6, 歯車
「……嫌なら無理に行く必要はないですよ。僕が話を聞いてくれば事足りる」
ミカには、電話はアザミからだったことと、ミカに教会へ来るよう言ってきたことだけを伝えた。ようやく落ち着いてきた彼女に、悪魔が逃げましたなんてそのまま伝えられるはずもないし、そもそも悪魔が逃げたってどういう意味だ。訳の分からない断片的な情報で彼女の不安を悪戯に煽りたくなかった。
淹れ直した紅茶のカップに視線を落として、ミカは一瞬考え込んだ。
「いえ、大丈夫です。行きます」
と答えたものの、表情は沈鬱としていた。
「……私が逃げても、仕方がないので」
彼女の言いたいことは分かる。でも、果たしてそれを気丈と言っていいだろうか。僕にはある種の自棄のようにも思えた。
雨音は大分小さくなったものの、それでも教会まで行くなら傘が欲しかった。
ミカには、いつだったかアザミが忘れていった傘を貸した。真っ赤な無地の傘。お世辞にも趣味が良いとは言えない。でも物は良いらしく、僕の傘より大分軽い。
教会のファサードの軒の下には三人の人影があった。アザミとヒタキと、ミカより拳一つ分くらい背の低いあれは……ノイバラか。
ノイバラは――赤毛の少女で、確か十四だったと思う――藪睨みの目を更に吊り上げてサロペットスカートのポケットに両手を突っ込んでムスッとしていた。
「メノウ、遅い」
苛立った口調で、ノイバラが言った。
「中で座って待ってればいいのに」
「あんな臭いところに居られるわけ無いでしょ、バカなの?」
言い返されて、僕は肩をすくめた。
「アザミもアザミだよ。掃除手伝って欲しいって言うから朝から雨の中こんな所まで来たのに、ぶち撒けたホルマリンの掃除だなんて聞いてないよ」
「アンタならこういうのでもいけると思ったんだけどナ」
「だから、床板全部ごっそり消せって言うならできるよ。でも、板に染み込んだホルマリンだけ都合よく抜き取ってくれなんて無理に決まってるでしょ」
「あぁ、無理なんだ。知らなかった」
「結構使い勝手悪いのよ、私のギフト。都合のいいギフトなんてそうそうないの」
「それには……同意するよ」
会話が途切れた。沈黙が重いのは気のせいじゃない。アザミは柄にもなくバツの悪そうな顔をしているし、ヒタキはじっとミカを睨みつけている。
結局、沈黙を破って口を開いたのはノイバラだった。
「そう言えばアンタ、見ない顔ね。アンタがミカ? 天使の標本を壊したっていう」
「あ、あの、ごめんなさい」
ノイバラはミカの謝罪を無視した。
「私はノイバラ。アザミに駆り出されたから来てるだけで掃除屋でもなんでもからね、覚えておいて」
「えっと、あの……はい」
ミカは困ったように曖昧に返した。
「でも同情するわ。天使は消えるわ悪魔はバラされるわ、厄介なことに巻き込まれて」
「え、悪魔? え?」
当然、ミカは困惑した。ノイバラは「聞いてないの?」と訊き返す。
オイ、とアザミが僕に声を投げた。
「アタシは伝えたぞ?」
「僕が聞かされたのは、悪魔が逃げた、だ。何が言いたいのか全然分からないから伝えてない」
「伝わると思ったんだけどナ」
ブツブツと文句を言うアザミを余所に、ヒタキが教会の扉に手をかけた。
「見ればわかりますよ」
ギィ、と扉を開ける。ホルマリンの臭いが中から漏れ出て鼻をつく。
入り口からでは、電灯も消された薄暗い教会の中の様子を仔細に見て取ることは出来ない。おぼろげに分かるのは、割れた標本瓶が昨日のままであることと、あと、昨日はその隣りにあったはずの歯車の塊の様子が大分変わっていること。
「あまり長居はするなよ」
アタシは外で待つ、とアザミは壁に凭れて腕を組んだ。ノイバラもついてくる様子はない。ミカだけが陰鬱な顔で僕の後ろをついてくる。
ヒタキは険しい顔をしながら建物に入り、電灯をつけた。薄明かりに照らされている昨日のままの標本瓶、それと、歯車の塊。
ノイバラが言うところの「悪魔がバラされた」、あるいはアザミの「悪魔が逃げた」という言葉が何を指すのかはすぐに理解できた。
『壊れた悪魔』は分解されていた。、鎖でぶら下げられているオブジェは一抱えほどの大きさしか無く、代わりに、取り外された無数の歯車はホルマリンの染み込んだ床の上で山を築いていた。無造作に積み上げられているけど、歯車の一つ一つに目立った傷はない。
「見ての通り、『壊れた悪魔』はバラバラに解体されています。今朝方、外の二人とここを開けたときには既にこの有様でした」
「叩き壊されたわけじゃ、無さそうだな」
ヒタキは歯車の一つを拾い上げ、僕とミカの方に突き出した。
「ええ、丁寧に分解されています。しかも、僕が毎月叩き割っていた歯車も、バールで捻じ曲げていたシャフトもこの通り綺麗に修復しています」
ヒタキの手から歯車を手に取る。歯の欠けはおろか擦過傷すら殆どない、研磨したてのように滑らかな真鍮の金属部品だった。
「……人間業じゃないですよ。まともに解体したとするならば、の話ですが。……メノウは、これを成し遂げられるような
「……ないな」
でしょうね、とヒタキは頷いた。
「勿論、ぼくにもありません。この仕事を継ぐときに父に聞かされた話では――父は、先代の悪魔の管理者でしたが――父の更に前、先々代の管理者は、こういう事ができるギフトを持っていたそうです。ですが、今の管理者は何のギフトも持たないぼくです。今は誰もこれをバラせるようなギフトを持っていないから、ぼくが管理者に指名された、そのはずです」
「だから、悪魔が逃げた、ね……」
歯車の一切が修復されれば、迷宮に閉じ込めた悪魔は易々と逃げおおせる。天使と悪魔の伝説に則れば、だけど。
歯車をヒタキに返すと、ヒタキは歯車を元の山に無造作に放り投げた。
「外に出ましょう。もう鼻がもげそうだ」
教会の外で、アザミはしゃがみ込んで手持ち無沙汰そうに雨空を見上げていた。同じく暇そうにしているけど、ノイバラは何故まだ帰らないのだろう。もうここに用もないだろうに。
「……よう、中々凄惨だっただろ」
アザミはそうは言うけど惨状を憂いている様子はなく、声色にはただただ気怠さがにじみ出ている。
「そんなところに座ると白衣の裾、汚れるぞ」
「白衣は汚すための服だ」
でも、アザミはブツブツ文句を言いながら立ち上がり、裾を手で払った。
ヒタキは教会の扉を施錠し、ノブに鎖を巻きつけた。二、三度ノブを揺すり、扉が開かないことを確認して、ヒタキは誰にともなく言った。
「一旦は再封鎖します。ホルマリンの掃除はまた何か考えなきゃいけない」
ノイバラが鼻を鳴らす。
「悪かったわね、私じゃなんにもできなくて」
彼女は悪びれるでなく、むしろ不貞腐れていた。ヒタキは、
「誰が悪いとか……そういうことを言いたいわけじゃないです」
と、歯切れ悪く返した。視線は一瞬、僕の後ろに隠れたまま何も言わないミカを見た気がした。
「……最優先は原状回復です。幸い、『壊れた悪魔』を元通りにするのはバラされた歯車を組み立て直せば事足ります。組み立て直したものが以前と同じ性質を示すかは分かりませんが。父の手も借りれば二週間あれば間に合うでしょうし、ただただ面倒、というそれだけなんですよ」
自分の管理物がバラされて、胸にわだかまるものが無いわけではないだろうけど、ヒタキは何でも無いことかのように素っ気なくそう言った。彼の表情がどこか無理に取り作っているように見えるのは、単に僕がそうであってほしいと思っているからか。何もわからないまま巻き込まれて、僕の影に隠れて今にも死にそうな顔で震えているミカに、アザミとヒタキも少しは寄り添えないのかという苛立ち。
ヒタキは何故か僕を一瞥してから、彩度のない空を見上げた。雨は未だ降り止む様子はない。
「ぼくは帰ります。もうここに居ても仕方ないし。何か手伝えることがあったら連絡してください。標本の残骸が片付かないことにはぼくもアレの組み立て作業ができないので」
それだけ言い残してヒタキは立ち去った。振り返り様、彼はミカの顔を見やって、わずかに目を伏せるだけで何も言わなかった。
ヒタキを見送って、さて、とアザミは伸びをした。品のない欠伸を吐く。
「アタシらも帰ろうか。今日はもうできることもないし」
「アレはどうするの?」
「アンタにどうにも出来ないなら、他にアテもないしチマチマ掃除するサ」
ノイバラに、アザミは心底怠そうに答えた。
「ノイバラは本当に無駄足だったし、時間があるならウチでコーヒーと菓子くらい出してやるよ」
「嬉しいけど、私、アザミの店の臭いダメなのよね」
「じゃあメノウの店行くか。一度戻って菓子は持っていくよ」
アザミ僕に確認もせず勝手なことを言い出した。
「僕とミカさんも大概に無駄足だろ。バラされた歯車を見せるためだけに呼ばれて」
「呼ばないほうが良かったか?」
アザミは心外そうに首を傾げた。
「経緯はどうあれ片足浸かっちまった話なのに、自分の預かり知らないところであれやこれや起きてたら気分が悪いかと思って呼んでやったんだけどナ」
平然とそう宣うアザミが癇に障るけど、言い返す言葉もなくて僕はただ彼女を睨んだ。
アザミの言い分はわかるし、彼女はそういう人間だ。理を優先して、感情をないがしろにして、あと、間が悪い。
僕は溜息だけ吐いて、ミカに「うちに来ますか?」と訊ねた。僅かな間を置いて、ミカはコクリと頷いた。
「ノイバラも、うちの店でいい?」」
「お菓子は食べたいからね」
じゃあ、とアザミがファサードを出ていった。ミカに貸した赤い傘を二度ほど見つめていたけど、それが何かは思い出せなかったらしい。
僕も傘を差そうとして、俯いたまま動かないミカが気になって手を止めた。
「ノイバラ、悪いけど先に行ってお湯沸かしておいて。キッチンの場所、分かるよな」
ポケットから店の鍵を取り出して、ノイバラに渡す。ノイバラはボソッと「……多分」と答えて、ミカをしばらく見つめたあと、無言で軒を出ていった。
ノイバラの傘が雨の中に淡く消えたのを認めてから、僕はミカに訊ねた。
「あの、大丈夫ですか?」
ミカは一瞬顔を上げたけど、小さく首を横に振って、また足元に視線を落としてしまった。
アザミとノイバラをいたずらに待たせるわけにもいかないし、少し無理を言ってでも帰ろうかと思った矢先、ミカが口を開いた。
「あの……メノウさん」
「なんですか?」
「私は、どうすればいいんでしょう」
言ったあとで、訊かれても困りますよね、と苦笑する。
「……いや」
僕は目を伏せた。
これは、僕が悪い。僕の曖昧な言葉で、不安定だったミカは結局、二度傷ついた。
出来る限りのことはする――僕にとっては、自分の責務も考えなければならない重い言葉のつもりだった。でも、ミカからすればあの言葉は、月次で、具体的に何の意味もない空虚な慰めでしか無い。彼女にとって何の支えにもならない。
僕は今一度考え直さなければならない。今朝の言葉を反故にして
「ミカさん」
呼ばれて、ミカが顔を上げる。僕は彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「よければ、うちで働きませんか?」
ミカは困惑して、「えっ?」と聞き返した。
「余裕ないんじゃ、なかったんですか?」
「やろうと思えば、どうにでもなりますよ、案外」
僕は軽く笑って、ほんの思いつきであるかのようにそう答えた。僕の内心を彼女に覚られないように。
誰かが寄り添わなきゃいけない。それは別に僕である必要はないだろうけど、例えばアザミとかに頼むのも違うと思う。成り行きとは言え、僕は彼女に関わりすぎた。
「……どうにでも、ね」
だけど、これは純粋な善意でも献身でもない。僕の言葉の中に微かな打算が孕まれていることに、正直、吐き気もした。
「じゃあ、行きましょうか。アザミの持ってくるお菓子が美味しいことに期待しましょう」
ミカは赤い傘を差して、黙って僕についてきた。
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