてきたんです」

「それは……大変ですね。じゃあ、工房にはまだ戻られないんですか?」

「戻らないっていうか、戻れないですね、ちょっと」

 ナナカマドさんはそう言って気まずそうに笑った。

「まだこちらに居るのでしたら、もしよければ、アザミに伝言を頼めませんか?」

「アザミさんに、ですか?」

 ええ、とヒタキさんは頷いた。

「彼女にちょっと用があったんですけど、さっき店を覗いたら姿がなくて。昼食にでも出てるのかな、あと一時間もすれば戻ってくると思うので、その頃になったら彼女の店に行って、これを渡してもらえませんか?」

 ヒタキさんはコートの内ポケットから、四つ折りにされた白い紙を取り出して、ナナカマドさんに差し出した。

「アザミにそれを読んでもらえれば伝わると思うので」

「それくらいでしたら」

 ヒタキさんから紙を受け取って、ナナカマドさんはそれをショルダーバッグの外ポケットに仕舞った。

「よろしくお願いします。アザミは大体一時間で店に戻ると思うので」

 念を押すようにそう繰り返して、ヒタキさんは頭を下げた。ナナカマドさんはやや釈然としない顔をしつつつも、わかりました、と軽く会釈してどこかへと立ち去っていった。

「ミカさんは、ナナカマドさんとは面識はありませんでしたか?」

「そうですね、顔ぐらいはどこかで見てるのかしれませんけど」

「どうでしょう。彼女の職場はガラス工房なので、今日みたいに中心街に居るのは珍しいんですよ。」

「ガラス工房って、もしかしてカモシカさんの?」

「ガラス工房はご存知でしたか」

 カモシカさんのガラス工房の話を聞いたのは……ここに来たばかりの頃、もう一月も前の話か。結局、ガラス工房にはまだ一度も行ったことがない。

「そこのカモシカさんって方ががすごくいい人だって、前にアザミさんから聞いたことがあって」

 えぇ、ヒタキさんは頷いた。

「彼女はとてもいい人ですよ。……本当に」

 

 ヒタキさんの向かっている先が教会だと最初に気づいたのは、中心街を抜ける頃だった。同じ方向にヒタキさんの家があるのかもしれないとも考えたけど、オルゴール屋が中心街からそんな遠くに離れているとも考えにくい。

 案の定、ヒタキさんの足は違うことなく教会へ向かっていく。

「教会に、何かあるんですか?」

 流石にもうはぐらかす気はないだろうと思って訊ねると、意外なことにヒタキさんは首を横に振った。

「教会に用があるわけじゃないんです」

 そう答えたものの、ヒタキさんは教会の扉を開けて中へと入って行った。疑心を抱きつつ、私も彼のあとに続いた。

「この町の墓地は教会の地下にあるという話は、ご存知ですか?」

「先週、聞きました」

 あぁ、とヒタキさんは微かに呻いた。

「先週は、本当に申し訳ありませんでした。折角、父の葬儀に来ていただいたのに」

「私は、気にしてませんから」

 私がそう答えると、ヒタキさんは深々と頭を下げた。

 実際、あの件についてはメノウやノイバラのほうがよっぽど憤っているよう。二人が私の味方をしてくれるのは嬉しいけど、ヒタキさんにももうちょっと同情してあげて欲しいと思った。

 ヒタキさんは左の袖廊へ進んで、突き当りにある両開きの扉をギィと開いた。

「この先に墓地があります。外から来た人はよく、墓地と言うより霊廟だなんて言いますね。むしろぼくには野ざらしの墓地というものの方のがピンとこないです」

 扉の先は螺旋階段になっていて、地下の暗い闇の中へと続いていた。低い天井に等間隔に吊るされた裸電球が、岩を削り掘ったような壁面を照らし出した。足元は一層暗く、階段のの影を見て取るのがやっとだ。

「明かりを点けてもよく見えないですね」

「ぼくは慣れていますけど、ミカさんには懐中電灯でもあればよかったですね。ゆっくり降りましょう。足元に気をつけてください」

 ヒタキさんは慣れた足取りで螺旋階段を降りていく。途中途中で、踏み外さないようにとたどたどしく降りる私を気遣って、何度も立ち止まって待ってくれた。

「長いですね」

 降りても降りても階段の底に辿り着く様子はないし、ヒタキさんもただ黙々と進んでいく。

「墓地は結構深いところにあります。地盤が硬いとは言え、あまり浅いところを掘ると教会の基礎が歪んじゃいますからね」

「誰かが掘ったんですか? こんな深い地下を?」

 どうでしょう、とヒタキさんは首を傾げた。

「もともとあった地下空洞まで螺旋階段をつなげただけ、って話もありますし、あるいは、地下空間を生み出せるギフト使いギフテッドがいたのならそれで事足りてしまいます。墓地も教会と同じく、この町で最も古い構造物の一つです。実のところどうだったかは、確かめないことには分かりません」

「確かめる……あぁ、手記、でしたっけ? この町の全てが記録されているっていう」

「手記は確かに強力ですけど、あれもまた伝説の中の存在です。語り継がれている逸話が真実とは限らない。手記と呼ばれているものが、実はただの白紙のメモ帳だったとしても何も不思議じゃないんです」

 以前ヒタキさんは『手記』の実在性について強く主張していた気がする。だから、そういう一歩引いた見方をしていたのはちょっと意外だった。

「何も手記だけが手立てじゃない。どんなものだって現実に存在するのなら、痕跡を辿ることはできる。できると言っても、とても困難で気の遠くなる作業です。この町では殊更に。でも、必要ならやらなきゃいけないし、やるだけの意味と価値はあると、ぼくは思っています」

 唐突に、螺旋階段が終わった。先には、上の入り口と同じような両開きの扉がある。

「着きました。墓地です」

 閂を外し、扉を開ける。扉のそばにぶら下がっているスイッチを入れると、螺旋階段と同じ裸電球が、辺りを照らし出した。

 私は言葉を失った。そこには、私の知る墓地とはおよそかけ離れた光景が広がっていた。

 出入り口の周りは半円形の少し広さのある空間になっている。その空間から放射状に、幅三メートルほどの通路が幾本も伸びている。そして通路の両脇に、葬儀で見たものと同じ巨大な標本瓶が、等間隔に立てかけられていた。そこに墓石と呼べそうなものはなく、ただ遺体を収めたガラス瓶が、裸電球の光を冷たく反射している。

「不気味ですか?」

 呆然とする私に、ヒタキさんが訊ねた。

「不気味っていうか……本当に見慣れない光景で、その、なんて言えば良いんだろ、ただただびっくりしちゃって」

「こればっかりはぼくも、そのうち慣れますよ、とは言えませんね。墓地は管理者のぼくでもあまり出入りする場所ではありませんし、この光景を前に平気な顔をしていられるのはアザミくらいでしょう」

 口ではそう言う割に、ヒタキさんは動じる様子もなく通路の一つへと入って行く。どこへ向かうのも分からないまま、私は彼の後ろに続いた。

 人間の標本が無数に並び立つ様は、間近で見るとより一層異様だった。ギフトのホルマリンで固定された遺体は、たとえ何百年前のものであろうと、つい昨日死んだばかりかのように変質や溶解を起こすことなく細部まで形を保っている。まるで、この墓地の中だけ時が止まっているかのようだった。

「ここに、この町で今までに亡くなった全ての人が眠っているんですよね」

「そうですね。だから、墓地はものすごく広大です。でも入り口はあそこ一つで、当然古い遺体ほど入り口に近いので、最近の遺体ほど、遠くて入り組んだ場所に安置されることになります」

 墓地に入ってから、少なくとも十五分は歩いた。途中何度か道が枝分かれしていて、ヒタキさんはその度に迷う様子もなく道を選んで進んでいった。道を暗記しているのではなく、なにか法則性があるのかもしれない。

 ヒタキさんが立ち止まったのは、並び立つ標本瓶の一番端、つまり、この町で最も最近に亡くなった人の墓の前だった。

 標本瓶の中に眠っているのは、先週の葬儀で見た初老の男性――ヒタキさんのお父さんだ。

 ヒタキさんは胸の前で手を組んで、目を閉じて遺体に祈りを捧げた。私も、彼の所作に倣って祈りを捧げる。

「お墓参り、でしたか」

 祈りを終えると、私はヒタキさんに訊ねた。ヒタキさんはゆっくりと、組んでいた手を解いた。

「それと、ミカさんに父の話をしようと思って」

「話、ですか?」

 何故私に話を? そして何故この場所で?

 複数の疑問は混じり合って、私の口からは「どうして?」という問いだけが吐き出された。

 ヒタキさんは困り果てたような顔で曖昧に笑った。

「理由だけを説明するのは難しいです。ある意味で、ミカさんにその理解を求めるための話でもありますから。とりあえずは、これはお互いにとって必要な話だ、ということだけ納得してもらえませんか」

「……分かりました」

 ヒタキさんは感謝を示すように軽く頭を下げた。上げた顔を目の前の標本へ向け、物語でも読み聞かせるような声調で語り始めた。

「父も、ぼくと同じオルゴール職人でした。あるいは、先代の『壊れた悪魔』の管理者、と言ったほうがいいでしょうか。父は三十年もの間、管理者を務めていましたし、実際未だに、管理者と言えば父を思い浮かべる人も多いです。でもミカさんは、あまり父のことはご存じないですよね」

「そうですね……お顔を見たのも先週の葬儀が初めてでした。私がこの町に来た時には既に、管理者はヒタキさんでしたから」

「ぼくが父から管理者の役職を継いだのは半年前です。ですが父は、悪魔についての知識の多くをぼくに伝えないままに死んでしまった。父が悪魔についてどこまで知っていたのかは、遺品整理をしている際に初めて分かりました。父の書斎から、悪魔に関して書かれた数冊のノートと無数のメモをが出てきたんです。記述の多くは断片的で、特にメモの方は文字も殴り書きのように乱雑だったため、内容を理解するのに時間を要しました。この一週間、ぼくが家から出られなかったのは、父の残したノートとメモの解読と、情報の整理をしていたからです」

 ヒタキさんがずっと姿を見せなかった理由に少し、ホッとした。勿論、黙って隠している内心もあるだろうけど。

「驚くことに、そこに書かれていたものの多くは伝聞ではなく、父自身が独自に調べ、研究したものでした。父は管理者の役職を超えて、悪魔の正体そのものに迫ろうとしていたようです」

「悪魔について、何か分かったんですか?」

 ヒタキさんは残念そうに首を振った。

「父の資料からいくつかの事実ははっきりしましたけど、ほとんどの記述は憶測止まりでした。それが父の限界だった。父がぼくに何も語らなかったのは、結局確かなことが何一つとしてなかったからでしょう」

「……そう、ですか」

 一瞬、何か分かれば、と期待していた。それが純粋な感情ではないことはなんとなく自覚できた。悪魔も、そして天使も、何もかも元に戻れば、私の心はきっと少し軽くなる。あれは私の罪とは言えないからこそ、罪悪感が未だに重い。

「父が何故そこまでしようとしたのか、恐らく、理由は母にあったのだと思います。メモの中にはいくつも、母のことを指すと思われる言葉が残されていました」

「ヒタキさんのお母さんは……」

 まだご存命ですか、とは流石に聞けなくて、語尾を濁した。でも、葬儀のときにもそれらしい人の姿を見ていないから、なんとなく察してはいた。

 ヒタキさんは無言で首肯した。

「えぇ。その上、ぼくは母について何も覚えていません。そして残酷なことに、それは父も同じでした。ほんの二十年足らずの間に、父は母についての記憶のほとんどを失ってしまった」

「この町の性質によって……奪われた」

「確かにこの町の人はみな忘れっぽい。でも、二十年で一人の人間のことを何もかも忘れてしまうなんてことは普通はない。何か特別な理由があるとするなら……それは考えるまでもない。――父が、『壊れた悪魔』の管理者だったからです。管理者としして悪魔と密接に関わり続けたからこそ母に関する全ては悪魔によって奪われた。父はそう考えたようです」

「それは……」

 何か言おうとして、結局言葉に詰まる。愛したはずの人のことを何もかも忘れてしまう。それがどれほどやるせない事なのか私の想像は及ばない。全て悪魔のせいだと分かっていて、それなのに悪魔について確かなことは何もわからない。そう考えるとヒタキのお父さんが悪魔の正体を暴こうとしたことに、それほど飛躍はない。実直で純粋な感情だ。

「父は一度密かに『壊れた悪魔』の構造をかなり深部まで調べたことがあったようです。その際の記録はノートの方にまとめられていました。かなり興味深い記録です。……それでも悪魔の正体に迫るには程遠かったのですけど。記録によると、傷を自己修復する『壊れた悪魔』の性質は、構造の深部になればなるほど弱まっていたそうです。表面部の歯車に刻んだ傷は概ね一ヶ月で完全に消えてしまうのに対して、管理者でも普段触れないような奥部は、相当数の擦過傷や、歪んだままのシャフトが見受けられた。そこで父は、一つ仮説を立てました。……悪魔は実は、この歯車の塊の中に囚われているわけではないのではないか、と。勿論、悪魔そのものの存在まで疑ったわけではないです。悪魔が存在しなければ『壊れた悪魔』の特異な性質を説明できませんから。ただ、悪魔が存在するのは『壊れた悪魔』の外側なのではないか、そう考えたほうが、傷の修復能力が奥部より表面でより顕著に作用する現象の説明がつく、というのが、父の見解でした」

「じゃあ、逆に『壊れた悪魔』って、一体何なんでしょう。あれそのものはただの歯車の塊ってことですか」

 ヒタキさんは肩をすくめて、何なんでしょうね、と小声で呟いた。

「父の仮説が正しいのならば、『壊れた悪魔』は最早、檻でもなければ罠でもない。しかし、ただの奇妙なオブジェというだけでは無いことも確かです。一度完全にバラされた結果、自己修復の性質は失われた、あれが悪魔と呼ばれる存在との間に何らかの作用を持っていたこと、そして今は悪魔との作用が失われていることは間違いない。性質を失った今でも『壊れた悪魔』が悪魔に至る重要な手がかりであることに変わりはありません」

 ヒタキさんは標本瓶にそっと触れた。

「ぼくは父の遺志を継いで悪魔の正体に迫り、そして管理者として、逃げ出した悪魔を再び捕まえなければならない……いや、逃げ出したというのは恐らく間違いです。悪魔の本分は人々に不幸をもたらし、苦しむ様をあざ笑うことです。なら、今なおこの町に座して、悪事を働く機会を眈々と伺っているはずだ。では、それなら、悪魔は今どこにいるのか」

 彼はポケットから、小さなメモ紙を取り出して、私の方に差し出した。

「父の最後のメモです。これだけは書斎ではなく、寝室に落ちていました。父はこのメモを残して、翌日、死んだ」

 私はメモを受け取って、裸電球の明かりに照らした。メモには一言k「悪魔は、人の内に巣食う」とだけ書いてあった。

「父のメモの中で数少ない、断定的な言葉です。ありがちな警句とも取れますけど、この言葉の真意は、恐らくそうではないでしょう」

「真意?」

 ヒタキさんは少しうつむいて唇を噛んだ。そして私の顔を見つめた。その視線には微かに憐憫の色が混じっているような気がした。

「最初に言っておきます。多分、初めから、あなたは何も悪くなかった。そして今も何も知らない。ぼくもあなたに対して、無知が罪だとまで言う気はないです。元を辿れは偶然でもないのかもしれないけど、何れにせよ、これはあなたの咎ではない。ですが、果たしてどこまでが偶然と言えるのか。あなたが触れて『死んだ天使』の標本瓶は爆ぜ、天使は消えた。それは偶然でしょうか? そもそも、あなたが標本瓶に触れたことも、ほんの気まぐれだったと言って済ませてしまっていいのか。何もかもが偶然で片付くなんてことはあり得ない。あり得ないのなら、そこには何かが必ずある」

「何か、って……何が……?」

「『悪魔は、人の内に巣食う』。それが答えです」

 一瞬、ヒタキさんの手元で何かがキラリと光った、その直後、彼は何かを握った手を私の脇腹に押しつけた。

「……何、っ?」

 手を押し付けられた脇腹から赤黒いものが染み出してくることに気づいたのと、鋭い痛みを覚えたのは同時だった。

「人に罪があるとするなら、それは悪魔を宿すことだ」

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